花香る海のなか

「……帰ろう、美星」

 背後から優斗さんが声をかけてくれる。黄金色の粒子が海面の上で集まったり離れたりを繰り返している。コンクリートの防波堤に座って、砂浜の先にある海を眺めていた。朝日に照らされた海はまるで熟れた林檎のようにつやつやと輝いていた。僕は首を横に振って、この場から動かなかった。

 結局僕は途中で帰らず、一睡もせずにこの場に一人で佇んでいる。厳密に言うと一人ではないのだが、他人から見ればどこからどう見ても一人なのだろう。その認識は正しいとも言えるし、間違っているとも言えた。

 僕の傍には、ずっと優斗さんがいた。

 今の僕には身に堪えた。優斗さんは別に僕が大事なわけじゃない。僕も優斗さんが大切なわけじゃない。優斗さんの一番は兄で、僕の一番も兄だった。ただそれだけの繋がりだ。優斗さんは兄の傍にいるべきだし、兄もきっとそれを望んでいるだろう。

 そして、そんな兄は、僕のことなんてどうでも良かったのだ。本当の意味で、兄は優斗さんしか必要としてなかったのだ。

 睡眠不足で虚ろな視界の中、海に反射する太陽の光だけが、ただただ眩しい。強い光に当てられて焼かれるのではないかと思うほど、眩しかった。

 朝独特の薄い色素の青空が、どこまでも続いている。鬱陶しい。青なんて嫌いだ。海の青も空の青も、みんな消えてなくなってしまえばいいのに。

 青が憎い。目を瞑っても視界を遮ってくる兄の青が、ただただ憎い。

 この色さえなければ、兄を忘れることができるのに。

 いつまでも、いつまでも。

 兄と優斗さんが身を投げたという海の色を夢想しては、追いかけてしまう。


 こぽ、と。


 息が漏れた。ああ、またいつものか、と思った。

 息苦しくなるのはもう慣れた。息ができなくなるときはきまって海水の匂いが鼻腔に満ちる。海の生き物たちの命が穴という穴を塞いで、僕を窒息死させようとするのだった。目を瞑って、海の世界を甘受した。

 この息苦しさに、最近は少し安心するようになった。

 身体の血がとまる感覚が心地よい。どうしようもできない僕の人生みたいで心底笑えてくる。兄もこんな気持ちだったのかもしれない。こんな気持ちで、海に身を投げたのかもしれない。そう思えば、このまま死ぬのもいいんじゃないかな、って、どうでもいいことを考えてしまう。

 この世界で僕を愛してくれる人は誰もいないから。

 投げやりで、自分勝手でわがままで。僕はいつまでも子どもで。大人になれなくて。いつになったら胸を張って生きていけるのかな。いつになったら、兄に顔向けできるのかな。そんな鬱屈すらもどうでもよくなるような息苦しさ。

 いいか、ここで死んでも。どうせ長くは生きられないんだし。

 そう、諦めていたのに。


 海の匂いがかき消されて、強い花の香りが口いっぱいに広がった。

 花の香りから花が生まれ、こぽ、と口から花弁が溢れ出した。思わず目を開けて花びらを見れば、その花は透き通った碧色をしていた。

 よく見る花弁の形をしていた。僕はこの花を知っている。この花は、碧ばら荘で育てている薔薇だ。

 碧ばら荘で育てている薔薇は赤やピンクだからありえないのに、僕はこの花びらを碧ばら荘で見ていた。碧ばら荘だけでなく、ビアンカの屋敷でも。深い夜を湛えた海の中で、その透き通った碧薔薇は、漫然と僕の目の前で咲き誇っていた。

 そうして口の端から落ちる花びらを指先で捕まえた。


 ふ、と意識が浮上した。

 突然の目覚めに頭が混乱していた。目の前には見知った少女の顔がある。伏せられた金色の睫毛は長くて、思わず見とれてしまう。金の髪は青空の色に溶けて、淡く混ざり合っていた。つい少女の美貌に釘付けになっていたが、唇にあてられた柔らかい感触に堪らずむせ返った。

 げほ、ごほ、と喉奥から咳き込む。まるで本当に溺れていたような苦しさだった。肺に急速に酸素が取り込まれる感触が痛かった。焼けるような胸の痛みに、しばらく悶えていた。

 咳き込んでいれば小さい手に背中を撫でられる。目からは生理的な涙が溢れた。そうしているうちに次第に規則正しい呼吸になっていき、ようやく周りの状況が見られるようになってきた。

「まったく、世話をかけさせるんだから、あなたは」

「……ビアンカ?」

「私だけではなくてよ」

 体を起こしてビアンカの背後に目を見やれば、茶封筒を手に抱えた十文字くんがいた。彼の目元は少し赤くなっていて、目が合うと気まずそうに目をそらした。

 その微妙な反応は一体なんだ、と問いかけたかったが、そこで突然頭が真っ白になった。

 さっき、ビアンカが僕にキスをしていなかったか。

「ビ、ビアンカ、きみ、」

「誤解しないでちょうだい。人工呼吸を施したまでよ。溺れて意識を失った人には効果的ね」

「別に本当に溺れたわけじゃないんだけど!」

「あら、呪いとはそういうものよ。ありえないことが本当になって襲いかかるのだから」

「だからって、もっとなんか、こう……他にあっただろ!」

「生憎、心肺蘇生機もなにも持っていなかったのでね、強硬手段をとらざるを得ないでしょう。それともなに? そんなに私に唇を奪われたくなかったのかしら?」

「なにその言い方! すっごい複雑な気分になっちゃうよ……」

「私とキスしたのだからもっと光栄に思いなさい」

「あのねえ、」

 言い返そうとしたが、なにも言葉が出てこない。あんなに落ち込んでいたのに、こんな間抜けな応酬をしている状況に陥っている。僕の気持ちを返してほしかったが、そんなふうに落ち込んでいる自分すら滑稽に思えてきた。口から漏れ出したのは、紛れもなく僕の笑い声だった。

 もうたまらなくおかしい。本当に、ばかみたいだ。

くだらない言い合いなのに、こんなにも笑えてくる。お腹が痛くなってしょうがなかった。涙すら出てきた。

 滲んだ視界の先で、十文字くんがあんぐりと口を開けている。その表情すら間抜けで面白かった。まるで土偶のようだ。

 ひとしきり笑い、落ち着いた頃。防波堤に座り直した僕の隣で同じように座ったビアンカが僕の目を覗き見て言った。

「で? もう満足したのかしら?」

「満足したよ。誰かさんのおかげでね」

 空に響くくらいに大声で笑ったことなんて、覚えている限りだと一回もない。そのせいか無性に腹の筋肉がひきつれているし頭も酸欠でボーっとする。だというのに、なぜか今まで溜まっていたどす黒い胸の塊は転げ落ちていて、砂にさらわれてしまっていたのだった。

 こんなに晴れやかな気分になるなんて、思わなかった。

 あんなに苦しかったのに、大笑いしただけで。

信じられない気持ちで、自分の笑い声を反芻していた。

「おい、お前ばっかりずるいぞ」

 ビアンカとは反対の、僕の右隣に十文字くんが座る。なにがずるいんだろう、と尋ねようとしたが、十文字くんはふいと目をそらしてしまう。肘でつついてみるが、「いえ、あの、なんでもないっス」と眼鏡をかちゃかちゃと忙しなく押し上げるだけだった。

「二人とも、来てくれたんだ」

「仕方なくに決まってるでしょう。あなたがいなかったら誰が私の面倒を見るのかしら」

「そんなこと言って、コイツ、めちゃくちゃ心配してたと思いますよ。ドレスじゃないの着てるし」

 十文字くんに指摘されたビアンカの服装は、確かに普段と違った。相変わらずフリルやレースが施された古風な服を着ているが、全体的にすっきりとしている。パンツスタイルなのもあってか、華奢なビアンカの足の形が更に強調されているのだった。

「バイクに乗るならこっちのほうがいいだろう……つって。……なんだよ」

「あなた……あとで覚えてなさいよ」

 十文字くんは普段見せない卑しい笑みを浮かべてビアンカをからかっている。対するビアンカもまた珍しく、紅く染まった林檎の頬を膨らませて十文字くんを睨んでいた。こうしているビアンカは、本当に年端もいかない少女のようだ。

「二人とも……心配してくれたんだ」

 僕なんかのこと、という言葉は飲み込んだ。ここまで来てもらって、自分を卑下する物言いは二人に失礼だと思った。案の定、海の向こうを眺めていた十文字くんが口を開いた。

「あたり前じゃないスか。……いきなりいなくなったら、心配くらいしますよ」

 その言葉は十文字くんらしく静かで、寂しい余韻があった。

 なんだか胸が温かい。今まで僕を苛めていたぐちゃぐちゃな感情が、綺麗に本棚にしまわれていった。

 僕は、この人たちに愛されている。そんな、不思議な実感があった。

 本棚にしまわれた後の心には、穏やかな海が広がっているのだった。

 ピンクや赤や橙、緑や紫や黒。

 そしてどこまでも広がる、透明な碧。

 僕が夢にまで見る、綺麗な碧がそこにはあるのだった。

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