鯨よりも深く
野森ちえこ
新米父娘
「私のことどれくらい愛してる? って聞いてくれ!」
期待に声をはずませているおっさんの姿が、机に向かっている
エアコンで適温になっているはずの部屋の温度が三度くらいあがったような気がする。暑苦しい。
愛海は参考書に視線を落としたまま知らんぷりを決めこむ。
「聞いてくれ!」
しかし相手はめげない。
わかっている。無視したくらいであきらめる相手なら愛海も苦労しないのだ。
静かに勉強したいのに、図書館は遠いし、こういうとき自分の部屋というものがあるクラスメートが心底うらやましくなる。
「お願い!」
このアパート、広さはそこそこあるのだが、残念なことに部屋数がない。
「愛海ちゃん!」
ふすまで仕切ればいちおう二部屋になるものの、この人のウザさはふすま一枚程度では到底ふせげないということを、愛海はよく、とてもよく知っているのである。
「愛海さま!」
しかたない。目は参考書に向けたまま、愛海は抑揚のない声で
「ワタシのコトどれくらいアイシテるー?」
「
それをいうなら、海よりも深くではないのか。
「へえ」
「うっす! 反応うっす! もうちょっとこう……ほら、なんで鯨なの? とかください!」
「どうでもいい」
「うう……冷たい。愛海が冷たいぞ」
「あのねえ」
あからさまにため息をついた愛海はうんざりと顔をあげた。
窓の外には真夏の太陽にジリジリと焼かれているお向かいの家が見える。人間なんて外に出た瞬間灰にされそうだ。
「こんなアホなリクエストしてくるオヤジに返事してあげる思春期の娘なんてあたしくらいだよ? てか知ってる? 今あたし受験生。しかも夏休みを制する者が受験を制するっていわれるくらい大事な夏休みまっただなか。そこのところ、父親としてどうお考えなのでしょうか」
「大丈夫だ! 愛海はオレとちがって頭いいし、賢いし、かわいいし、やさしいし、愛海を落とす学校なんて存在しないから!」
この人に聞いたあたしがバカだった。と、愛海はガックリうなだれた。
「だから聞いてくれ!」
なにが『だから』なのか。まるで意味がわからないが、愛海の父たる
深海で狩りをする、世界最大級の哺乳類であるマッコウクジラは、三千メートル程度の深さまで潜水可能なのだとか、でも潜水時間の長さでは、おなじくらい深くもぐれるアカボウクジラが飛び抜けているのだとか。
おそらくネットニュースかなにかで仕入れたのだろうにわか知識を得意げに披露するさまは、それこそ夏休みの自由研究でも発表している小学生みたいだ。
「ということで、ホエールウォッチングに行こう!」
鯨を見たところで深海に行けるわけでもないだろうに。
それよりなにより、もう一度いう。声を大にしていう。愛海は受験生なのである。
「知ってるか愛海。受験勉強には息抜きが必要なんだぞ!」
一事が万事こんな調子の岳仁と話していると、愛海はむしろもっとしっかり勉強しなくてはいけないような気になってくる。
「それにな、オレは愛海と旅行がしたい! いや、愛海と旅行をする! それが今年立てた、オレのひそかな目標なんだ!」
これだけ堂々と宣言しておいて、ひそかもなにもないだろう。
「愛海は息抜きができる。オレは目標が叶う。どっちもハッピー。な!」
うんざりを通り越してなんだかおかしくなってくる。
愛海がつい笑ってしまうと、岳仁はこれ以上ないくらいうれしそうな顔をした。
どこか手探りの距離感は、愛海が思春期だからというだけではない。
なにしろ、名実ともにふたりが
*
母が岳仁と再婚したのは、愛海が小学六年生のときだった。
愛海は母の再婚相手としては岳仁を認めたけれど、父親は死んだ父だけだと思っていたし、母も岳仁もそれを咎めるようなことはなかった。もちろん、父と呼ぶように強要されたこともない。だからこそ、ふたりの仲を素直に受けいれることができたのかもしれない。
なんにせよ、母と岳仁が夫婦となって、愛海の父が死んでからなにかと沈みがちだった家の空気も、自然と明るさをとり戻していった。
そうして、ずっとこんな生活がつづくのだろうと思えるくらい三人での暮らしも日常になったころ。
天は愛海から父だけでなく母まで奪っていった。
あのときの気持ちは今でも言葉にできない。この先何年経ってもできないような気がする。
それでも愛海がヤケになったりこの世を呪ったりせずにすんだのは、言葉にならないその気持ちを共有できる存在がすぐそばにいたからかもしれない。
しかし残された愛海と岳仁に血のつながりはない。そして、愛海にとって岳仁はあくまで『母の再婚相手』であって、自分の父親ではない。
ここで縁が切れてもなんら不思議はなかった。
だけど。
愛海と岳仁は父娘になった。それぞれが自分の意思で父娘になることをえらんだ。
「な! 鯨! 見に行こう!」
きっと、旅行に誘うための口実を一生懸命探したのだろう。それでみつけたのが、鯨の潜水能力というわけだ。このようすだと、チケットなどもすでに手配しているのかもしれない。
ぜんぜんスマートじゃないし、うっとうしいし、水深三千メートルより深い愛がどんなものかなんて知らないけれど。
――ふつつか者ですが、今後もオレに保護者役をやらせてもらえないでしょうか。
――できるなら、オレはこれからも愛海の家族でいたい。けど、もし、もし愛海がイヤだってんなら、愛海にとって一番いい道を探したいと思ってる。
子どもがえらべる道はすくない。そのすくない選択肢すら、大人の都合でとりあげられることがある。
だけど岳仁は、愛海にえらばせてくれた。ほかにどんな道があるのか、それをえらんだ場合に予想できるメリットとデメリット。
考えられるすべての情報をオープンにしたうえで、自分の頭で考える自由をくれた。
ふだんはどうしようもなくウザいのに、大事なところではちゃんと話を聞いてくれる。
三人で暮らしていたときは、この人のどこがいいんたろうと母の男を見る目をすこしばかり疑っていたのだけれど、なんとなく母の気持ちがわかったような気がした。
そして、愛海は思ったのだ。
バカみたいに誠実なこの人の娘になりたいと。
父親がふたりいたっていいじゃないかと、そう思うようになったのだ。
あのときの選択に後悔は――
「鯨! 海! 海といえば愛海!」
後悔――
「愛の海だ!」
後悔、たまにしたくなるのはもうしかたないと思う。
ちなみに、『愛海』という名前には、海のように深い愛に包まれる人生でありますようにという両親の願いがこめられているらしい。
「な! ロマンだと思わないか」
受験がおわってから。あるいは大人になってから。そんな断り文句が頭に浮かぶ。
だけど。
いつもの明日があたりまえではないということを、愛海はすでに嫌というほど知っている。
そして、そんな断り文句であきらめる父ではないということも嫌になるくらい知っている。
「いつ?」
「え?」
「予約してるんでしょ?」
「してる!」
やっぱり。
愛海が断固拒否したらどうするつもりだったのだろう。
「今回だけだからね」
「それは困る!」
「は?」
「オレはこれから何度でも愛海と旅行したい。なんなら季節ごとに行きたい。今回だけなんて困る!」
「……」
めんどくさい。ものすごくめんどくさい。
愛海が持っている深海のイメージといえば、光も音も届かない神秘の世界――なのだけど。
「そうだ。秋は紅葉狩りに行こう! で、冬は雪祭りだ。な!」
うちの水深三千メートルオヤジは非常に騒がしい。
(おしまい)
鯨よりも深く 野森ちえこ @nono_chie
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