白鷺のひと(二)
「──なんと申した」
常らしからぬ耳聰さで聞き咎めた主君に、周囲で談笑していた側近らは声をひそめた。
「それはまことか」
「あくまでうわさにございます。ただ、その……」
とがめる響きに、問われた者は助けを求めるように、周囲に視線を泳がせた。
顕景の居室である。
いつものように年若なあるじをかこんで、やはり若い側近らが思い思いに談笑している最中だった。
「なぜ答えん」
「顕景様」
直江信綱が膝を進めた。近頃、与板城主直江大和守の入婿となった若者である。
「お方がお方だけに、多くの者はまことのことと思うておりましょう」
「なにっ」
「しかし、わざわざ声高にいいふらしている者もおりますゆえ、手前には一概に真実とは思えません。──ただ、そのうわさを知らぬ者は、もう府内にはおりますまい」
「そのような馬鹿げたことを信じる者がいるのか!」
「お声が高うございます」
顕景は、高座を蹴るようにして立った。
ことの真偽を確かめねばならない。
「どちらへまいられます」
「氏秀殿に聞いてまいる」
「顕景様」
「なにか意見があるのか!」
信綱は、大仰に眉をひそめた。
「二の郭へまいられて、氏秀殿になんとお尋ねするのです。さきごろ殺害された黒森どのと切腹された金津どのは、氏秀どのをとりあっての衆道沙汰でしたか、とでもお尋ねになるのですか」
「信綱、なんという無礼なことを!」
握りしめたこぶしを震わせて、顕景は信綱をにらみつけた。
信綱は眉ひとつ動かさず、見返してくる。顕景は口唇をかんだ。
「──出てまいる。供はいらぬ」
「どちらへまいられます」
「義父上のところじゃ! それならば文句あるまい!」
叩きつけるように言って、顕景は廊下を踏みしめた。
はらわたが煮えくり返るとは、こういうことを言うのだろう。
許せなかった。
そんな根も葉もないうわさを言いふらす者も、信じる者も打ちすえてやりたい。
あの人が、遊び女のように男を誑かしているなどというのだ。そのような病なのだと、ひとの口は面白おかしく噂している。
ついこのあいだまでは、天女のような清らかさだと言って、額ずかんばかりだった者どもが、手のひらを返したように下卑た笑いを浮かべていた。
関東一の美童──小田原からくる北条の質のうわさは、越後にもとどいていた。
その真偽を確かめようとするかのように、この春、輝虎とともに越後入りした氏秀の披露目の席には、各所から大勢つめかけた。
氏秀は衣服をあらため、従者のひとりも連れず、輝虎の御前に進み出た。
広間に、波のように嘆声が広がった。
あの武田晴信が手放すのを惜しみ、同盟が決裂しても、なかなか小田原へ帰さなかったのだという。
氏秀は様々な好奇の目なかでよどみなく口上を終えると、毅然と背筋をのばした。
顕景はその姿にただ見惚れ、阿呆のようにまばたきばかりを繰り返した。
輝虎に引き合わされ、挨拶をかわしたのさえ、よく憶えていない。
輝虎は、相模との同盟の質である氏秀を厚く遇した。春日山内の二の郭に屋敷を与え、そこに住まわせた。
氏秀が病床に伏し、ひと月ほど枕から頭が上がらなかったと聞いたのは、すでに夏の日差しがきびしく照りつけはじめた頃だった。
(それがようやっと癒えたばかりだというに……)
家中の口さがない者たちの卑しさだと、情けなくてならない。
あの美しい人を見て、どうしてそのように野卑なことが言えるのだろう。
顕景は厩舎に行って、おのれの乗馬を引き出させた。
もとより輝虎のところへ行くつもりはなかった。
「お身様、どちらへまいられまする」
あわてて飛んできた近習を一瞥すると、顕景は馬に鞭をくれた。
「顕景様!」
背後のわめき声が聞こえなくなると、ようやく手綱をゆるめた。御屋敷前の黒鉄門を抜けて堀端へと馬を駆った。
そこへ行けば、氏秀と会えるような気がした。
白い花の咲く野に立ち、今日も花を摘んでいるかもしれない。
氏秀のほほえみが好きだった。
見ていると夢のようないい気分になった。
顕景は木立で馬から飛び下りると、もどかしく手綱を枝にからめて、走りだした。
すぐに汗が吹き出て、背を流れた。
「氏秀殿!」
開けた視界の先に、そのひとはいた。
息せき切って走ってくる顕景に不思議そうに小首をかしげ、やはり腕いっぱいに抱えた白い花とともにたたずんでいた。
「そのようにあわててどうなされたのじゃ」
氏秀は涼しげな水浅葱の裳濃の袖をからげると、内着で母親のように顕景の額の汗を止めた。
「やめろっ!」
思いもかけない動作に、ふりはらった氏秀の指が、空を泳いだ。
「あ」
頬に血がのぼる。
氏秀は気にした様子もなく顕景に微笑をむけ、風にそよぐ白い花を手折った。
「顕景殿はおいくつになられた」
「……十六じゃ」
「ならば、立派な若武者だの」
氏秀は両手に抱えきれないほどの花を摘みおわると、顕景の前に立った。
「馬でおいでか」
「う……うむ」
「私を乗せてほしい」
行きたいところがある──氏秀は光に透けるように笑った。
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