存憶
@mucha_cha
第1話 ダージリン
「あっちの赤く光っている方にいるみんな、楽しそう」
ゆかは手に持つカップを揺らし、右手の指にかかったダージリンを気にすることもなく、指差していた。ベランダの柵から身を乗り出すゆかの肩を引っ張って、けいは言う。
「紅茶、溢れてるよ」
ズボンの左のポケットから水色のハンカチを出すと、ゆかの手首を優しくつかみながら、もう片方の手で濡れてしまった指を拭いた。
「そんなのわざわざ拭かなくてもよかったのに。風が当たって乾くし、その間、気持ちいいでしょ? あえてこぼしたんだから」
「それは、うそ」
けいは拭き終わるとハンカチをポケットに仕舞い、話し続けた。
「その楽しそうなみんな、まだいるの?」
「もうどこかに行っちゃたよ。やっぱり楽しいときは、一瞬。楽しいと思ったら、その直後にはもうちがう気持ちになってる」
「そっか」
けいはサイドテーブルの上にあったカップにまだあたたかいままのポットに入ったダージリンを注いでから、少しだけラムの入った瓶を傾けた。ゆかは変わらずベランダから見える街ばかりを飽きずに見つめている。
「けい、ここから引っ越さないでね」
「分かってるよ」
「ここの丘、本当にちょうどいい高さ。いろいろな人も見えるし、家も、月も奇麗に見える。どっかにいる男の子の声も、いつも何て言っているのか聞こえないんだけど、かわいいし。最高」
けいはラムの入った瓶をゆかのカップに近付けた。
「ありがとう。ちょっとでいいよ」
ラムの量を確かめながら首をかしげると、けいの眼鏡が顔の傾く方にずれた。こういうときの、ゆかの笑い声は大きい。1月のぴんと張り詰めるような冷たさの中を、笑う声が真っ直ぐ通り抜けていく。
「こんな変なタイミングでやめてほしいよ」
「今このタイミングで、この眼鏡を傾かせようと考えた誰か、天才!」
「僕なにか最近悪いことしたかな」
「戻してあげるね。誰かのいたずらかも」
けいは眼鏡を触りながら、少し赤くなった顔を袖で隠した。
「ねぇ」
ゆかはけいの袖を引っ張って言った。
「ラム入れながら、何か考えてた?」
「考えてたよ。どれくらいがいいかなって」
「じゃあ、その前ぐらいになにか言いたかったことはない?」
けいは無言でゆかを見ていた。表情も変えず、ゆかの顔のいろいろなパーツを順番に見ていた。綺麗だと思ったけど、今考えることでも伝えることでもないので、もう一度ゆかの発言を考え直した。
「多分、ない」
「本当に?」
「今考えたことならある」
ゆかは首を傾げながらうなずいた。
「黒目にね、今僕の影がちょうどよく真ん中に収まってる」
「え、それなんかやだ。そんなこと考えてるの?」
ゆかは即座にベランダの外へ顔の角度を変えると、ラム入りのダージリンを飲んで顔をしかめた。
「わたしはね、けいの好きなものをそんなに好きだとは思わない。サイフォンでゆっくり淹れるコーヒーも、明らかに首が苦しくなりそうなボタン付きの襟のシャツも、あなたが大事にしている観葉植物も、あなたが好きなわたしのことも。だから、あまり話したくないの」
「僕が好きだと思ってるものは全部、ちゃんと自信を持って良いって話せることだよ」
「なんでだろうね。わたしはけいのこと好き。けいは自分のことをきちんと好きな人に見えるから。わたしとは違う」
「そんなことないかもよ」
「そっか」
ゆかはそう言うと部屋に戻り、ソファの上に雑に置かれていたブランケットを身体に巻いて、もう一度ベランダへ出てきた。
「まだベランダにいたいの?」
「うん、もうちょっといたい」
ゆかはまたラム入りのダージリンを飲んでから、部屋に戻ろうとした。
「僕もたまに不安になることがあるんだよ」
ゆかはカップを握りなおして「なに?」と言った。
「ゆかは僕の容姿とか性格とか、好きなものもだけど、とにかくそういう僕に密接したものじゃなくて、僕の家のベランダが好きなんじゃないかって思うことがある」
今度はけいの方に顔を向けて「へ?」と言う。ゆかは笑った拍子にまた紅茶を足の上へこぼした。
「ベランダ来なよ、またこぼすじゃない」
真顔のけいを見ると、怒られやしないかとソワソワしてしまう。
「最初に僕らがアプリのメッセージで話した内容を覚えている?」
「覚えてない」
ゆかは覚えていないことがまるで気まずいというように、視線を横へずらした。演技じみてはいたけれど、けいはそれはそれでいいと思っている。
「地平線を見るのと、フィルムカメラのシャッターボタンを押すのと、ベランダから街を眺めるのが好きって話をしたんだよ。僕はゆかに興味を持ってもらいたかったから、10分以上も自分のマンションは丘の上にあって、そこそこ綺麗な夜景と月が見えるって話をしたんだ。そうしたら、やっと話を聞くようになって」
「そうだった?」
「今も僕の家に来るたびにベランダに出たがるでしょ。僕のことを見るよりも、楽しそうに見えるから何なんだろって思うんだよ」
「でも、けいはベランダで私の顔を見るのが好きだよね」
「それは、ある」
「黒目には影が映るんでしょ」
けいは少し眉をゆがめてから、あごに手を付けた。まるで考える人みたいに背中を丸めて、女の子のことを考えているなんて馬鹿馬鹿しいとゆかは思う。
「そっか、あなたはそこまで自分のこと好きじゃないのかな」
けいはゆかの話がどんどんよく分からない方に進むのに焦りながらも、ゆかが自分とベランダのどちらを好きでいるのかに立ち戻って考え続けていた。
「終電の金切り声、もうすぐ」
「たわ言なんかに構ってもらって、ごめんね」
「わたしは話したことを、いつもいろいろと忘れるから、きっと今日のことも何年か後には覚えていないと思う」
けいは苦しく微笑んで「それは、ひどいな」と言った。
「そうだね。わたしは結構どうでもいいのかもしれない。今、良いかどうか、それをすごく考えてる」
「過去になったら、意味がなくなるってことか」
「今からいなくなったら、多分忘れてく」
けいは自分の心臓が一度だけ、わずかに歪んだのを感じた。下をうつむいていたゆかは、自分が巻いていたブランケットをほどくと、けいの肩の上にかけた。
「いや、寒くないから大丈夫」
ゆかは「そっか」と言うと、けいの肩にかけたブランケットを取って、もう一度自分の身体にゆっくりと巻きつけた。
「さっきの話だけどね。だからと言って、けいが無理に今に執着する必要はないよ」
「哀しくないの?」
「無理に今を過ごすよりも、過去に思いを馳せときたいときもあるんでしょ。わたしにはないけど、そうしたいならそうしてもいい」
「この話やめよう。なんかよく分かんなくなってきた」
けいはカップを持って立ち上がった。
「で、さっきは何を言おうとしてたの?」
けいはうつむいてから「なんだろうね」と言った。
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