白鷺のひと
濱口 佳和
白鷺のひと(一)
景勝は野に立った。
緑の波が風にそよぎ、白い花が小舟のように揺れていた。
ふりあおいだ夏空には雲ひとつなく、蝉の声が天から降るように落ちてくる。秋虫の涼しげな音、蓮の浮かぶ掘割の水面、むせかえる青い草いきれ──。
なにもかわらなかった。
──生きてくだされ! この景勝を信じて、なにがあっても……!
そう叫んだのは、確かにおのれであったはずなのに。
ふりかえった微笑が、白い花のなかにとけていく。
放たれた火は、残雪の山城を覆いつくした。踏みにじられた泥のなかに横たわる、無数の屍。無残に打ち落とされた首級。流れるように指をたどった、その黒髪のすべらかさまではっきりとおぼえている。
景勝は、花を摘んだ。持ちきれぬまで摘み続けた。
むせかえるほどの芳香を抱きしめて、亡き人の残り香を偲ぶ。
──景勝殿……。
ちぎるように摘んだ白い花。
摘んでも摘んでも満たされぬ思いに、景勝は花を抱いて天を仰いだ。
これは、おのれが殺した人へ手向ける供花なのだ。
叫ぶように投げ上げた花は、風に流れて水へ散っていった。
──景勝殿……。
それは決しておのれを呼ぶ声ではない。
ゆらゆらと白い花が流れていく。
景勝は立ちつくしたまま、じっとそのゆくえを追っていた。
「そのようなところで、なにをしている」
言ったとたん、顕景は頬が熱くなるのを感じた。すぐに問いただすような口調を後悔したが、ことさら虚勢をはって、馬上で背筋をのばした。
「顕景殿」
草のなかに埋もれていた人影は、すらりと立ち上がると、片腕にかかえたしなだれる花々を恥じる様子もなく、草をふみわけて馬前に立った。
「ご無沙汰いたしました。顕景殿にはご壮健そうでなによりです」
──困ったな。
知らず手綱をひいていた。
その瞬間、声をかけたことさえ後悔した。
「顕景殿」
この暑さに汗ひとつかくでもなく、水面をわたる涼風に大きく袖をはためかせて、北条氏秀は顕景を見上げていた。
春日山の北、中堀のほとりである。
斜面を下りて立木をかきわけて行くと、堀端にでる。そこの草叢には、夏になると一息に白い花が咲いた。細長い葉に囲まれた花が、ほんのひととき咲く。
越後の夏は短い。声をはりあげる蝉の声とともに、足元では秋虫が鳴き、季節はまたたく間にうつろっていった。
「この花の名をご存じか」
ふいにひとつ年長の若者は顕景へ、腕のなかの花を一輪さしだした。
あたかも白い鳥が飛び立つような細かな花弁が、ちらちらと目の前で揺れた。
なぜか顕景は狼狽した。
「知らぬ。俺は……、そのようなやわやわしいものは好かん。氏秀殿もおなごのように花摘みなどなされるから、上杉の家中に侮られるのだ!」
ふりかぶった馬鞭が、氏秀の手元の花を散らせた。
「あっ」
ねらいがわずかにそれて、きっさきが氏秀の手の甲を打った。
「す、すまん」
氏秀はわずかに眉をよせ、ゆるゆると首を振った。
その微笑に目を奪われる。
背後にひろがる水面のように、深く緑翳を落とした瞳だった。その瞳を持つ美貌に、吸われるように魅かれてしまう。ひとめ見れば、また会いたいと思った。遠目の姿でさえ、呆けたように追っていた。おのれの意思に逆らって、目や耳が氏秀の気配をもとめてさまようのだ。
胸が苦しい。
「花に罪はありませぬ」
途端、カッと頬に血がのぼった。唇をかみしめて氏秀をにらむと、手綱を引き絞った。
馬が嘶いて、前脚が空を蹴った。
「顕景殿!」
急いで馬首をめぐらせ、ことさら大きく輪をかくように草地を駆けた。馬脚が白い可憐な花を踏みにじっていく。
「顕景殿!」
なじるでもなく、哀れんでいるような呼び声に、顕景は馬を鞭打った。そのまま草地をとりまく杉の木立を抜けて、逃げるように駆け抜けた。
このような、おとな気のないことをするつもりではなかった。
思いもかけぬところで、姿を見かけたことが嬉しかったのだ。
ようやく床を払ったと聞いた。異郷での患いはつらかろうと案じていた。
会ったら話そうと思っていたことは、山ほどあった。
相州のこと、武田のこと、この越後のこともたんと話してやりたかった。晩秋に降る根雪や目もくらむほどの雪原、いっときにやってくる春の美しさ、生まれ育った上田のこと、風に波うつ青田の清々しさ、それに──。
──顕景殿……
浮かんでくるのは返した手首の血の透けた白さと、まろやかな声音ばかりだった。
(俺はどうかしている……!)
顕景は頬に血をのぼらせたまま、まなこを一杯に開いて鞭をくれ続けた。
おのれのうろたえぶりが情けなかった。
どうして、あのひとの前では拗ねた子供のようにしか振る舞えないのだろう。
それが悔しくてならなかった。
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