第4話 Zauberer -魔法使い-

体が軽い。



まるで宙に浮いているような感覚だ。まるで夢のようなーー。というか、本当に夢のようだ。

しばらくして、水に一滴垂らした墨汁のような黒が広がったと思えば、目の前に浮かぶ黒い影が見えた。


朝、夢に出てきたマントの人だ。

彼の全身を見たのは初めてだった。マントというか、長いローブという感じだ。細かな金色の刺繍が散らされ、顔を覆うフード部分には荘厳な星の模様がある。


「あなたは、一体誰なの……」


彼は何も答えてくれない。

顔はフードを深くかぶっているせいか、影になって見えなかった。唯一見える口元が、ニコリと笑っただけだった。



***



あれ、鼻がむずむずする……。それになんか、お花みたいな香りがするし。

うっすらと目を開けると、鼻先に色鮮やかな青い蝶が止まっていた。


「わぁ!」


私が跳ね起きると、蝶はどこかに飛んでいってしまった。なぜかベッドの上に寝かされていたらしい。マットレスは家のベッドよりずっと柔らかくて、シーツはなんだか肌触りがふわふわしている。見た目からしてお高そうだ。

レースの天蓋を押しやると、室内のはずなのに床にピンクに赤、白のバラが咲き乱れていた。足で踏むとそこからスッ、と霧のように消えてしまった。


なにここ、天国?私、死んじゃったの?


「おはよう、君。大丈夫かい?家の前で倒れてたんだよ」


部屋の奥から声が聞こえた。

色とりどりのバラと蝶が描かれているキャンバスの前に、見覚えのある背中があった。とはいえ見知っているものとは格好が少し違う。少し絵の具で汚れた白衣を身に纏い、長い髪をひとつに束ねて高い位置で結んでいた。そしてその隣にはアリーゼさん。彼はキャンバスにピンクの絵の具を広げながら振り向いた。


「はじめまして。急に連れてきて悪かったね。僕はレオンーー」


な……。この人、私が記憶を完全に消されたと思ってるよ!


「う……うそつかないでくださいよハイネさん!

記憶なんて、記憶なんて全然消えてないじゃないですかっ!!」


すると彼の手からポロ、と筆が落ちた。


「Oh nein……Gott hilf mir!」

「ご主人様、動揺しすぎて母国語出てます」


顔から、徐々に血の気が引いていくのがわかった。そして、空気が抜けたみたいに床に座りこんでしまった。

小さな声でブツブツと何かを言っているみたいだけど、これもわからないのできっと母国語なんだろう。アリーゼさんがその背中を必死にさすっている。


「Warum!?きみ、本当に記憶が消えてないの!?」

「消えてませんよ!急にあんなことして……!」 

ハイネさんはベッドに駆け寄ってきて、片眼鏡をクイッと持ち上げながら私の顔をまじまじと見つめた。


「魔法が効いてない?!まさかそんなはずは……一旦落ち着け……落ち着け、僕……」

ベッドから離れると深呼吸を何度も繰り返している。

「きみ、何者なの?僕と同じ魔術師?でもそんなわけないよね?」


私の肩を何度も揺さぶった。それを横のアリーゼさんが止めようとしている。

魔術師?なにがなんだかわからない。たしかに魔法は好きだけど……。



「そうか、それなら……」


ハイネさんは白衣を脱いで、ため息をつきながら近くにあった椅子に座った。

私、また何かされるのかな……。

彼は私の目をまっすぐ見ながら言った。


「いいかい、ののちゃん。ここで見たこと、聞いたことは他の人に絶対言わないって約束できる?」

「えぇっとぉ……」

「僕は画家である以前に魔術師(メイガス)。わかりやすく言えば、魔法使いだよ」


へ?ハイネさんが魔法使い?


でも、それなら今まで起こったことも説明がつく。

学校のみんなと私の間で記憶の違いがあったこと、金色の杖、記憶の細工、それに、さっき目覚めたときに花が咲いていたのももしかして……。


「僕が得意とする魔法は、絵や写真に命を吹き込む魔法。そう、今ここに舞っている花々や蝶たちはあの絵から生まれているんだよ」


するとハイネさんは私の手をつかんだ。

「魔法は不可能を可能にする奇跡の力だ。もちろん素敵な側面もあるけど、それだけじゃない。……僕たちの存在は、普通に生活している人に知られてはいけないんだよ」


だから、あわてて記憶を消そうとしたんだね……。


彼はきっと、すごくあわてただろう。私のようななんでもない中学生が真実を知ってしまったのだから。

私は膝の上に置いた拳をギュッ、と握りしめた。


「わかりました。私、魔法のことは絶対に言いません」


でも、でも……


「私、誰にも言わないから、ハイネさんの魔法は素敵だって思っててもいいですか……!」


私は叫ぶように言った。

ハイネさんはびっくりしているみたいだった。気がついたら椅子から立ち上がっていた。


「どうして、僕はきみにひどいことをしたのに、素敵だなんて……」


「本当は記憶を消す魔法なんて使いたくなかったんじゃないですか?だって、私に魔法をかける前に『ごめんね』って謝ってましたから……それに、さっきのお花も蝶々も、綺麗な魔法だなって」


ハイネさんもきっとわかっていたはずだ。自分のやっていることがいけない事だって。ひどい事だって。そうでなければ「ごめんね」なんて言わない。

同時に私は今朝の、夢の中の魔法使いを思い出した。

私はあの夢を見てから知っている。魔法は悪い力なんかじゃない。人を救う力でもあるんだってことを。

それに、あの人も絶対、悪い人なんかじゃない。


彼はしばらく考え込んでいるのかその場から動かなかったが、しばらくして微笑みを浮かべた。


「ありがとう。きみはいい子なんだね。わかったよ」


私も思わず笑みを浮かべた。

まさか、隣にこんなに素敵な魔法使いさんが引っ越してきたなんて……。考えただけで心が踊った。


「これからよろしくお願いします、ハイネ先生」

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天使と魔法使いのアトリエ すいすい @Suisui41

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