イタリアンをどうぞ

不可逆性FIG

Bon Appetit.

「私、この世の中で一番嫌いな言葉があるの」

 青い瞳をした少女は吐き捨てるように、そう言った。極度の緊張状態から落ち着いてきたのか、肩で荒い呼吸をしなくなってきている。先程まで目の前で対峙していたはずの狂気に取り憑かれた血まみれの獣が、本当は美しい栗色の髪をした少女だと誰が信じられようか。


*****


 凶行に及ぼうとしていた俺が言うのも変な話だが、背筋が凍りつくほどの恐怖というものを初めて味わい、すっかり殺意そのものが萎えてしまった。

 なにせ、標的にしていた男が居る自宅の埃っぽい倉庫に押し入ると、既にうつ伏せに倒れていていたのだから。しかも、事切れた男の頚椎と左目に深々とパワーグリップの六角ドライバーが突き刺さっており、だくだくと活きの良い血液が未だに断続的に吹き出し続けている。その光景だけでも恐ろしかったが、さらなる恐怖が俺に迫っていたのだった。それは、蛍光灯の届かない対角線上で狂気の獣が影に潜みながら金属バットを構えているのを目撃してしまったからである。

「はあ……ッ、はあ……ッ、ってやる! 絶対生きてやる!」

「ま、待てッ! 僕は君の敵じゃない! 危害は加えない、約束する! 話せば分かるからッ!」

 自分でも馬鹿だな、と思ってしまうくらい五一五事件みたいな台詞しか咄嗟に出てこなかった。俺だってそこそこ鋭いナイフを手に持っているのに、圧倒的な殺意を向けられてしまうと、そんな些細なことは頭からすっぽりと抜けて忘れてしまうのだ。

 俺はまず信用を得るために、この死体の男が殺したいほど憎い奴だったこと、元上司と元部下という間柄だったこと、君の存在については何も知らなかったこと、故に経緯はさておき互いに協力関係になれるかもしれないこと、それを乾いて上手く回らない口でなんとか伝えた。すると、敵意の無いことが理解できたのか、影の中から獰猛な獣がゆっくりと姿を現す。その姿は、想像していたよりも随分と幼く華奢でおそらく十五・六歳の、返り血をたっぷりと浴びた青眼の少女だったのだ。


「おじさんはコイツを殺すつもりだったの?」

「ああ、そうだ。だけど、すでに死体だった。君が……ったのか?」

「うん、私がったよ。誘拐されて、襲われたからそこにあった工具箱の中、適当に掴んで目ン玉に突き刺してやった」

「チッ、とんだクソ野郎だな……噂には聞いていたがまさか本物の犯罪者だったなんて」

 初対面の俺と少女と、死体の男。むせ返るような血の匂い。互いに放おったナイフと金属バット。遠くで車の通り過ぎる音だけが微かに届く静寂の倉庫。

 とりあえず彼女に上着を渡す。見ていられないのだ、乱れた髪と学生服のシャツのボタンが全て引き千切れ、無様にも肌が露出しており、直前まで何があったのか容易に想像できてしまうことが。

「ありがとう、優しいんだね」

「そんな格好じゃ寒いだろうしな」

「……好きになっちゃうよ?」

「言ってろ、ガキに興味は無い」

 Tシャツになった俺は緊張が緩み、深いため息を吐いてしまう。さて、これからどうしようか。

 ヤツは死んだ。だから、これで終わり──とは行かず、行き場の失った煮え滾る真っ赤な殺意が未だに腹の底に存在しているのだ。俺だってヤツを殺したい、壊してやりたかったのだ。武器を捨て、空っぽになった手のひらが妙に虚しく寒々しかった。

「おじさんは、私を警察に連れていくの?」

「……いや、俺も言わば同類だ。君を罪にだなんて問えないよ」

 ポケットに手を突っ込んで、倉庫内を少し歩く。コンクリートと砂を踏む靴音が死体の肌の隙間を這って響いている。

「刺したドライバーには私の指紋が付いてるし、今は逃げられても、いずれすぐ捕まっちゃうのに」

「凶器を回収すればいい」

「証拠隠滅ってやつ?」

「まあ、そうなるかな。死んで当然のクズのせいで、君まで人生を壊される必要は無いからね」

「おじさんもなかなか自己チューだよね」

 少女は呆れたように鼻を鳴らす。そうさ、俺は自己中心的な人間さ。けれど、この世の中に自己中心的じゃない人間などいるものか。みんな自分のために生きているのだ。


 だから、俺は他でもない俺のために身勝手な復讐を続けようと思う。倉庫内の日用品がまとめられている棚から、黒いポリ袋を探し出し、バンと空気を叩くように広げながら彼女に声をかける。

「なあ、君。そんな格好で悪いんだが、少し倉庫から出ていってくれないか」

「何するつもり?」

「倫理に反する行為だから、若い子には見ていてほしくないんだ」

「なにそれ。余計に気になるじゃん、絶対ここから出てってやらないから」

 薄暗い闇を見続けたような彼女の瞳がじっと俺を捕らえ続ける。どうやら意地でも一部始終を見届けるらしい。そっちがその気なら別に構いはしない。

 俺は黒い袋を持って、男の死体の頭部に二重で被せることにした。証拠を残さないために革のグローブを身に着けることを忘れない。その際に突き刺さったままの六角ドライバーをじゅるりと引き抜いて、生臭い糸引く血液を振り払う。そのまま余ったポリ袋に投げ捨てて、口を固く強く結ぶ。

「……トラウマになっても知らないからな」

「おじさん、やっぱり優しいよね」

 今度は俺が狂気の獣になる番だ。緊張で浅くなる呼吸を静かに深く吸って吐くことで、意識を集中させる。俺の行動ひとつひとつに少女の視線が動く。恐れも嫌悪も感じられない、暗闇を湛えたどこまでも透き通る眼差し。

 彼女が手放した金属バットを広い、俺は大きく振りかぶる。返り血を浴びぬよう被せたポリ袋が演出する非日常なこの状況に、より一層震えが増す情けない手のひらを呆れるくらい強く握ることで僅かに制御する。短く息を吐く。狙うは黒いポリ袋。焦りや不安で手元が狂う前に、ありったけの一撃を振り下ろす。まるでスローモーションのように流れ続ける刹那の凶行。


 ぐしゃり。


 ──金属バット越しに伝わるのは水分の多い柔らかい何かが押し潰されながら、陶器のように繊細な硬さのモノを粉砕してミシミシとめり込ませていく、鳥肌が立つような独特の嫌な感触。黒いポリ袋で内側が見えないからこそ、何が弾けたのかを強烈に想像してしまう。

 それから俺はしばらく無我夢中で何度もバットを振り下ろした。ぐしゃり、ぐしゃりと、気が遠くなるくらい憎しみを込めて何度も、何度も、何度も……。叩き潰す度に衝撃が伝播するように死体の四肢が細かく跳ねていた。慣れない動作に荒い呼吸を繰り返しながら、固形だった頭部が今や崩れたゼリーみたいにぐちゃぐちゃになったことを黒いポリ袋越しに確認する。首元から赤黒い血飛沫と共に白い破片、千切れた肉、トマトみたいな半透明の脳漿なんかがじわりと混ざりながら流れ出していて、不純物だらけの血溜まりを作っていた。

「思ってた以上にグロかった、おええ……」

「だから言ったろう。でも、これで時間稼ぎは出来るな」

「どういうこと?」

「君が殺した際の傷跡を俺がさらに壊した。だから、そのドライバーが凶器かどうかの証拠はもう残っていない。そして、俺は自分勝手にストレス解消に勤しんだわけだ。つまり、Win-Winな関係って奴だな」

「おじさんも相当イカれてるね」

 俺は額に流れた汗を拭いながら、わざとらしく感謝を述べる。「褒めてないから」という至極真っ当な突っ込みを入れられて、俺と少女はこんな状況なのにも関わらずクスクスと笑い合ってしまうのだった。


 それから、俺たちは六角ドライバー二本とひしゃげた金属バットをポリ袋に詰めて一旦持ち替えることにした。他に残してしまった痕跡は無いか念入りに確認していると、少女が不意に声をかけてきた。

「──私、この世の中で一番嫌いな言葉があるの」

「なんだ急に。その言葉ってのは?」

「美人薄命って四字熟語が大嫌いなの」

「まあ、確かに良い言葉ではないわな。でも、どうしてまた」

 弱々しい蛍光灯が照らす倉庫で中央に頭の無い死体を転がしたまま、そんな会話をし始める。異常すぎる光景に麻痺しているのだろうか。それとも互いに一仕事終えたようなカタルシスで昂っているからだろうか。彼女は凶器入りポリ袋を掴みながら、その思いをゆっくりと紡いでいく。

「美人が薄命なのってさ、寿命が早いとかそういうことじゃなくて、単純に犯罪に巻き込まれやすいってことなんだと思う。良くも悪くも綺麗だと目立つし。今日だって……ほら、私って可愛いじゃん?」

「自分で言うか? 君、友達いないだろ」

「こんなこと普段は思ってるだけで絶対言わないっての! でもさ、実際のところ私ってこんな色の地毛だし、眼だって青いし、ハーフって何かと目立つんだよね、英語ほとんど分かんないけど!」

 少女は栗色の髪を右手で束ねてみせながら、ニカッと笑う。なるほど、その笑顔は確かに美しかった。髪や瞳の色素は海外の色だが、顔の作り自体はだいぶ日本的で、だからこそ余計に魅力的に映るのだろう。

「それにさあ、実は二回目なんだよね」

「なにがだ?」

強姦魔ゴミカスに襲われたのが人生で二回目なの。最初は怖くて何も出来ずに、ただただ泣きながら痛いの我慢してたんだよね」

「そうか、悪いこと聞いたな。すまん」

「いいの、私が話したくて話してるだけだし。――だから美人薄命なんて信じてないの。というか、信じたら人生終わっちゃうし。さっきもおじさんが来る前ヤバかった時、マジで絶対死にたくないし、殺してでも生き残ってやる! って、叫びながら突き刺したからね?」

「……君は強いな」

 ぼたりと地面に零すような俺の言葉だった。

 自分よりも遥かに力の強い奴に襲われて、はたして俺だったら逆に殺してやると奮起できるだろうか。確実に仕留められるよう準備万端の状態になってもなお、緊張しているようでは彼女のように一線を超えられないだろう。俺がしたことと言えば、死体という反撃されない肉塊に向かって何度もバットを振り下ろしただけだ。悲しいほどに覚悟の度合いが違う。そう考えると、彼女の華奢な背中がとても大きな存在に見えてくるから面白い。


*****


 薄雲の隙間から欠けた月がぼんやりと輝いている。

 俺と少女は出来る限り証拠隠滅した殺人現場を離れ、近くに止めていた俺の車に飛び乗り、闇夜の奥まで静かに走らせることにした。返り血をたっぷりと浴びた彼女の制服は目立ちすぎるため、途中の服屋で適当に無地のTシャツとパーカーを購入し、お代は要らないと伝えて手渡す。不用心にも運転中、後部座席で着替え始めるもんだから注意したのだが、「おじさんも私のこと襲うの?」と逆に訊かれてしまった。

 しかしながら、俺はハンドルを握りながらため息をひとつ。「可愛い子は好きだが、さすがに殺人の味を知った君を襲うほど馬鹿じゃないよ」と、なんとも情けない乾いた笑いが車内に広がる。彼女の隣には凶器入りの黒いポリ袋が積まれていて、車体が揺れるたびに中で金属が擦れ合い、カチャカチャと音が鳴っていた。

「ねー、おじさん」

「なんだ?」

「なんかホッとしたら、お腹減ってきたんだけどさ。このまま一緒にファミレス行こうよ」

 点在している道路沿いの常夜灯が光を絶え間なく流し続けながら、彼女の顔を断続的に照らしている。正直、どこまで乗せていくのか訊いてなかったから、何処かの場所の指示はありがたいものだった。

「立ち直り早いな、おい……。まあ、別にいいけど、何が食べたいんだ? あんまり高いとこはやめてくれよ?」

 最近の若い子は物怖じなどしないのだろうか。いや、この娘だけが異質なのだろう。過去のトラウマをある意味、自力で克服できるほどの強靭な心を宿した獣こそが中身なのである。悪口に聞こえるが、これでも俺は褒めているのだ。

「イタリアン食べたーい。マルゲリータピッツァのあるとこ!」

「君は本当に強いのな。よくあんなグロいの見た後に、潰したトマトのなんか食べる気になるよ……」

 殺人こそしていないが、あのバットを振り下ろした感触が未だに手のひらと鼓膜と脳裏にこびり付いているというのに。彼女の手のひらには至近距離で目玉を潰した感触は残っていないのか、とても気になってしまう。

「あとね、ミートソースパスタとミネストローネも食べたくなってきたから追加で!」

「君さ、純粋にサイコパスなんじゃないかい!? 心が強いとかじゃなくてさ!?」

「ええーおじさん、ひどいんですけどー!」


 殺人少女と死体損壊男を乗せた車は、夜の道路を走らせていく。

 きっと警察は優秀だから、いずれ俺の元へ逮捕状を持ってくるだろう。でも、それでいいのだ。今までだって酷い人生だった、別に汚点のひとつもふたつも変わるまい。それでいい、彼女の犯行さえ最終的に隠蔽できれば、それで。

 だって、面白そうじゃないか。不可抗力とはいえ、殺人の味を知ってしまった少女。その子がこの先も凶行を知らない人たちと、いつもと変わらない日常に回帰していくだなんて最高のブラックジョークだろう! 俺は目的地のファミレスまで運転を続けながら、そんなことを密かに思って静かに口角を上げた。

 美しい少女の皮を被った獰猛な獣が今もどこかで普通を装って暮らしている。それを知っているのは、お互いに名前も知らない俺だけの特権なのだから。


〈了〉

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