第2話 暗闇

 やりたいことなら、本当にたくさんあるのに、なぜここにいなければならないのだろう。

 行かなければならない保育園、行くのを抵抗しても意味がない保育園、「楽しい?」と聞かれたら「楽しい」と答えないと心配される保育園。

 面倒くさいので、毎日抜け出したかった。


「ゆきちゃんはみんなと遊びたくないの?」

 櫻井先生はそう言うと、うさぎやぞうの絵が書かれたパズルを私に差し出した。

「これパズル、一人でも遊べるよ」と言う。私は仕方がないな、と思いながら渋々パズルを受け取る。

 別に皆と遊びたくないわけでも、一人で遊びたいわけでもない。自分のしたいことだけをしていたかっただけだ。でも先生から見れば、私は友だちと一緒に遊べない孤独な子なのだろう。

 私はパズルを持ち、なるべく部屋の目立たない場所を探して、部屋の隅でも中央でもないところに置かれた普通の椅子に座った。

 15ピースなんて、埋まるのは、本当にあっという間だ。探さなくたって、ピースが自分の居場所を主張してくるから、私のやることなど別にない。

 完成したパズルを見て、お片付けみたいだったな、と思う。

 私は顔を上げて、先生がこうたくんを追いかけているのを確認すると、完成したパズルを机に残し、部屋を出た。

 出たところは少し広場のようになっており、そこを右に進んでいくと体育館のような場所がある。そこの扉はいつも空いており、自由時間が終わるまでに戻れば侵入していてもまずバレないので怒られることはない。

 私は誰もいない体育館の隅に座って、少し寝ることにした。目を瞑ろうとしたときに見えたのは、小川先生だ。舞台の辺りで誰かと会話をしているようだった。聞こえたのは、「大丈夫」とか「誰もいない」とか、そんな感じでよく分からない。

 私は小川先生がこちらを見ないと判断すると、目を瞑った。


「ゆきちゃん……ゆきちゃん」

 

 櫻井先生が私をゆすっていた。

「どうしてここにいるの?」

 私はしくじった、と思った。

「部屋にいないとダメでしょう」

「気付いたらここに居たんです」

 咄嗟だったけど良い言葉が浮かんだ、と思った。先生は不思議な顔をしてから、

「もうしちゃダメだからね」

と言う。これで済んで良かった。

「ゆきちゃんのお母さん迎え来てるから」

 櫻井先生は私の手を引いて、一緒に歩いてくれた。

 ちなみにそれはお母さんではなく、お母さんのいとこの奥さんだ。咲さんという女の人が、“ゆきちゃんのお母さん”をしてくれている。

 咲さんは優しくて、丁寧で、あまり特徴がなくて地味なので、憧れない。

 でも「咲さんがいてくれてありがたい」のだというのは、親戚のおじさんが言うから間違いないのだと思う。


 私は死んだお母さんのいとこの善さんと、咲さんと、咲さんの息子で8才の和宏くんと一緒に住んでいる。

 家は、人の立ち寄るのが少ない寂れた寺の奥にあって、湿ったこけがびっしりと埋め尽くされたちいさい広場の奥の、そんなに大きいとは言えない庫裡くりだ。私はその一部屋をもらえていて、保育園から戻ると、そこで静かに過ごすことができる。

 元々はお母さんと住んでいた。

「ゆきちゃんはしっかり生きて、お母さんみたいにならないように元気でいようね」

 お母さんのお葬式で、お母さんのいとこの善さんは私の両肩を強く握りながら言った。

 そのときはお母さんがなぜか悪く言われたみたいな気がしたけれど、あれから数年が経って、お母さんが世の中では少し“普通じゃない”とされる変わった人であることに勘づいた。

 まずは、お母さんはいけない薬をたくさん飲んで死んだらしいこと。

 これは咲さんが保育園の帰り道に言っていた。

 確かに死ぬ前のお母さんは、優しいけどたまにおかしな顔で私を見ていた。

 それにお母さんは、ほかの友達の母親にあったようなあらゆるものを持っていなかった気もする。

 それは世間では良いとされる立場にいるための必須アイテムみたいなもので、なければお姫様として完成していないように見えた。

 そのアイテムの一つは、いつも一緒に居てくれる男の人だ。それなのに“たまに一緒に居てくれる男の人”はいるようだった。

 その男の名前は宗さんといい、私をよく可愛がってくれていた。私は自然と父親だと思って過ごしていたけれど、お母さんの葬式の次の日の朝に、宗さんはひどく回りくどい言い方で、私の父親が別にいることを伝えた。

「僕はゆきの第二のパパとして、いつでも頼ってほしい。でも友達には僕のことをパパとは言わずに、お母さんのお友達と言ってほしい。分かったかな」

 私が「だいに?」と聞くと二番目、と教えた。そんなことは分かる、と思ったけど、もうこれ以上に何を尋ねるべきか分からなかった。

 なぜ私の2番目のパパがお母さんのお友達なのか。うまく結びつかないまま、宗さんはたまに保育園の送り迎えもしてくれた。

 保育園ではほかの家族のパパのように私に手を振る。けれど、その人は私の父親ではない。見たこともないけれど私に1番目のパパがいるなら会いたくて、その幻が恋しかった。

 私はある日咲さんと一緒に保育園から帰りながら「宗さんは私の2番目のパパなの?」と聞いた。

 咲さんは私の手を握る力を少しだけ強めてから、私の方に顔を向け「そう」とだけ答えた。

「じゃあ、私の1番目のパパはだれ?」

 咲さんはうん、と言うと、私の方に身体を向け直して正座をした。

「ゆきちゃんのパパはね、今はどこにいるか分からない。ゆきちゃんのお母さんだけが知っててね、私も知らないの」

 私はつまり、いない、と言われた気がした。


 家に帰ると、咲さんは珍しく部屋の中に来て、私の左側の三つ編みをほどき、次にもう片方の三つ編みにしている髪留めも外してから、髪をユサユサと撫でた。

「でも、私もいるし、善さんだって、宗さんだって、いるでしょう。1番目のパパは心の中に、2番目のパパは宗さん。ゆきちゃんはきっと、これからも大丈夫」

 何が大丈夫なのか、分からない。

 知らないけど、きっとお母さんはこれを大丈夫だと思わなかったから居なくなってしまったのだろうか。咲さんは大きく息を吐いてから、よしと言うと立ち上がった。

 私は咲さんを目で追いかけて、

「宗さんはお母さんのお友達なの?」

と聞いたつもりが、声にならなかった。

 おばけか、おばけのお母さんか、目に見えない誰かに口を塞がれたみたいに。

 私は立ち去る咲さんを、ただ見つめることしかできなかった。

 動けなくて、口がどんどん乾いていく。おばけが身体に染み渡っていくみたいに。

 これまでと、今までが、奇麗な線を境に離れていって、今いる場所が分からなくなりそうだった。


 戻りたい場所などはない。

 この気持ちの行き場はきっと、保育園の体育館の隅だけなのだろう。

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存憶 @mucha_cha

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