掴めない影と幻

何故、こんな事を……道なき道を踏み分けながらシャノンは悶々としていた。メリルに借りた白い国王の衣装は、草の汁ですっかり緑色に染まっていた。朝食時に交わされたメリルとスタンリーの約束(ほとんどスタンリーが押し切った形だったが)を見守る(と言う名の監視の)ため、メリオットと共に二人を尾行しているシャノンである。

頭に絡みついた蜘蛛の巣も、茨ですっかり穴だらけになった手袋も、メリルのためならばと我慢できた。だが、豪雨のように浴びせられるだけは、流石のシャノンもそろそろ忍耐の限界を迎えようとしていた。


「ああ…っ、また糸が……!シャノン様、ちゃんと取り払ってくださいよ!」

「そう言われましても……身長より遙かに高い場所にある蜘蛛の巣になんて気付けませんよ」


誰よりもそれを一番気にしていると言うのに、自分で言わなければならないのだから空しい。そんなシャノンの心中など推し量る由もなく、追い打ちをかけるようにメリオットはわざとらしいため息を吐いた。


「全く…田舎育ちと聞いていたのに、これでは役に立ちませんね」


これには、シャノンもムッとして言い返す。


「お言葉ですけど、自然の森の方がよっぽど歩きやすいですからね。人を転ばすためのツタの罠や落とし穴なんてのもないわけですし」


散歩道を外れて歩く二人に、クランベリー卿お手製の庭は今や最大の障害となっていた。


「10歩歩けば罠にかかる……こんなんじゃ、いつまで経ってもメリルたちに追いつけませんよ……」


おかげで、二人の話している内容が全く聞こえない。辛うじてその姿だけは見失うまいと必死に草木をかき分けるシャノンに、メリオットがまた違う切羽詰まった声で呼び止めた。


「ああ…!シャノン様…っ、また糸が…!はやくっ、早く、取ってください!」

「…………」


度重なる悲鳴にシャノンは深々と息を吐き出した。


「メリオット様……いい加減、慣れたでしょう?蜘蛛の巣くらい自分でとってくださいよ」

「慣れる訳ないでしょう!あんな8本足のいやらしい生物がお尻から出した糸ですよ!?慣れる方がどうかしてます」


ぷんすかとその輝く銀髪を差し出してくるメリオットに呆れつつも、シャノンはおとなしくその髪に絡まる糸を取ってやった。無事に呪縛から解放された髪の毛を労るように指で梳き、メリオットは満足そうに頷く。


「ああ、良かった。これで私の国宝級の髪の毛も守られました」

「……それは良かったですね……」


髪の毛一つで、こんなに一喜一憂出来るのだから羨ましい。とにかく、今は目の前の二人を見失わない事が大切と前方に意識を戻したシャノンは、慌てて身を潜めた。いつの間にか、二人が立ち止まってこちらを窺っている。


「……気付かれたんでしょうか?」

「最初から気付いていましたよ」

「えっ!?」

「あの第六感だけで生きてきたような殿下が気付かないとお思いですか?」


当然と言わんばかりに告げられ、シャノンは開いた口が塞がらなかった。


「え?え…?じゃあ……ここまで苦労して隠れた意味は……」

「ないですけど、ありますね」


しれっとそう返され、シャノンは気が遠くなる。


「…ど、どう言う……」

「まず、政治とは外聞を気にして体裁を整えるものです」

「は、はあ……」

「要は、一種のパフォーマンスです。と相手を牽制しつつ、先方の要求をある程度吞むだけの許容の広さも見せなければなりません」

「…なるほど……本音と建前と言うわけですね」


政治の駆け引きにうといシャノンも、メリオットの言わんとしている事が分かった。つまり、余裕のある所を見せなければいけないのだろう。それがひいては国力、政治力ともイコールで繋がってくるのだから。


「まあ、あなたに一朝一夕で出来るとは思っていませんがね」

「……それは…そう、ですね……」


今まで政治とは無縁の、田舎貴族の六男坊として育ってきたシャノンである。自分でも、陰謀や策略だなんて言ったものとは到底結びつかない性格をしているのはよくわかっていた。とは言え、一度は誘拐までされた身である。以前よりは、そう言った事への理解力が上がっていると自覚していただけに、この仕打ちは不満だった。


「……だけど…少しくらい、言ってくれても……良かったじゃないですか……」


おかげで、使わなくていい体力を無駄に使ってしまった気がする…。

ガックリと肩を落としたシャノンを鼻で笑い飛ばし、メリオットは前方で散歩を続ける二人に目をやった。


「全く、のんきなものですね……メリル様をかすめ取られそうな危機だと言うのに」

「えっ!?そ、そ、そそそんな貞操の危機なんですか!?」

「バカですね。そう言う意味じゃありません。もっと心理的な意味でです」

「心理的……?」


咄嗟には意味がわからず怪訝そうに眉をひそめたシャノンを、メリオットは哀れむように見下ろした。


「彼は、隣国の王です」

「……そうですね」

「王の王たる所以は、誰に分かつ事も出来ないその孤独です」


ハッと目を見開いたシャノンを、メリオットはその妥協を許さない瞳でじっと見つめる。しばらく無言で見つめ合った後、先に視線をそらしたのはシャノンの方だった。


「……王の孤独は…王にしか分からない、ですか……」

「そうです。一つの国につき、国王は一人。そして、代替わりするのは前の王が崩御した時。故に、王は常に独りなのです」


言われてみて初めて、その言葉の重みに気付く。


「…メリルの苦しみを理解できるのは、彼だけだと……?」

「逆もまた然りです」

「なるほど……確かに、それは…手強いですね…」


ポリポリと頭をかき考え込んだシャノンは、しかし思いのほか気負っていない様子で顔を上げた。


「でも、メリルが俺に望んでいるのって、そう言う事じゃないような気がするんですよね」

「ほう……?」

「苦しみを分かって欲しいとか、理解して欲しいとかじゃなくて……何と言うか、一緒に新しい景色を見に行こう。……みたいな」

「……へえ」


そこまで言って、自分を見つめるメリオットの目が全然笑っていない事に気付き、口を閉じる。


「あの…なにか……?」

「いいえ、別に。ただ、自分の中の独占欲と闘っているだけです」

「は、はあ……」


よくわからないが、これ以上この話題は続けない方がよさそうだと判断したシャノンが視線を前に戻すと、いつの間にか噴水の縁に並んで腰掛ける二人の姿が目に入り、ぎょっとした。


「い、いつの間に、あんな近くに……」

「ああ、私の危惧していた事態が起こりそうですね」

「……と、言いますと…?」


ちらりと視線だけを寄越したメリオットは、低い声でぽつりと呟く。


「王妃探しです」

「おっ……」

「王妃探しです」

「い、一度言えばわかりますよ!」


ただ、その言葉の衝撃が凄くてすんなりと意味が入ってこなかっただけだ。浅い呼吸を何度か繰り返すと、シャノンは動悸の治まらない胸を押さえて慎重に聞き返した。


「お、王妃探し、と仰いましたか……?」

「一度聞いたら解るんじゃなかったんですか」

「し、衝撃が強すぎて、意味が入ってこないんですよ!!」

「しっ」


思わず大声を出したシャノンの口を塞ぎ、メリオットは鋭い瞳で牽制する。


「いくらバレているとは言え、をなさないと面目が立ちません」

「………」


首振り人形のようにコクコクと頷いたシャノンの口からそっと手を外し、メリオットは険しい表情を崩さずに言った。


「今までずっと交流が途絶えていた国が、他国との国交を復活させるのに一番手っ取り早い方法は何だと思いますか?」

「王族との、婚姻関係……ですか?」

「その通りです。ですが、我が国には直系王族の血を引く女性がいません。ですが、王のお相手に選ばれる程の身分なら何ら問題はありません」


通例、交流の一環として婚姻関係が結ばれる事は珍しくはない。それは言わば、人質の意味合いもある。そして、我が国で直系の血を持つ人間が一人だけいた。


「…メリル、なんですね……」

「ええ。本来なら、その身分に相応しいのは他ならぬメリル様になります。しかし、運良くあなた達は入れ替わっていた」

「もし、入れ替わっていなかったら……?」

「十中八九、メリル様は求婚されていたでしょう」


しかし、それは完璧に身分の釣り合いがとれた二人であり、反対の声はそれほど上がらなかったであろう。自分たちの置かれている状況と照らし合わせると、シャノンは何とも居心地の悪い思いがした。


「……でも、今のメリルも王の婚約者と言う立場にいるわけですから、身分的には何ら問題ないと思われてるんじゃないですか?」

「問題はそこです」


ビシリと指を突きつけ、飲み込みの早い生徒に満足したようにメリオットは頷く。


「この国の王が実は女性だと言う事実はバレずに済みましたが、メリル様が殿下の妃候補に相応しいと言う事態からは免れられておりません。何だったら、国王であった時よりも更に手を出しやすくなっております」

「いや、ますます大問題じゃないですか!」


咄嗟に飛び出して行きそうになったシャノンの襟首を引っ捕まえ、メリオットは呆れたようにこめかみを揉んだ。


「私のさっきの話、聞いてましたか?ここで出て行ったら、今までの苦労が全部ムダになるでしょう」

「そ、そうですけど……メリルが口説かれているのを黙って見ているわけには……」

「“メリルの求めているものに応えられるのは自分しかいない”と、言ったばかりのその舌の根も乾かぬ内に何をほざいているんですか」

「そ、そこまでは言ってな……」

「言ったも同然です。そこまで解っていながら、何故メリル様を信じてもっと泰然と構えていられないのですか」


耳の痛い指摘にシャノンは押し黙る。確かに、メリルは自分よりもよっぽど政治的な駆け引きに優れている。なればこそ、ここは信じて大人しく成り行きを見守るべきなのかもしれない。


「そ、それは、そうなんですけど……」

「ほら!しゃきっとなさい!男としても為政者としても遅れを取っているんですから、せめて態度くらいは大きくしていなさい!」


咳き込むほど背中を強く叩かれて、目尻に浮かんだ涙を拭う。メリオットの言う事はいちいち的を得ていて、ぐうの音も出ない。とは言え、二人の会話が聞こえないと不安も募る。せめて、あとちょっとだけでも近付けないかと足を踏み出したシャノンの眼前に、突然星が散った。驚いて口から飛び出したのは、カエルが潰れたような声だった。


「ぎゃっ……!?」

「あら、牽制されましたか」


明滅する視界に見覚えのあるモスグリーンのヒールが映った。シャノンの記憶違いでなければメリルが履いていたはずの靴。何故、こんな所に……と考えるよりも先に、痛みの方が勝りうずくまる。ズキズキと痛む場所に恐る恐る触れてみると、大きなこぶが出来ていた。まさか血まで出てはいまいかと何度も確認し、ホッと息を吐く。


「……今のは……メリルの靴、ですか…?」

「ええ、殿下が投げて寄越したようですね」

「何で、そんな事……」

「ちなみに、もう一足はメリル様自身が向こうに放ったようです」

「………」


ますます意味がわからない。でも、こちらにあまり意識が向かないようにしてくれたのかもしれない。仮にも一国の王(仮)が、汁まみれで雑草に埋もれている姿は見せたくない。


「わざと……でしょうかね」

「ええ、間違いなく。よっぽど私たちに聞かれたくない話だとみえます」

「……例えば…?」

「さあ、それは後でメリル様に聞いてみましょう」


そう言うと、メリオットは忍んでいた事も忘れたように音を立てて来た道を戻り出す。ギョッとしたシャノンが呼び止めると、肩越しに振り返りメリル達のいる方向にあごをしゃくった。


「話はもう終わりのようですよ。先に館に戻っていましょう」


促されて視線をやり、シャノンは今度こそ飛び上がった。均整のとれた体躯がメリルの体を包み込んでいた。俗に言う、お姫様だっこである。不意打ちを受けたのか、メリルは途方に暮れた顔をしていた。陽の光が二人の姿をシルエットで浮かび上がらせ、まるで一枚の絵画のようであった。


シャノンは状況も忘れてその光景に見惚れ、思わず呟く。


「きれいですね……」


全く、どこまでお人好しなんだか……。メリオットの呆れたような呟きが庭園内にこだました。



*******



「何を話してるか、分からなかったですって?何ですか?それ」

「いや、それが本当に分からなかったんだ」


疑わしそうな目で紅茶のカップを傾けるメリオットに、メリルは必死に弁解する。その日の夕方、与えられた一室でスタンリーの挙動についての報告会が行われていた。


「はぐらかしてるんじゃないでしょうね……」

「まさか!私がそんな事する道理がないだろう」

「……どうだか」


やけに刺々しいメリオットの態度に、メリルは首を傾げる。


「私が何かしたか?なあ、シャノン?」

「さあ……」


水を向けられるも苦笑いを返すしかないシャノン。まさか、お姫様だっこされたのが原因だとは口が裂けても言えなかった。そもそも、あれは不可抗力だったのだし、シャノン自身も特に嫉妬などは感じていなかったのだが……どうやらメリオットはそうでなかったらしい。強いて言えば、娘をとられた父親の心境とでも言うのだろうか。この婚約においての一番の障害は、やはりメリオットと言う気がしてならない。


「と、とりあえず……結婚の話、とかではなかったんだね?」

「結婚?いいや、違う。創国記とか、裏切りとか…そんな話だった」

「はあ?何ですかそれ?」

「だから、よく解らないと言ったろう」


いい加減、説明に疲れたように首の凝りをほぐしたメリルは、ふと重要な事を思い出したように呟いた。


「……そう言えば、国を作り直すとか新しく作るとか…そんなことも言ってたような……」

「作り直す?……まさか、戦争でも仕掛けてくる気ですか?」

「せ、せんそう!?」

「いやいや、そこまでの意味じゃない。もっと抽象的な……言葉の綾みたいな印象だった」


戦争という単語に思わず腰を浮かしかけたシャノンを、メリオットがやんわりと制す。


「話は最後まで聞きなさい」

「は、はい……すみません…」

「それで、それは一体どう言う意味だと踏んだんですか?」

「うーん……最初は心理戦を挑まれてるだけなのかと思ったが……もしかしたら、二国間の国交正常化の事を言ってる可能性もあるかもしれないと思ってな……」


そう言いつつもさっぱりピンときてない様子のメリルに、メリオットは食ってかかる。


「しっかりしてくださいよ!こっちは、殿下に牽制されて話までは聞き取れなかったんですから」

「ううむ……すまん……」


必死に真実への糸口を見つけ出そうとするも、あの飄々とした殿下の態度からはそれ以上何も読み解けそうになかった。


「何というか……蜃気楼のような人ですもんね」

「ほう、言い得て妙ですね」

「詩人だなシャノン」


口々に褒められてこそばゆさを感じながらも、シャノンは自分が感じたスタンリー像を語り始めた。


「実体があるようでないと言うか……その時々によって言葉も態度も表情も全然違うので、まるで万華鏡のように騙されそうになるんですけど……多分、彼の中には何かしらの一本軸みたいなのがあって、それに従って行動しているように見えるんですよね……」

「ふむ、分析ご苦労……で、我々はその軸が何たるかを見極めようとしているんですが?」

「あっ…そうですよね!すみません、余計な口を挟みました」


慌てて謝ったシャノンをメリルがかばう。


「メリオット、あまりいじめるな……それにシャノンの総括は役に立った。改めて、あの男は一筋縄ではいかないと言う事だ」


満足そうに頷いたメリルを見て、メリオットは溜飲を下げる。まだ少し足りなかったが、メリルが納得していたので良しとした。相変わらず、メリルには甘いメリオットである。


「で、この後はどうするつもりなんですか?」

「変わらずだ。このまま泳がしておこう」

「まあ、そうなりますよね……」

「あの、でも大丈夫なんですか?メリルがこれ以上危険な目に遭ったりとか……」


心配そうに尋ねたシャノンに、メリオットが鋭い視線を投げつけた。


「そうならないように目を光らせておくのが、あなたの仕事でしょう?」

「…はい、仰る通りで……」


全くその通りだと悄然と頷きながらも、果たしてその時に自分がどんな行動をするのか想像がつかなくて、少しだけ怖くなる。両国間にヒビが入るような事態は避けなければいけないが、咄嗟にそう冷静でいられるだろうか。シャノンのそんな葛藤に気付いたのか……メリルが取りなすように優しく言った。


「安心しろシャノン。きっと殿下は、もう私を散歩に誘って来ないと思うぞ」

「え…本当?」

「全く、何を根拠に……」

「“言いたいことはもう言った”と言う感じだった。それまでも特に会話らしい会話もしていなかったし、あの殿下は世間話とは何ぞやと言う感じだな」

「……まあ、それならそれでいいですけど」


渋々言葉を引っ込めたメリオットは、しかし納得していない様子で言った。


「とは言え、読めない人ですから何をしでかすか分かりませんよ」

「もちろんだ。それは十分に気を付ける」

「だと、いいんですけどねぇ……」


疑わしそうにメリルを眺め回した後、メリオットは諦めたように息を吐く。


「…とにかく、お二人とも今後も気を抜かないように」

「はい!」

「ああ!」


勇ましく返事をした二人の手がテーブルの下で繋がれている事に気付き、メリオットは頭を抱えた。全く、この色ぼけした二人があの殿下と渡りあえるだろうか……そんな一抹の不安を残したまま、来訪二日目は無事に過ぎていった。



*****



「また、来ているんですか?」

「ええ……相変わらず近付いて来ませんが」


殿下が現れて数日、メリルを散歩に連れ出したあの日からスタンリーは全くシャノン達に関わってこようとしなくなった。朝食時には広間に現れるものの、食事を済ませるとさっさと自分の部屋に戻っていってしまう。肩すかしを食らったのはメリル達の方だ。次はどんな手でくるのかと警戒していた(主にメリオットが)だけに、拍子抜けした。


しかし、その代わりに現れたのがスタンリーの狼である。日に何度も現れては、こちらを観察するようにじっと窓の外に佇んでいる。現に今も、一日の仕事を終え部屋に戻って来たシャノンを待ち構えていた。


「……全く、気味が悪いったらないですね」

「本当に何をしているんでしょう?」


この部屋にはプライベートガーデン(前庭)がついている為、寝室以外にカーテンは取りつけられていない。


「向こうの部屋に行きましょうか?」

「いえ、ここで大丈夫です……まさか、狼が着替えを覗いて喜ぶ趣味もないだろうし」

「どうですかね」

「え゛」


冗談のつもりだったのに、メリオットに真顔で返されシャノンは口元を引きつらせた。念のため、窓に背を向ける形で着替えを手伝いながらも、メリオットはここ数日の疑念を口にする。


「あながち、あり得ない話ではないかもしれません。狼自身の意思は別にしても、あの男が何らかの指令を下している可能性はあります」

「例えば……?」

「私たちを監視させるとか」

「……監視したとして、どう報告させるんですか?」

「知能の高い犬なら、主人の簡単な質問に対してイエス、ノー、くらいは答えられると聞いたことがあります。イエスなら吠える、ノーなら吠えない…と言った風に」

「……急に話が現実味を帯びてきました…」


そうでしょう?と、メリオットは何故か少し嬉しそうに答えた。相手が尻尾を見せ始めたので心が躍っているのかもしれない。


「この場合は、こうです。『国王は女だった、イエスかノーか』」

「……でもそれは、国王を女だと怪しんでいなければ、そもそも発生しない質問ですよね?」

「もちろんです。それについては、あなたたちがうまい具合に入れ替わってくれていたので難を逃れられました」

「いえ、怪我の功名と言いますか……」


女達によってたかって体を擦られたのは記憶に新しい。シャノンが壮絶な記憶と闘って身震いしていると、着替え用のガウンを手にしたメリオットがちらりと外に視線を送る。


「……いなくなりましたか」

「殿下の所に戻ったんでしょうか?」

「…さて、もしかしたらメリル様の所かもしれませんね」


誰もいなくなった庭の様子を確かめながら、メリオットはランプの灯りを落とした。寝室の中をチェックし、シャノンの服を持って就寝の挨拶を述べる。


「では、私は一応メリル様の様子を見てから休みますので。おやすみなさい」

「ええ、今日も一日ありがとうございました。良い夢を」


お手本のようなお辞儀をして去って行くメリオットを見送り、シャノンは寝室の扉を開けた。しかし、まだ寝る気がおきず踵を返す。部屋には、メリオットが置いていったランプの灯りが一つだけ。その弱々しい光に誘われるようにしてシャノンは窓辺に立った。暗闇の中で爛々と光るあの双眸を思い出し、背筋が冷たくなる。


あの狼は、本当に殿下がけしかけたのだろうか……


まるで腹の底が読めない男だ。漆黒の瞳はどんな光も通さず、感情も映さない。まるで希代の職人が作り上げた精巧な人形のようだ。


「スタンリー…ジルバート、か……」


その響きを確かめるように呟き、固く瞼を閉じる。一日の疲れで火照った頭を冷やすように、冷たい窓ガラスに額を押しつけた。ひんやりとした感触が心地良い。すると、先程は感じなかったはずの眠気が急に襲ってきて、慌てて頭を振る。まだ考えなければいけない事があるはずだ。だが、その思考さえも段々霞がかってきて……


ハッとしたシャノンが次に目を覚ました時には、先程より時計の針は30分も進んでいた。窓の縁に不安定な体勢で座っていたせいで、体中が痛い。強張った節々をほぐすように大きく伸びをして、ちゃんとベッドで寝ようと寝室に向かったシャノンはギクリと足を止めた。

メリオットがさっき閉めていったはずの扉が数センチ開いている。風?……いや、そんな隙間風で開くほど、ここの建て付けは悪くなかったはずだ。

生唾を飲み込み、慎重な足取りで扉へ向かう。メリオットが置いていったランプはもう油が切れかかっていて、わずかな光源しか生み出していない。他に、窓から差し込む月の光だけがこの部屋の明かりの全てだった。


「こんばんは」


扉の隙間から滑り込んできた、低く、甘い声に、シャノンは動きを止める。今まさにドアノブを掴もうとしていた腕をゆっくりと下ろし、後ずさった。緊張で乾いた唇を何度も湿らせ、震える声で問いかける。


「………スタンリー…殿、下……?」


答えの代わりに、スタンリーは闇の中から静かに姿を現した。暗闇に溶け込んだ漆黒の髪と瞳が、その肌の白さをより際立たせている。


「夜分遅くにすまないね。君と、少し話したがしたくて」

「ええ……それはどうも………」


誰か人を呼ぶべきだろうか?部屋には呼び鈴がついているので、鳴らせば例えメリオットでなくとも誰かは来る。だが、こんな夜更けに供も連れず訪ねて来るのだ……何か人に聞かれたくない話があるに決まっている。


「せっかくの機会だし、誰にも邪魔されたくない」


案の定、遠回しに人払いの意思を提示され、シャノンは腹筋に力を込めた。この間メリオットに教わったばかりではないか。交渉術の基本その①『相手につけ込まれる隙を与えてはならない』


「き、奇遇ですね。私も一度しっかり話したいと思っていた」

「………」


スタンリーは答えなかったが、妙に和やかな微笑を浮かべていた。シャノンの背筋を冷や汗が流れる。落ち着け。ここで焦ったり取り乱したりすれば、王の器を侮られる。それだけは決して、この国の名誉にかけてあってはならない。一世一代のプライドの見せ所だと覚悟したシャノンは、大きく息を吸った。

その2『背筋を伸ばし、胸を張る事』



「では、とりあえずソファへ……」

「いや、ここで結構」


シャノンの案内を断り、スタンリーは入り口脇の壁にもたれかかる。


「こんな夜中に訪ねてくる不心得者を部屋に招き入れるとは、君も大概不用心だな」

「……自覚はあるんですね」

「まあ、わざとだからな」


皮肉気に口をゆがめると、スタンリーは灯りの消えかかったランプに目をやった。


「とは言え、流石にこの暗さでは何も見えないな」

「あ!すみません、すぐに新しい火を……」

「いや、これでいい」


部屋の中に走って行こうとしたシャノンを押し止め、近くのチェストの上にあった燭台に手を伸ばしたスタンリー。怪訝そうに見つめるシャノンの目前で手を振ると、まるで魔法のように一瞬で火が点った。


「……火打ち石…?」

「目がいいんだね」


驚かそうと思ったのに残念、と肩をすくめたスタンリーは、ゆっくりとその手を開く。は、小さな黒い石二つだった。


「でも、すごいです……こんな風に火打ち石を扱える人なんて、初めて見ました」

「よく野宿をするから、その賜かな」

「はあ……」


よく野宿をする王とは……口に出かけた疑問を慌てて飲み込み、シャノンは笑顔で取り繕う。


「サバイバルの知識もあるなんて感心です」

「君もじゃないか。これを見て一目で火打ち石と分かるなんて、あとその動体視力も。都育ちとは思えない」

「………田舎が好きでよく自然で過ごすので」

「へえ、忙しいのに時間を見つけるのが大変だろう」

「…そちらも」


聞けば、隣国は内戦続きだと言う。国内の争いを平定するのには時間がかかるはずなのに、この王はそんな中ふらふらと出歩いているのだろうか?……とは言え、スタンリーが深慮の及ばない愚王だと言う結論も、いささか早計な気がしていた。


「時に……少し、突っ込んだ質問をしてもいいかな?」

「ええ…お答えできる範囲には限りがありますけど、それでよければ」


何せ、この王はよく


「利口な返答だね。無条件に頷かない辺りが好感がもてる」

「……それはどうも」


少し前の自分であれば素直に返答していたかもしれないが、ここ数ヶ月メリオットにしごかれていた成果だ。わずかでも返す言葉を間違えば、あっと言う間に足元をすくわれそうで、そんな綱渡りの会話に否が応にも緊張が増す。硬直したシャノンを品定めするように、スタンリーはゆっくりと周囲を闊歩し始めた。


「それで、彼女とはどこで出会ったの?」

「お見合いで」


これについては嘘ではない。しかし、彼が本当に知りたいのはそんな事ではないようだった。


「彼女の生家は王族と縁がある?」

「……何故そんな事を?」

「単なる貴族にしては動きが洗練されすぎているからさ。貴族だとしても、相当の良家の血筋でなければ身につかない所作だ」


抜け目ないスタンリーの観察眼に、シャノンは内心舌を巻く。この調子では、自分がただの田舎者だと言う事もとっくにバレているのかもしれない。とにかく、メリオットに仕込まれた王らしい振る舞いの数々が自然と身についているのを願うばかりだった。


「それは、まあ……王妃候補に選ばれるくらいですから」

「随分と熱のない言い方をするんだね。“僕の婚約者”くらい言えばいいのに」


痛いところを突かれ、シャノンは押し黙る。どんなに上辺を取り繕っても、心にまで鎧を着せる事は難しいのだ。そんなシャノンを見透かしてか、スタンリーは瞳を覗き込むように腰をかがめてくる。


「随分、彼女に気を遣っているみたいだね。イニシアチブは向こうの方にあるのかな?」

「好きな女の子に嫌われたくないのは当然です」

「君は王なのに?いざとなったら、力ずくで言う事を聞かせればいい」

「そう言う考えは嫌いです」


強い口調で言い返してきたシャノンに、スタンリーは鼻白んだように肩をすくめた。


「随分と優しいんだね」

「スタンリー様は違うんですか?」

「嬉しいね。名前で呼んでくれた」


おどけたようにそう言って、シャノンの輪郭を人差し指でなぞる。


「今まで、隣国の王は一体どんな奴なのかと想像してきたけど……思いがけず、可愛らしくて嬉しいよ」

「………」


侮蔑されている事が分かり、シャノンはその手を力一杯振り払った。パン、と乾いた音が部屋の中に響く。

シャノン自身のプライドが傷付いた訳ではなかったが、王代理としてなめられてはいけないと言う使命感だった。



「好感を抱いてくれたのは大変嬉しいんですが、僕はそっちの気はありませんので」

「おっと、失礼。そんなつもりはなかったんだが、勘違いさせてしまったかな」


振り払われた手を揺らしながらクスクスと笑うスタンリーに、シャノンも開き直る。もうここまで来たら、優等生を演じていてもあまり意味はなさそうだった。


「こんな夜更けに、いきなり訪ねて来た目的は……メリルですよね?」

「話が早くて助かるね」

「メリルをどうするつもりですか?」

「別に、どうもしないよ。ただ、興味があるだけさ」


当の婚約者フィアンセを前にしてそんな言う神経の図太さが、シャノンには信じられない。そんな非常識な男には、こちらも義理立てする必要はなかった。


「彼女には指一本触れさせません」

「怖い顔だねぇ。そんなに睨まなくても、今の所は何もするつもりがないから安心して」


今の所はの部分をやけに強調して言ったスタンリーに、シャノンは溜息を吐く。


「スタンリー様のそれは……単に、からかっているだけなんですか?それとも、本気なんですか?」

「さあ、どっちだと思う?」

「………冗談半分、本気…半分、ですかね」


冷静に答えたシャノンにつまらなそうに肩をすくめ、スタンリーはチェストに腰かける。先程までその上にあった燭台は、今は彼の手の中だ。


「彼女の事が気に入ったのは本当でね」

「………」

「最初は、君の事を見定めるつもりでいたんだけど……いつの間にか彼女しか目に入らなくなっていた。何と言うか、不思議な魅力を持っているね。中性的というか……性の枠に囚われない強い個性みたいなものさ。それに比べて、君は驚く程に凡庸だ」



ここはまた怒るべき所だったのかもしれないが、彼の鋭い観察眼とメリルへの的確な評価に思わず納得してしまい、その機会を逸する。


「……彼女の前では、どんな物も霞んで見えるのは確かです」


例え相手がどんな奴だろうと、メリルの事を褒められれば、つい邪険には扱えなくなってしまうのがシャノンの悪い癖だった。メリルに関しては、とことん甘くなる。そして、それはそのまま弱点でもあった。

口元を綻ばせながらメリルの事を考えているシャノンの横顔を見つめ、スタンリーは一人頷く。知りかったのは彼女の事ではない。王が一番大事にしているものが、『彼女かどうか』だった。


図らずとも答えが知れた事に満足し、スタンリーは立ち上がる。手にしていた燭台をシャノンに押しつけ、再び瞳を覗き込むように腰をかがめてくる。頭二つ分も違う二人の身長差は、まるで大人と子供のようだった。感情の読めない漆黒の瞳に見つめられて、シャノンは思わず後ずさる。闇夜に切り取られたように浮かぶ青白い顔が不気味だった。



「この国の守護石ガーディアンストーンは、サファイアだっけ?」

「え……?」

「なるほど。だ」


シャノンの顔から視線を外すと、スタンリーはもう興味を失ったように黙り込む。


守護石ガーディアンストーン?確かに、この国の国石はサファイアだけど……)


昔からこの国ではサファイアがよく取れる。近隣諸国の中でも輸出量一位を誇り、王や王妃が戴く王冠にも必ずサファイアが使われている。今は嵌めていないが、メリルからもらった婚約指輪にも確かサファイアがあしらわれていたはずだ。


……しかし、それと今、何の関係が?


自分の瞳がサファイア色をしている事をすっかり失念していたシャノンは、首を捻る。



「じゃ、俺はもう帰るよ」

「はっ!?」


自分の言いたい事だけを言い終えると、さっさと踵を返したスタンリーに、シャノンは思わず素っ頓狂な声を上げた。


「え、えっ、ええ!?まさか本当にそれだけを言いに来たんですか!?」

「とても重要な事だよ」


他にも、もっと国同士の密約事などを切り出されるのかと身構えていたシャノンは、拍子抜けする。本当にメリルの件についてのみ言及しに来たのだろうか……まさか、が彼の本来の目的だとは思わず、シャノンは彼を余計掴みにくく感じた。


そんなシャノンを能面のような表情の下で観察し、スタンリーは自分の思惑が悟られていない事にほくそ笑む。どうやら、自分の考えは彼の想像の範疇外にあるようだ。それがとても心地良い。

優越感に浸りながら部屋を出ようとしたスタンリーは、服の袖を掴まれ振り返った。


「あなたの本当の目的は何なんですか?」

「………」


咄嗟に引き留めてしまった事に気付いたシャノンは、慌てて手を離し詫びる。


「すみません、俺こう言う駆け引きに疎くて……スタンリー様の真意や持って回った言い方の裏にある意図なんて読み取れません」


あまりにも正直すぎるシャノンの言葉に、スタンリーは忍び笑いを漏らした。


「ああ、本当に……何て可愛らしいんだろうね」

「……バ、バカにしてますよね?」


ムッとしたように眉間にしわを寄せる様もとても面白い。だが、それ以上隣国の王の機嫌を損ねないためにも、スタンリーはおかしさを必死で堪えなければならなかった。


「人の本音を探ろうとすればするほど、深い罠にはまっていく事だってあるんだよ。裏の裏は表さ」

「……スタンリー様は、嘘は言ってないと言う事ですか?」

「さあ……それはどうかな?全部嘘かもしれないし」


結局、今までと同じようにはぐらかして、スタンリーは音もなく廊下の闇に滑り出た。


「それじゃあ、今度こそ本当におやすみ。この国の守護者ガーディアンさん」


最後にフッとシャノンが手に持つ燭台の火を吹き消すと、スタンリーは今度こそ闇の奥に消えていった。蝋燭からたなびく白い煙が、窓から差し込む月の光を浴びて、部屋の中を漂っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る