白鷺のひと(四)

 顕景は氏秀の希みを忘れなかった。

 輝虎に自ら伝え、裁可を任したのである。

 その後、輝虎と氏秀のあいだでどのような会話がなされたのか、顕景は知らない。

 だが、およそ時をおかずに、輝虎は氏秀を養子として上杉に迎え、自身の前名を与えた。そして、姪にあたる顕景の姉を景虎に娶わせて、越相同盟決裂後も変わることなく春日山内に留めおいたのである。

 日々は、穏やかにうつろっていった。

 ことさら諍いを避けるように、氏秀──景虎は一兵も欲することなく、風流に身をおき、花鳥風月を歌に詠む日々のなかでほほ笑み続けた。

 それが、顕景のただひとつの希みだった。




 かすかな馬の嘶きに、景勝は花を摘む手を止めた。

 樋口与六が、堀端の斜面をすべるように駆け下りてきた。

「いかがいたした」

「は……」

 与六は、景勝が両手いっぱいにかかえた花を見て、戸惑ったように言いよどんだ。

「ただいま加賀御坊よりのお使者がご着到なされました。とくお戻り下さるよう、直江様よりのお言伝てにござります」

「そのようなこと、そなたが遣い走りすることではあるまい」

「左様ではござりまするが……」

 わずかに咎めるような目になった与六に、景勝は苦笑した。近侍も連れずに姿をくらましたのは、景勝の方なのだ。

「よう儂がここにいるとわかったの」

「木立の外に、ご乗馬がございました。いまもお館様をお捜しに、皆が出ております。早うお戻りくだされませ」

「そうか」

 景勝は、花へ手をのばした。

 この四月、反景勝派の重将本庄秀綱を栃尾に滅ぼし、三ケ年にもわたった越後の内乱にようやく決着がついた。

 しかし、息をつくひまもなく織田勢は北陸に迫り、また内乱によって隙が生じ、国内の諸豪族が頻繁に取込まれている気配があった。謙信の急死による混乱はおさまったものの、景勝は周囲を睥睨して、一隙の油断も見せられない状況だった。

「あの、お方様へ差し上げるお花でしょうか。ならば与六が……」

 景勝は膝をつき見上げてくる与六へ、手にした花を差し出した。

「この花の名を存じておるか」

「は、たしか鷺草とか申したように」

 事もなげにかえってきた返答に、景勝は目を見張った。

「なにかこの花が」

「いや。……むかし、この花の名を聞かれたことがあっての。……そうか、鷺草と申すのか」

 これは仏に捧げる供花だった。

 夏になると、誓願寺の墓石に、絶えることなくこの白い花が供えられていた。

 くる年もくる年も、景虎は死者を弔い続けた。

 景勝は、いくたびこの野で、白い花を摘む景虎と過ごしたろうか。

──……この越後に、北条は一兵たりとも入れぬ。

 義兄の声音が甦る。

 殺気立った春日山の闇のなかで、おのれを呼ばわる声があった。

 どうやって警邏の兵の目を逃れて来たのか、女物の袿をかぶった義兄は、突然庭先に姿を現してそう告げた。

──私は今夜中に春日山を下りて、御館に入ろうと思う。そこで生害するゆえ、北条がことはご懸念なさるな。

 義父謙信の急死によってにわかに分裂した国衆は、ふた月ののち、ついに衝突した。

 景勝は、戦など望んでいなかった。

 義父のように、生涯妻を娶らぬつもりだった。後嗣には景虎の子、甥である道満丸を迎え、それに家督を継がせればよいと思っていた。

 だが、鎧直垂に身をつつんだ重臣たちは戦評定を開き、各地に激を飛ばした。

 景虎の実家である北条の影が、謙信なき越後を脅かし始めていたのである。

 景虎は、北条氏康の実子だった。

 その血が、景虎を追いつめた。

 敵も味方も、北条氏秀を求めていた。

 それでも闇にまぎれて去っていく義兄に、景勝は叫んだのだ。

──この景勝を信じて、待っていてくだされ。義父上とて兄上の晴景様と争われたのじゃ。景勝が重臣どもを必ずおさめて、義兄上をこの城にお迎えしますゆえ、決して早まってはなりませ ぞ……!

 本心そう信じていたわけではなかった。

 だが、時をかけて説得していけば、景虎に上杉の家督を継ぐ意思など微塵もないことは、わかってもらえると思っていた。

 なんという思い上がりだったのか。

 なんとういう思慮のなさだったのか。

 今にして思い知る。

──お願いじゃ、義兄上! 必ず生きてくだされ。この景勝を信じて、なにがあっても生きのびてくだされ……!

 その時、景虎が浮かべた微笑が、瞼に焼きついて離れない。

 すでに、景勝に流れを止めるすべはなかった。雪道を転がり落ちる達磨のように、両陣の軍勢は膨らみ続けた。

 そうして、景虎方が予想をはるかにこえた大軍を擁した時、景勝はおのれの無力さを噛みしめながら、軍扇をとった。

 甥をこの手にかけた。親しんだ老齢の貴人の命をも奪った。姉は自害して果て、国内は乱れに乱れた。

 戦がこのように虚しいものであると、景勝は知らなかった。

(なぜ、逃げて下さらなかったのだ)

 景虎は景勝の言葉を信じ、待ち続けたのだろうか。

 いつまでも越後にとどまり続けずに、夜陰にまぎれて関東へでも、信州へでも落ちてほしかった。そうすれば、もう景虎を討たなくてもよかったのだ。

 山城に追い詰め、火を放ち、蟻のはいでる隙間もないほどに取り囲んで、殺した。

 城郭は瓦礫となって、残雪の谷を埋めつくした。

──この花の名をご存じか……?

 景虎は今日も野に立ち、景勝を差し招くように、白い花を抱いてほほ笑んでいた。

 この世のものとは思えないあの美しい微笑を浮かべ、揺れさざめく花の中に佇んでいた。

 あの美しい義兄のために、どうして家督も領地も家臣も、なにもかも捨ててしまわなかったのだろう。

 ただ、景虎に生きていて欲しかった。

 あの人の幸せだけを望んでいた。

 だから誓ったのだ。

 この手で守るのだと。なにがあっても守るのだと。

 風に波うつ白い花の野。

 忘れえぬ面影は袖を大きくひるがえし、微笑を浮かべたまま、背を向けて去っていく。

──義兄上……!

「景勝様、いかがなさいました」

 いつの間にか、与六が引き止めるように袖をとらえていた。

「……いや」

 一面の白い花。煙るように揺れながら、どこまでもまぼろしの野は続いていた。

 降るような蝉の声の下、景勝は踵を返した。

「まいろうか」

──顕景殿……。

 あれは決しておのれを呼ぶ声ではない。

 振り返ることは、できなかった。





(了)



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白鷺のひと 濱口 佳和 @hamakawa

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