盗まれた宝石

夜の静寂しじまを破った小さなノック音に、メリルはハッと身構えた。


「誰だ?」


この得てして姫らしくないいらえにも、使用人達はもうすっかり慣れたようだ。秘密主義のクランベリー卿の館らしく、盲目の使用人達も入れ替わったメリル達に然したる反応も示さなかった。情報統制がなされ、しっかり教育されているのが分かるので、ここから機密が漏れる心配はなさそうだ。ここに自分たちがいるのをスタンリーに教えた誰かがいるのではとメリルは怪しんでいる。そうでもないと、あまりにもタイミングが良すぎた。


「……遅くにごめん。俺だけど」

「シャノン?」


慌てて寝間着の上からガウンを羽織り、扉を開ける。暗い廊下をバックに顔色の冴えないシャノンが立っていた。


「どうした?気分でも悪いのか?」

「……ううん。ちょっと、考えすぎただけ」


心配そうに額に触れてきたメリルの手を握り返すと、シャノンはその手のひらに唇を押しつける。生温かい吐息の感触に、メリルは思わず手を引っ込めた。


「と、とりあえず、中に入れ。その格好だと寒いだろう」

「ううん、大丈夫」


新緑の季節とは言え、夜はまだ冷える。薄着姿のシャノンを気遣って言った言葉だったが、戸惑ったように笑ったシャノンを見て、メリルは自分の失言を悟る。


「す、すまん、軽はずみに……」

「ううん、大丈夫。メリオットがいたらお説教ものだったと思うけど」


正式な婚姻前に間違いがないようにと常日頃から目を光らせている宰相殿である。今の発言を聞かれていたら、お小言どころでは済まなかったであろう。だが、シャノンの方でもそれは心得ているのか。まるで見えない境界線でもあるように、決して部屋の中に足を踏み入れて来ようとはしなかった。


「ちょっと……顔が見たかっただけ、だから」

「こんな時間にか?」

「うん……こんな時間に。変、かな?」

「変だ。いつものシャノンらしくない」


即答されてシャノンは笑う。それでも、先程のスタンリーとの会話をメリルに教えて聞かせるわけにはいかなかった。あれは、

あとでメリオットには報告しなければと思うものの、あそこまではっきりとメリルに気がある事を宣言されれば、シャノンだってじっとはしていられない。おかげで眠気はどこかに吹き飛び、それならばとメリルの顔を見に来たが、気持ちは落ち着くどころかよこしまな考えが増しただけだった。


不自然に会話が途切れ、お互い無言のまま見つめ合う。静寂が耳に痛かった。どのくらいそうしていたのか分からないが、先に口を開いたのはシャノンの方だった。


「ごめんね。もう、戻るよ」

「あ、待って」


袖を引き、思わず引き止めてしまってから、メリルは言葉に詰まった。何も言わないけれど、何か言いたそうにしているシャノンを放っておく事は出来なかった。


「……やっぱり…少し、中に入って……」

「それは襲ってもいいってこと?」

「……は?」


まさかそんな言葉がシャノンの口から飛び出してくるとは思わず、メリルは一瞬呆ける。


「い、いま、なんて……」

「押し倒してもいいの?って聞いたの」

「だ、だめだ!いや…っ、だめではないが、違う!そうじゃなくて、ま、まだ時期尚早というか……」


口走ってから、自分で何を言ってるんだと頭を抱えた。とにかく、普段では絶対有り得ないそんな事を言うシャノンは明らかにおかしかった。だが、メリルがその原因に思い当たる前に、シャノンの奇行はどんどんエスカレートしていく。


「じゃあ、キスならいい?」

「え……あ、は……」

「時間切れ」


奪う、と言った表現のままに唇を塞がれたメリルは、自然と目を閉じる。


「……ん……」


いつもなら軽く触れ合うだけの口付けも、この日は何だか違った。吐息さえも奪われるように熱く、何度も唇を吸われる。思わず腰が引け、離れそうになった唇が更に強い力で吸われた。

シャノンは、いつものように抱きしめて来なかった。手の血管が浮き立つほど扉の縁を握り締め、口付けだけでメリルをつなぎとめようとしているかのようだった。


長い長い口付けの後、お互いにゆっくりと目を開き、くすぐったそうに笑う。額をくっつけ、互いの体温の熱さを確認する。もつれかけた糸もその一瞬で元通りになるから不思議だ。



「……本当に……今日は、変だぞ…」

「……うん、ごめん。でも、もう大丈夫」

「…だろうな」


メリルのその返答に二人で吹き出す。


「……メリルは魔法使いみたいだ」

「何の話だ?」

「一瞬で俺の心の中にある塊を解きほぐしてくれた」

「…やっぱり何かあったんだな?言え」

「言わない」


くすくすと笑って体を引いたシャノンは、柔らかい眼差しでメリルを見つめた。そして、その頬に張り付いている髪の毛を指先でそっと払ってやると、愛しそうに頭を撫でた。そんな事をされたのはこの方、メリオット以外初めてでメリルは瞠目した。


「………何の真似だ…」

「王様も、たまにはこうされる時が必要かなと思いまして」

「………」

「…………だめだった?」

「いや……」


戸惑ったように顔を背けるメリルが可愛くて、シャノンは口元を綻ばせた。


「こ、この、小悪魔め……っ!」

「どっちが」

「お前に決まってるだろ…!」


憤然と言い返すメリルの口元をシャノンが手で塞ぐ。



「しっ……騒いだら誰か来ちゃうよ」

「………」


二人の頭の中に浮かんだのは、同一人物の顔。口うるさい小姑のような宰相だ。その従兄弟兼右腕の顔を思い出しながら、メリルは静かに身を引いた。


「メリオットにこんな場面を見られたら、小一時間くらい詰められそうだ……」

「そうなる前に俺は退散するよ」

「あいつが居なくても、あいつの存在自体が魔除けみたいなもんだな…」

「それもメリオット様の計算の内でしょ」


ひそひそと声を潜め、辺りを見回した二人は、ほっと息を吐く。


「……それじゃ、体を冷やさないようにね」

「ああ、シャノンも」


名残惜しさに再び口付けしそうになるのをぐっと堪え、シャノンはドアノブを握る。


「俺が閉めたら、すぐに鍵をかけてね」

「わかってる」

「じゃないと、夜這いしちゃうかも」

「……」


またもや冗談か本気か分からず、メリルの心にもやもやが溜まる。シャノンがこうやって自分の心をはぐらかす時は、決まって何か重大な隠し事をしている時だ。とは言え、これ以上触れてくれるなと言う強い意思は、先程のキスからも伝わってきた。心配なのは山々だが、相手の事を信じて待つと言うのも信頼の証だと感じているメリルは、大人しく待つ事にした。


「おやすみ」

「おやすみなさい」


扉が二人の間を隔つまで、その視線は一瞬たりともそらされる事はなかった。




*******




「おそようございます」

「………………もう、そんな時間……?」


起き抜けに刺々しい言葉を浴びせられ、シャノンは髪の毛をかきむしる。痛烈目覚ましの犯人は言う事なかれ、小姑宰相だ。


「よくお休みになられたようで」

「………」


……逆だ。スタンリーとの一件が頭に残り、なかなか寝付けなかった。メリルの顔を見て少しは安心したものの、本筋は一つも解決されていない。もちろん、その件はメリオットにも黙っておくつもりだった。



「……メリルは?もう起きたの?」

「ええ。何なら、いつもより30分は早く起きて運動をしておられました」

「そうなんだ……」


それは良かった。きっと昨日の挙動不審さはメリルにも伝わっていたと思うが、腹が据わっているメリルの事だ。心の内に留めておいてくれるに違いない。結局、今回もまたメリルの寛容さに甘えてしまった訳だが、己の不甲斐なさが申し訳なくてシャノンはベッドに突っ伏した。



「この期に及んで、まだ寝る気ですか?」

「……違います。これは、反省のポーズです」

「はあ、猿の物真似をするのは結構ですが、朝食に遅れそうなので早く着替えて下さい」


着替えを投げて寄越され、シャノンは目をパチクリした。


「……何かあったんですか?」


明らかに不機嫌なその様子を訝しく思う。


「とにかく早く準備してください」

「メリルに何かあったわけじゃないですよね!?」


勢い勇んで聞いたシャノンをメリオットが睨めつける。


「……ですから、事情をご説明しますから早く着替えて下さい」

「す、すみません」


三度の要求にやっと答え、シャノンはむしり取る勢いで寝間着の紐を解いた。メリルに何かあったらいの一番に大騒ぎする彼がここまで冷静なのだから、とりあえず目下の心配はないのだろう。

渡された服を手早く羽織り、襟元のボタンをメリオットが留めている間、シャノンは寝癖のついた栗色の髪の毛をさっとまとめる。その様子を見て、メリオットが珍しく感嘆の息を吐いた。



「全く……メリル様にもその器用さの三分の一でもいいから、わけてもらいたいものですね」

「メリルは不器用ですもんね……」


これまで幾度となくメリルの髪を伸ばそうと試みてきたものの、メリル自身の不器用さはもちろんの事、メリオットも人の髪となると扱いが難しく、身の回りの世話も秘密が漏れるのを防ぐため人数を絞ってきたので、忙しい朝の時間をメリルの髪だけに割くわけにはいかず断念してきた過去がある。なので、メリルにも自分の髪の毛を結わえるだけの手練があれば……と言うぼやきだったのだが、シャノンはそれを前向きに捉えた。


「じゃあ、今度からは俺が毎朝メリルの髪の毛を結わえてあげますね」

「…………そうなると宜しいですね」


本来ならば喜ぶべき事のはずなのに、素直に喜べないメリオット。それを見透かしてかシャノンが付け加える。


「あ、もし何でしたら、メリオット様のもやってあげます」

「………結構です」


いらぬ気遣いを受け、メリオットは眉間にしわを寄せる。


「でもメリオット様、いつも同じ髪型じゃないですか」

「……私はこれでいいんです。別に着飾る必要もないですし」

「そうですか?せっかく、美しい髪をお持ちなのに……」


絹糸のような髪の毛をすくいあげ、まじまじと眺めるその動きに嫌味はなく、まさに天性のたらしたる才覚を見せつけていた。その自覚のなさに溜息を覚えつつ、メリオットはシャノンの手から髪の毛をむしり取ると呆れて言った。


「言っておきますが、結婚したその日から朝晩一緒にいられると思わないでください」

「え!?違うんですか!?」

「違うに決まっているでしょう。何なら、結婚してからの方がお互い公務で忙しくなります」


逆に、婚約中の今しかゆっくりしていられないと言うわけだ。


「……なるほど。そうなると、彼はとんだお邪魔虫ですね」

「ええ。ですから、体良く追い払えてホッとしている所です」

「体良く……?」


そこでシャノンは、話が本題に戻った事に気付いた。洋服のボタンを留め終え、立ち上がったメリオットに詰め寄る。


「スタンリー様は、お帰りになられたんですか!?」

「いいえ。ですが、先程彼の部下だと名乗る方が現れまして……話が思わぬ方向に転びました」

「思わぬ方向?」

「ええ。交遊会は無しとなりました」


両目を見開き、愕然とするシャノンを横目に、メリオットはベッドメイキングを続ける。


「え……!?え!?そ、それは、もう国交断絶と言う意味ですか!?」

「いえ、それがどうも違うようです」

「は、はあぁぁ??」


思わずそんな声が漏れ出る。予定していた交遊会もドタキャン、突然の来訪そして帰省……全く何を考えているのか分からない。


「信じられない……周りに迷惑をかけている自覚はあるんでしょうか?」

「あったら、最初からこんな真似はしないでしょう」

「……ですよね」


脱力したようにソファに座り込んだシャノンに、メリオットは生温い視線を向ける。


「もし、これが相手の心理戦の一つだとしたら、我々はまんまとその術中にはまっているわけですね。こうして彼の一挙手一投足に振り回されていますし」

「ぐぅ……」


ぐうの音が出ると言ったそのままにシャノンは唸った。


「……まさか、これも彼の作戦の一つだと?」

「可能性の一つとしてあり得ると言うだけです。彼がそこまで回りくどいタイプだとは思いませんが、策略家ではあるでしょう」

「どっちなんですか……?」

「人の本性はコインの裏や表のように二択では量れないと言う事です」


分かったような、分からないような……とにかく、寝起きから詰め込まれる情報量が多すぎて、頭痛がしてくる。額を押さえソファに沈み込んだシャノンを、メリオットは冷ややかに見下ろした。


現在いま、あなたは国王代理ですよね?そんな国のトップでもあろうお方が、これしきの事で動揺していてどうするのですか!?有事には朝も夜も関係ないのですよ」

「正しく……」


今度こそ本当にぐうの音も出なくなったシャノンは、溜息を吐き立ち上がった。メリルは日々この重責を一人で担っているかと思うと、心の底から同情心が沸いてくる。もしこの大変さを国民が知ったなら、きっと誰一人として城に足を向けて寝れないはずである。


「……じゃあ、今、俺がすべきことは?」

「とりあえず、隣国の使者と話してその真意を確かめる所からですね」

「肝心のスタンリー様は?」

「どこをほっつき歩いているのか、朝から姿が見えません」


熊よけの罠にでも引っかかっているんじゃないでしょうか。と冷たく吐き捨てて、メリオットは颯爽と踵を返す。まだぼんやりとする頭を抱えながら、重い足取りで後に続こうとしたシャノンは、ふと耳を澄ます。



「狼……?」

「え?」

「今、狼の鳴き声が聞えませんでしたか?」

「……相変わらずの地獄耳ですね。私には、何も聞えませんでしたが」


訝しむように窓の外に目をやり、異変がないか確かめるメリオット。


「スタンリー様が連れていた狼でしたら、東の外れにある小屋に繋がれて……」

「1匹じゃないです。何匹も……それも、とても多い数です」


息を吞み、メリオットはシャノンの顔を注視した。


「本当ですか?」

「ええ……もしかしたら何十匹かも……。段々こちらに近付いて……」

「誰か!」


メリオットは最後まで言わせなかった。



「はい!どうなさいました!?」


たまたま近くにいたメイドが姿を現す。


が現れたようです。駆除を」

「……かしこまりました」


流石はクランベリー邸の使用人である。その一言で事態を察し、主人の下へ駆け出していった。


「メリルは……っ」

「とりあえず、エントランスホールに行きましょう!そこで待たせている使者に問いただした方が、話は早いです」


頷き、走り出した二人をあざ笑うように、外から激しい馬のいななきが聞こえてくる。



「ちっ、到着が早すぎる!」

「狼は狩りをする生き物なので、身を潜めているのが得意なはず!!」

「なるほど……何の救いにもならない注釈をどうも!」


はやる気持ちを互いにぶつけ合いながらホールに到着した二人は、スタンリーの部下と対峙しているクランベリー卿を目にする。


「ベリー卿!」

「おお、殿下、いらっしゃいましたか」

「一体、何が……!?」


車いすのクランベリー卿と使者の間に割って入ったシャノンは、闇の使者のような黒ずくめの格好をした男の昏い瞳と出会う。


「いえね、こちらの方々が訪問時の礼をわきまえていなかったようなので、クレームを申し上げていた所なのですよ」

「ご不快にさせてしまったのなら申し訳ない。だが、我が国では昔から狼を使役するのが慣わしでしてな」


メリオットに目配りをされ正門前に目を向けたシャノンは、四匹の狼が繋がれている馬車を発見した。


「あれは……あなたたちが乗ってきた馬車、ですか?」

「馬車と言うよりも、犬車……ですね」


あざ笑うように鼻を鳴らしたメリオットに、使者が低く淀んだ声で答える。


「早さでは馬に劣りますが、持久力で狼に勝るものはいません」


棘を含んだメリオットの物言いが気に入らなかったのだろう。あからさまに態度を硬化させた使者を、クランベリー卿がやんわりと諭す。


「もちろん、そちらの風習を否定するつもりはありません。ですが、あの狼たちのせいで我が家の馬たちが怯えてならないのです。見えない位置まで下がってもらうくらい出来ませんか?」

「我が国の王に車まで歩かせろと?」

「夜中に一人で山の中をほっつき歩かせていたのは、どこのどいつらなんですか?」


敵と見なした相手には容赦しないメリオットのスタンスは、こう言った場合、総じて事態を悪化させる。


「成程……そちらの歓迎ぶりはよく分かりました。これ以上、長居してもご迷惑になりそうなので、早々と退散させて頂く事にします」

「あ、あの……」

「それは大変結構ですが、おたくの主人も忘れずに連れ帰ってください」


慌てるシャノンの目の前で、メリオットは親指で邸の奥を指し示した。その無礼な振る舞いに、さしものクランベリー卿も気まずそうに咳払いをする。


「宰相殿、何もそう結論を急がずとも……」

「いいえ、先方はもう答えを出されているではありませんか。"1ミリ足りとも自分たちの主張を譲るつもりはない“。そう言う意味の振る舞いですよね?」

「我々はまだ何も申し上げておりませんが、そちらがそう受け取るならご自由に」

「なんと厚顔無恥な。最初からずっと非常識で礼を失した態度を取っておきながら、自分たちの主張だけは通ると思いか」

「やれやれ。民主主義の国だとは聴いていましたが、王よりも宰相の主張が強いとは」


ハッとして顔を見合わせたシャノンとメリオットをかばうように、クランベリー卿は車椅子を前に進めた。


「我が国の王は優しくいらっしゃいます。国のあり方はそれぞれ。王が一人で政治を執り行うそちらと違うのは当然です」

「王は強くあらねばなりません」

「色々な王があって良いのです」

「王が弱い国は、すぐに滅びます」


今度こそ、本当に堪忍袋の緒が切れたらしいメリオットが、見たことのない形相で男に詰め寄る。


「貴様、喧嘩を売っているのか」

「まさか。我が王はそちらと友好な関係を築こうとしております」

「どの口が」


耳が汚れるとばかりに眉間にしわを寄せたメリオットを見て、シャノンはこの交渉が絶望的に決裂したのを悟った。隣国と友好関係を築ければ、メリルの精神的負担も軽減されるかと思い、保守的な態度を取ったのがいけなかったらしい。また、メリオットとの普段の関係性も滲み出ててしまったと言う所か。



「それで、交遊会を中止にすると言うのは………」

「顔合わせも済んだのに、わざわざやる必要が?」


気を取り直して尋ねたシャノンにも素っ気ない返答だ。その態度が、メリオットの怒りに更に油を注ぐ。


「それが、一国の王に対する態度ですか!?」

「失礼。取り繕うのが苦手なもので」

「いい態度ですね。貴国の王が戻って来たら、部下の教育についてしっかりとお伺いしましょう」


どうやら、もう一波乱ありそうな予感に溜息を禁じ得ないシャノンだったが、さりげなく男が懐から何かを取り出すのは見逃さなかった。


「……それは?」


素早く問いかけたシャノンに、メリオットとクランベリー卿の視線も集まる。男が取り出したのは、銀色の小さな笛だった。


「それで自分の主人でも呼ぶつもりですか?」


侮蔑を含んだメリオットの言葉には反応せず、男は笛を口にくわえる。空気がわずかに震えたような気がしたが、はっきりとした音は聞こえない。訝しむメリオットの横で、シャノンは眉根を寄せていた。


「モスキート音……?」


人にはなかなか聞き取れない高い周波数の音だ。シャノンは人よりも五感が鋭敏で、僅かな差異も感じ取る。本人はそれを田舎育ちの産物だと宣っているが、メリルたちは立派な特殊能力だと感じている。



「ほう……なかなか良い耳をお持ちで」


意外そうに笑った男は、だが次の瞬間自らの喉を刺し貫いて自死した。


「なっ……!?」


愕然とするシャノンたちを更に混沌の渦中に落としたのは、あらゆる方角から響いてきた狼たちの遠吠えだ。

非常に近い場所からも聞こえてきて、シャノンたちの体は強張る。


「囲まれている……!?」

「いえ、それよりも…………」


慌ててクランベリー卿の車いすを邸内に押しやったメリオットは、シャノンと共に外へ飛び出す。


「敷地の中からです!!」

「何ですって……!?」


シャノンがそう断言するが早いか、数匹の狼が庭に続く柵を飛び越えて姿を現した。


「くそ……っ!庭内に潜んでいたか……!!」

「メリルは……!?」

「こうなったら、狼に遭遇していない事を願うばかりですね!!」


やけくそ気味に叫んだメリオットの内心の焦りが手に取るようにわかるからこそ、シャノンも動揺を隠し切れない。


「さっきの笛は、狼たちへの合図だったのか……!」

「危ない!!」


硬い石畳の上に押し倒されて、背中を強かに打ち付ける。痛みに歪む顔の上を暗い影が横切った。


「馬たちが……!」


狼の出現に驚いたクランベリー邸の馬たちが、制止する人間を振り切って暴れまわっている。おかげで邸内は上へ下への大混乱だ。これも彼らの作戦かと歯噛みしていると、一際巨大な影が頭上を横切った。


ハッとして見上げると、その背中にスタンリーに抱きかかえられたメリルの姿があった。


「メリル!!」


追いかけようと立ち上がったシャノンの目の前に、狼たちが立ちはだかる。どの狼も牙を出し、低い唸り声をあげている。


「どけ!さもなくば叩き斬る!!」


護身用の短剣を懐から取り出し威嚇するも、狼に怯む様子はない。その間にも、メリルは4頭(匹)立ての馬(犬)車に詰め込まれている。


「メリル……!!」


無我夢中で追いかけようとしたシャノンは、メリオットに腕を掴まれ振り返る。


「何ですか!?早くしないとメリルが……!!」

「この狼たちは本気です。あなたならわかるでしょう?こいつらは、人を殺すように躾けられている」

「でもメリルが……!!」

「ここで食い殺されたいですか?」

「……………」


凄んだメリオットの表情に息を呑む。腕を掴む力も、噛み締められた唇も、その全てが今の自分と同じ気持ち……いや、それ以上だとわかった。

だけど、彼は自分を行かせる事が出来ないのだ。それは、国のため。大事な人以上に、国を守る責務があると考えている。


何て愚かなのだろう。人の命以上に大切なものなんてないのに。万の命を守るため、一人の人間を見捨てるなんて……



「生きてさえいれば、取り戻すチャンスはいくらでもあります。しかし、ここであなたが死ねば、そのチャンスは失われ、国も死にます」

「…………」

「シャノン様。それがわかっているからこそ、メリル様もああして悲鳴一つあげずにじっとしているのです」


弾かれたように視線を上げると、走り出した車の扉からメリルが半身を乗り出していた。


「メリル……!!」

「ダメです!!」


思わず駆け出しそうになったシャノンの体をメリオットが必死に押さえつける。中に引っ張り込まれたのか、メリルの姿はすぐに見えなくなった。


パニックになっている馬たちに犬車を追う能力はなく、それに使者も言っていたではないか。

『持久力で狼に適う動物はいない』と…………



「そんな…………」


やがて遠くからまたあの笛の音が聞こえ、ゆっくりと後ずさりして去っていく狼たちを引き止める力はなく……シャノンは、ただ呆然と役に立たなかった短剣を握り締め、膝から崩れ落ちたのだった。



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男装陛下と女装令嬢 神宮透 @kamiya-toru

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