第16話 エピローグ
朝7時、テレビから農業労働者用自動再生ニュースが流れるよりも前に、私は目が覚めた。窓を開けると、海沿いからの潮風が入り込んだ。潮風は農場の野菜臭を運んだが、それが私の鼻につくことは無かった。退院し、私が日常に戻ると、自然とそうなっていた。青臭いということは認識できるが、それに対して感情の起伏は起きなかった。
私が農場に戻ったとき、坂峠農場長は追加で休暇を取ることを勧めたが、私はそれを断った。一週間近く農場から離れていたせいか、早く農場での日々を取り戻したかった。私が戻ってから数週間後、前期集計会議が行われた。私の里芋の供給率と成長率計算はうまく当たり、農場に更なる信頼と実績をもたらした。そのおかげか、吉川くんは私を尊敬するようになり、他の第二世代たちや第一世代の農場従業員も親しみやすくなった。私は今、農場での仕事に充実感を持っていた。
リビングに行くと、栞がすでに朝食の支度をしていた。お腹は大きくなっており、私が以前、自分が朝食の支度をしようと頼んだが、彼女にとってこの日々のルーティンは変えたくないらしく、今もこうして皿やドレッシングを並べている。相変わらず、彼女が使うドレッシングは四本とも横一線綺麗な減り方をしていて、こういうところに私は彼女を感じた。
病院でのあの告白以来、彼女は例の症状を起こすことはなかった。薬も使う必要が無くなり、残った錠剤が薬箱の奥底にしまってあるだけであった。支度が済んで、彼女と一緒に皿に盛られた色とりどりの野菜たちを口に運んだ。噛むたびに味や音が脳に響き、夢心地な私を現実へと戻し、飲み込むたびに自分の生を実感させてくれた。シート状テレビを起動し、ニュースでいつもの平穏で平和な日常が始まることを確かめ、チャンネルを今日の野菜価格発表に変えた。それを一緒に見ながら、ふと彼女が。
「ねえ、今私たち、幸せね」
と声を漏らした。私は小さな声で「うん」とだけ返事をした。私たちは互いの表情を見てはいなかったが、どちらも微笑んでいるに違いなかった。
朝食終え、自室に戻り、農業作業着に袖を通した。ここ最近、除菌防菌洗濯乾燥タンスの調子が悪く、作業着に少し青臭さが残っていた。早く修理にかけようと思っていたが、一日の終わりにはどうせ青臭くなるからと今日まで放置している。最初のうちは栞が気にしていたが、笑いながらあなたらしいと言われ、それ以降特に何も言って来なくなった。
着替え終え、私用端末を確認するが誰からも連絡はなかった。退院したあの日以来、鴨居とは会ってはおらず、彼に連絡をしてみるも、身篭っている栞さんを一人にするなとだけ返ってくるのみだった。落ち着いたら、彼に会って私の幸せを報告しようと思った。多分それが私にできる彼への恩返しだ。論文引用申請嘆願書の連絡も来なくなった。もう完全栄養作物研究は廃れてしまったのかと思ったが、特に寂しさはなく、研究に対する熱意も何もかも私にはすでになかった。
家を出て、空を見上げると快晴で、雲ひとつなかった。鈴鹿山脈の頂上付近には雪化粧がされており、息を呑むような美しさがあった。朝方のせいか、緑色というよりも黒色に近い山脈は力強く見え、一日の活力を私たちに与えているようだった。私は作業着の襟を正し、公民館近くのバス停へと向かった。
バス停にはいつものように農場勤務者たちが並んでいた。皆の表情はどれも同じだったがどことなく和らいでいた。私も列に並び、彼らと同じように和らいだ。自動バスはいつもと同じように松本から来て、中に数人乗せていた。そのため、私は今日も立ち乗りをした。私の立っている場所は常に同じで、他の乗客も定位置に座ったり、立っていることにここ数日で気づいた。
私も彼らも社会、ひいては農場の歯車だが、皆そうする必要があるからそうしているのだと思っている。誰かがそこにいるというだけで、皆の安心や平穏につながる。もし、昨日まで乗降口前を定位置にしている人が今日突然いなくなったとしたら、皆不安がり、余計なことを考えてしまう。皆が皆に安心感を与えているのだ。特に敏感派たちはこうした日常の差異が心に悪影響を及ぼしてしまう。だから、私は今こうしてこの場所で立ち乗りしていることに意味と役割を感じている。
自動バスは同じ時間に同じコースを走り、今日も新四日市港境門に到着した。境門前で降り、自分の農場のある十番島に向かって歩いた。農場島の合間から伊勢湾が見え、海は朝陽を反射していた。また、伊勢湾横断大橋は緩やかな弧を描いており、それは暗く不気味な常滑へと伸びていた。配送口から出てくる出荷トラックはけたたましい音をあげ、今日も始まる農場の忙しさを表していた。
急に青臭い匂いが強くなった。私はその原因である農場の煙突を見上げた。煙突から出る煙は潮風に煽られ揺れていたが途切れることなくどこまでも青い空に続いていた。
「大農業都市四日市 完」
大農業都市四日市 鮎川秀一 @SyuichiAyukawa
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