この世で一番愛した海
「……もう大丈夫だな」
低い声に、はっと顔をあげる。目の前には、海を背にして佇んでいる優斗さんの姿があった。
はじめて会ったときと同じ、ひどく優しい目で、僕を見つめているのだった。
朝日に照らされた優斗さんの表情ははっきりと見えたが、やはり感情は読み取れない。元々、感情の乏しい顔しかできないのだ、この人は。
「……あ、おい。これ」
十文字くんが立つのに合わせて僕とビアンカも立ち上がる。十文字くんは茶封筒の中身を取り出して、優斗さんの前に差し出した。
それは、漫画原稿だった。
覗き見ると、十文字くんらしい、繊細で大胆な見開きの表紙が目に飛び込んできた。海に光が反射している様を描いている。十文字くんは、原稿用紙を順番にめくっていった。
十文字くんは、どうして美しい世界を漫画で描写できるのだろう。十文字くんの描く背景は、写実的なのにこの世のどこにも存在していなさそうな美しさを纏っている。そこに人物が溶け合い、まるですべてが自然であるかのように描写する。彼の描く原稿からは、いつも緑と水の匂いがする。それは、いつも十文字くんが身に纏っている匂いだった。
「俺さ、あんたたちになにがあったかは分かんないけど、月晶のことは分かるよ。この人、多分すごく優しい人だ。作品を読んでいたら分かる。これは人に優しくできるやつじゃなきゃ書けない。だから苦労したよ。俺には難しかった」
一枚、また一枚とめくっていくたびに、優斗さんは食い入るように見つめていた。
優斗さんの目には最早漫画の世界しか映っていない。
優斗さんの目には、一匹のシャチが泳いでいた。優斗さんの世界にも、確かに海はあった。
その海はきっと、兄なのだと思う。
僕の心に宿った海が兄であることと同じように、優斗さんの心にもまた、兄という海が潜んでいるのだった。
その兄を映し出した、十文字くんの漫画。
圧巻だった。まるで海の濁流にのまれていくかのような衝撃だった。幼い線に残った粗さが、尚更海の過酷さを表現していた。
ざざ、と、波の音が聴こえる。
砂を押し上げていく音と、水平線へ向かう音。二つの音がぶつかり合い、調和して、僕たちの耳に届くのだった。
僕たちは、きっと、いつまでも、いつまでも。
この作品の世界で生きることになるのだろう。そして同時に、この世界は僕たちの心の中で広がり続けるのだろう。そんな予感が、胸の奥に積もっていった。
「ありがとう」
最後まで読み終わった優斗さんが、言った。その低い声は、今まで聴いたどんな声よりも穏やかで、寂しかった。十文字くんと似た、どこか満ち足りた声だった。
そんな優斗さんに鼻を鳴らして、相変わらず不遜な態度で十文字くんは茶封筒に原稿をしまった。
「これで満足か」
その問いに虚を突かれたのか、一瞬目を丸くして、
目を細めて、笑った。
「ああ」
「そうか。それなら、よかった。漫画家冥利に尽きる」
言葉とは裏腹に、十文字くんの声は震えていた。眼鏡を押し上げる指先も震えていた。それは、そうだ。僕の心臓も、痛いほど震えていた。
優斗さんの透き通った身体は、背景に溶けはじめていた。
「本当に、手間をかけさせてくれたわね。勝手に満足して勝手にいなくなるなんて、ワガママにも程があるわ」
僕たちとは対照的に、ビアンカの声は凛としていた。腕を組んで眉間に皺を寄せて、普段と変わらぬ嫌味を言っている。それにも怯むことなく、優斗さんはビアンカに微笑みかけた。
「ビアンカ。こいつらを……美星を、頼む」
「……あなたは安心して成仏しなさい」
「ああ。……ありがとう」
もう一度小さくお礼を言って、優斗さんは背中を見せ、海に向かって歩きはじめた。
僕もなにか言わなくちゃ。そう思うのに、声が出ない。
そうしているうちに、僕は見たのだ。
海の向こうに、兄さんの姿があった。
兄さんは優斗さんのほうを向いて微笑んでいた。安らいだその顔は、生前見ることが叶わなかったものだった。
あなたが今いる世界は、きっと優しいところなんだろう。
そのとき、やっと声が出た。
「兄さん……!」
二人に、兄さんに手を伸ばそうとした。けれど、途中で拳を握って、下にさげた。僕はもう二度と兄さんにも、優斗さんにも会えない。本当は走って追いかけたい。 でも、そうしなかった。
だって、二人の姿は、あの日と変わらず美しいままだったから。
僕が愛した、美しい世界だったから。
もう夜の海に飛び込まなくていい。優しい朝の海に還っていく二人に、ただただ涙した。
向こうの世界で、幸せになってほしい。幸せを願うから、今だけは泣かせてほしい。
あなたたちを愛していた。あなたたちが僕の救いだった。
僕はきっと、死ぬまで寂しいまんまだ。でも僕は、あなたたちを追いかけたりはしない。あなたたちが見れなかった世界を、僕はできる限り見ようと思う。
ああ、でも、でもさあ。
やっぱり、あなたたちと生きてみたかったなあ。
「……ありがとう」
力の限り叫ぼうとしたが、涙が喉につっかえてろくに声が出せなかった。二人に届いたかは分からない。
一瞬だけ、兄と目が合った。
兄は僕を見るなり眉間に皺を寄せて「仕方ないな」とでも言いたげに肩を竦めた。そうして僕に声をかけずに背を向けた。
この世界で一番美しかった光景は、そうしてゆっくり消えていくのだった。
もう二度と見ることの叶わない光景だった。それでも。
手を繋いで海に還っていった二人が、いつまでも目に焼きついて離れなかった。
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