エピローグ
ようこそ、碧ばら荘へ!
長年住んでいた東京を離れ、北の地へ降り立った。
東京よりも随分涼しい空気に一抹の寂しさを覚える。最後に見た東京の地は新幹線の外で、移り変わっていく景色に心が置いてきぼりにされそうだった。
文庫本を開いて、時間が過ぎ去るのを待つ。はあ、と漏れたため息に重さはなかった。
そうして降り立った北の地は、なにもない、寂しい場所だった。
本当にこんなところに自分が会いたい人がいるのか疑うほどに、なにもない。家は疎らに建っているが、店らしきものは駅付近にはなさそうだった。しかたなく、タクシーで目的の住所付近まで向かった。
店が並ぶ通りを通り過ぎ、住宅街に入る。一旦降り、その場所まで歩いて行くことにした。六月下旬、梅雨に入りかけた時期だというのに、空は晴天。雲一つない青空の色は薄く、遠くに広がっていた。
紫陽花の咲く場所を通り過ぎ、角に差し掛かると。車道の向こう側から歩いてくる青年がいた。
「すみません。少し道をお尋ねしたいのですが……」
青年に話しかけると、快く応じてくれた。
私が向かっている場所について尋ねると、若者とは思えない落ち着きで頷き返される。黒縁眼鏡に隠された視線は、どこを向いているのか分からない。表情も分かりづらいが、すぐに騒ぐ今時の若者よりずっと話しやすかった。
「ああ、そこ、俺が住んでるとこです。良かったら案内しますよ」
私は彼の好意に甘えることにした。彼の後をついて角を曲がると、すぐに目的の場所が見えてきた。
宿泊施設の塀から覗き見える赤い薔薇にほうとした。素人が育てているとは思えない薔薇の造形だった。塀を越えた先にあったのは、庭に咲き誇った満開の薔薇の園だった。
赤と桃色に色づいた薔薇たちの手入れを熱心におこなっている老婆がいた。
老婆は私に気づくと、ゆっくりと立ち上がり、泥だらけの顔をしわくちゃにして笑った。
「あなたが日向洋子さんですね。お待ちしておりましたよ」
齢九十だと聞いていたが、はきはきとした声で話す老婦人だった。穏やかでいながら、耄碌しているわけではないらしい。庭にある丸テーブルとチェアには、レースをあしらった作業服を着ている人形めいた少女がいた。この少女のことは知っている。確か、この少女は――。
「やっと来たのね。待ちくたびれたわ」
庭仕事の休憩中だったのだろう。グラスに入った麦茶をちびちび飲んでいるその少女は外国人らしく、ボブショートに切りそろえた金髪を揺らしていた。天使のような愛くるしい見た目とは裏腹に、理知的なミントブルーの目をきりりと吊り上げて、私を値踏みするように睨めあげていた。
近寄りがたい雰囲気の少女とは裏腹に、老婦人はにこやかに話しかけてくれる。
「私はここの大家の霧坪ハツエと言います。この通り、あちこちを痛めております故、案内は別の者に任せますね」
ハツエと名乗った老婦人は、とんとんと膝を叩きながらチェアに座る。それが合図だったかのように、少女はすっくと立ち上がり、開けっ放しのベランダに声をかけた。
「美星。来たわよ」
美星。その名前を聞いた瞬間、心臓が跳ね上がった。
私がずっと心配していたその人。久しぶりに会ったあの日、大人になった彼女を見て、もっとしっかり褒めてやりたかった。
あえて厳しく接していた私を恨むことなく、心根がまっすぐなまま成長した彼女。
こうやって、立場から解き放たれた状態で彼女と会うのははじめてだった。
建物の中から「はーい!」と快活な少女の声が聞こえる。少し掠れた、中性的な声だ。それでも私は、この声の持ち主が少女であることを知っている。
私が私なりに愛情を注いで育ててきた、少女のことを。
大きな足音をたててベランダから顔を出した少女は、目を丸くした。それから少しずつ目を赤くして、満ち足りた笑顔で私を出迎えるのだった。
庭は、薔薇の香りに包まれている。花の空気を吸い込んで、少女はめいっぱいに腕を広げて高らかに謳った。
「ようこそ、碧ばら荘へ!」
碧ばら荘へようこそ 海野月歩 @kairi_kobayashi
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