白鷺のひと(三)
本誓寺は、永禄元年に春日山の東方左内村に造営された、一向宗の寺院である。
輝虎の意向をうけて建立された広大な寺領には、参拝にくる近郷の農民をはじめ、多くの武士の姿があった。
顕景は壮麗な山門前で下馬すると、背後に乗せてきた氏秀に腕をさしだした。
「しばらく床に伏しておられたと聞いた」
氏秀は微笑した。
「武門の子として、不甲斐ない限りです」
「もうよろしいのか」
見ていられなくて、顕景は腕をのべたまま山門を眺めるふりをした。
氏秀は顕景の腕に軽く手をかけた。
抱く花のかおりだろうか。かすかな残り香が耳元をかすめた。
氏秀は慣れた様子で、まっすぐに本堂の背後にある墓所へ向かった。
木立が濃く陰をおとす一画に、真新しい墓石があった。氏秀は持ってきた白い花を墓前へ供えると、跪いて手をあわせた。
木漏れ日が、うっすらと汗をかいた白い首すじにちらちらと踊る。かすかな風が髪先をなぶった。
「……水を持ってくる」
顕景は息苦しくなって、急いでその場を離れた。
(あの墓のぬしは誰だろう)
枯れた白い花が、束になって暑気にうなだれていた。氏秀は、何度も足を運んだにちがいない。
──金津新兵衛の甥ご殿が、黒森資綱殿と北条の質をとりあったそうじゃ。
──質どのに悪さをした黒森殿を斬ったゆえ、甥ご殿も腹を切ったと聞くが、まことかの。
──業のふかいお方じゃ。いや、さもありなん。あれほどの見目のよさは禍いにしかなるまい。
──北条もいっそ厄介ばらいをしたのかもしれんな。
家臣どもの嘲弄が、耳にのぼる。
輝虎は氏秀への厚情をしめすかのように、自らの傅役であった金津新兵衛の甥を側役としてつけた。
だが、穏やかな風貌をした武将は、ひと月もしないうちに黒森某と喧嘩両成敗をもって腹を切ったという。
(その金津の墓なのか……?)
この炎天下に、氏秀が毎日のように参っているのだと思うと、なにやらこみあげてくるものがあった。
顕景は苛々として、井戸のなかへ桶を思い切り投げつけた。
それは嫉妬だった。
認めるとカッと全身の血が騒いだ。
そばへ行くとろくに口もきけないのに、なにげない動作が、目の奥にやきついて離れなかった。声音がまとわりつくように甦ってくる。
墓前にさしのべた白い項。ふりしぼるように閉じた瞼。微笑をふくんだやわらかな口もと──。
(この花の名をご存じか)
顕景は勢いよく汲桶を手繰り上げると、頭から水をかぶった。
あまりの冷たさに、肌が粟立った。
このままでは、おのれがおのれでなくなってしまいそうだった。
「どうかしているぞ」
ようやく顕景が桶を下げて戻ると、氏秀は先程と同じ姿勢のままじっと手を合わせていた。
顕景はつかつかと近づいて、声もかけずに墓石に水をかけた。さきほどかぶった水が、指先から滴り落ちて、氏秀の袖をぬらした。
氏秀はずぶ濡れの顕景を不思議そうに見上げ、もの問いたげに小首をかしげた。
「……熱いので、水浴びをしただけじゃ」
ぶきらっぽうな顕景の返答に、氏秀はやわらかな微笑を浮かべた。
顕景はあわてて目をそらせた。
「顕景殿」
「何じゃ」
「じつは、顕景殿にお願いがあります」
「願い。儂にか」
氏秀は頷いた。
「出家したいと思うております」
顕景は勢いよく振り返った。氏秀がなにを言いだしたのか、よくわからなかった。
「氏秀殿は、坊主になりたいと申されるのか?」
「はい。このひと月、そればかりを考えておりました。いまはただ、仏弟子となってどこぞの寺でおのれの罪業を償いたい。なれど、質としてこの越後にまいった身ですので、無断で剃髪するわけにもまいりませぬ。顕景殿から輝虎様へお伺いいただけないでしょうか」
得体のしれない怒りがこみあげてきた。
「なぜじゃ。どうして出家などと言うのだ。俺は……、俺にはわからん!」
氏秀は、さざ波ひとつたたぬ凪いだ海のような目をしていた。
その瞳の前でぬれねずみになっているおのれが、ひどく恥ずかしいものに思えてきた。
「顕景殿も、私のうわさはご存知であろう」
「そ、それがどうしたというのじゃ!」
景虎は目を伏せた。
「私のために命を落とした者は、金津殿だけではない。私は行く先々で揉め事をおこす。人死にがでる。小田原でも私はもてあまし者だった。私は、そうすべきなのです」
「では、うわさはまことと申されるのか!?」
氏秀のうかべた微笑に顕景は絶句した。しながら今までにおぼえたことがないほどの怒りに、目の前が染まった。
「ならぬ、……ならぬわ! 俺はそのようなことを義父上に申し上げられぬ! 俺は子供のつかいではないわ!」
わめきちらしながら、顕景は水桶を墓石へ叩きつけた。箍がはずれて、木片が四散する。
氏秀は怒るでもなく、かなしげに眉を寄せて桶の残骸を拾った。
その白い指先に泥がつくのを見て、顕景はいたたまれずその場から身をひるがえした。
「顕景殿!」
滾り続ける怒りに、大地を踏み抜くような勢いで山門をくぐると、繋いだ馬にかまわず、そのまま走った。
氏秀が、金津のためにあの美しい髪を落とすことが嫌だった。おのれが口を出すことではないとわかっていたが、氏秀がくる日もくる日も供花を摘み、墓前に捧げ続けているのだと思うと、悔しくて涙がにじんできた。
──いまはただ、おのれの罪業を償いたい。
(なにが氏秀殿の罪だというのだ!)
ぼたぼたと涙が頬を流れた。
すれ違う人々がいぶかしげに振り返るのにもかまわず、顕景はそのまま四辻にしゃがみこんだ。
顔を拭うが、高ぶった気持ちはなかなかおさまってくれず、次から次へと涙があふれてくる。
ひどくみじめだった。
わけのわからぬ怒りに泣いているおのれが、みじめでならなかった。
ふと、背に照りつけていた日差しが翳った。
かすかな花の匂いに、顕景は泣き顔を見られないように顔をそむけた。
「承知したゆえ、先に馬でお帰りくだされ!」
「申しわけありませぬ。私は甘えて、顕景殿に自儘を申し上げたようです」
氏秀は顕景のとなりに膝をついた。
「もう、よいのです。さきほど申し上げたことは、お忘れください」
「よくない」
思わず振り返ると、氏秀は微笑を浮かべて首を横に振った。
なぜこの人は、このように微笑せねばならないのだろう。海に降る雪のように、今にも消えて儚くなりそうだった。
夏の日差しのなかで、とけていきそうな錯覚に、顕景は氏秀の首筋にむしゃぶりついた。
「氏秀殿は、馬鹿者じゃ……!」
細い首を抱いて、幼子のようにすがりながら、顕景は叫んだ。
「俺は氏秀殿が好きじゃ! 坊主など……、坊主などにならずとも、俺が氏秀殿をおまもりする。それではいかぬかっ」
「顕景殿」
かたく強張っていた身体から、力が抜けた。そろそろと氏秀の腕が、顕景の背に回された。
あやすように背をなでられて、顕景は涙を流した。
子供のようにすすり泣きながら、どうしてこんなに泣けてくるのか不思議でならなかった。
「顕景殿は、よいお人だの」
「そうではない!」
そのままどこかへ消えてしまいそうな氏秀をつなぎとめたくて、顕景はまわした腕に力をこめた。
「氏秀殿は、ここに、越後におればよいのだ」
「顕景殿」
「俺が……、俺が必ずお守りする。氏秀殿は俺が守るゆえ、俺は……」
顕景の肩に、あたたかな重みがかかった。さらさらとかすかな香が鼻先をかすめて流れていった。
「私はどこにも行きませぬ。顕景殿、私には行くところなどない」
「氏秀どの」
顕景は身を切られるような痛みをこらえて、氏秀の頭をかきを抱いた。
泣くこともなく、ただ微笑する氏秀が悲しくて、苦しくてならなかった。
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