断章2 哲学談義
哲学について語ろうと思うのですが、みんなの知識のレベルがわからないので、初歩的なところから始めます。
哲学はおおざっぱに言って「なぜ」を研究する学問です。つまり、たいていの学問の諸領域は哲学の手の中にあります。
と言うより医学と神学、技術を用いる工学以外の学問はほぼほぼ哲学と言っていいでしょう。
数学、物理学、政治学、法学、心理学、社会学、科学などの学問は、みな哲学から生まれました。たとえばサイエンスという言葉は、意外と新しい言葉なのです。それまではなんと呼んでいたかというと、自然哲学です。サイエンスは言葉をしてはかなり前から存在していたのですが、今のように科学一般を指す明るい意味ではなく、もっとマニアックでオタク的な意味を含んだ後ろめたい言葉だったそうです。
まあ、それはともかく、さまざまな学問が哲学から生まれ、そして独自の体系を発展させていきました。一個の学問として独り立ちした後はもう哲学なんて知らないといった風にしてますが、哲学の方は未練たらたらで良く絡みに行っては、なんだこいつと言って撃退されてます。
というより撃退しないと屋台骨が揺らいでしまいますからね。向こうもある意味必死です。学問は実のところ戦争なのです。勝手な感想ですが、昨今のアカデメイア事情はぬるま湯に浸かりすぎていると思います。学ぶことは絶対的に正しいという概念に取り付かれ、学問賛美に至って半可通を嫌い、象牙の塔で独自の思想体系を築き上げている。こんな状況が正しいことでしょうか。そんなわけはありません。というわけで利害関係を持たない、在野の学者が、声を上げなければならないという面もあります。まあ、アカデメイアには無視されますが最終的に勝つのは、声を上げる在野の学者の方です。歴史には変革者だけが名を刻むことが出来るわけですからね。
こういうシステムを体系的に研究した哲学者もいます。誰ですが。トマス・クーンといいます。アメリカの哲学者です。パラダイムという概念を発明しました。
少し先を急ぎすぎました。話を戻します。そうですね……。技術だとこうはいかないですよね。新しい技術を思いつくことも重要ですが、先代から受け継いだ技術を自分が用い、後代に伝えると言うことも重要なことです。けれどもそれに徹してしまうと、個人は技術に埋没してしまいます。個人主義全盛の世の中であまりよろしくない。でもそれは本当でしょうか?
とりあえずですが、個人主義を疑ってみましょう。なぜ個性など出さなければならないのか。個人よりも技術の方が大事なのではないだろうか。いや反対に個人主義を擁護してみましょう。答えは簡単に出せますか。そこまでいったら立派な哲学です。
ですが技術にとって哲学は毒でもあります。まあ哲学はたいてい毒ですが。ムカデのたとえを知っていますか。器用にたくさんの足を使って前に進む百足ですが、あるとき誰かが聞きました。百足さん! あなたの足の動きはまったくもって素晴らしい! その左側23番目の足はどうしてそんなにしなやかに動くのか。あなたの右側54番目の足はどうやって53番目の足や55番目の足とぶつからずに器用に動けるのか……などなど質問攻めにしました。すると百足は自分の足の存在を気にかけるあまり、以前のようにうまく歩けなくなりましたといったような話です。
技術の分野でそんな話は良く聞くのではないでしょうか。肉体が勝手に動くとか、仕事は体が覚えるとか言うような感じの話です。
なぜを考える哲学は、そういったものは拾えないのかと言えば拾っています。肉体は思考より賢いと言った哲学者もいます。だれですか。フリードリヒ・ニーチェです。
さて哲学という物がどういったものか、一度整理してみましょう。哲学は「なぜ」を問う学問です。決して答えを出す学問ではありません。哲学を学んで頭が良くなりたいと思っている人は、考え方を改めた方が良いでしょう。
なぜなら、学べば学ぶほど「なぜ」の数が増えるだけでちっとも頭が良くなれないからです。
頭を良くしたい方は別の道を探すことをオススメします。
じゃあ哲学を学ぶことは全くの無駄なのかと言えばそうではありません。
哲学の最大の強むは「なぜ」の数です。なぜがでてくればその答えを知りたくなりますよね。けれど答えは簡単には出てきません。もし何かの本を読んでそうだったんだ! と思うなら、それはきっとだまされていると思った方が良いです。
哲学は自分で出した答えが重要です。哲学書は答えが書いてあるわけではありません。答えの一例が書いてあるかもしれませんが、それはあなたの答えでは決してありません。youtubuやグーグルではでは決して出てこない、あなただけの答えを探す。
その過程こそが哲学すると言うことです。
それは車輪の再発明かも知れません。だれかがすでに考えついた答えかも知れません。ですがそれを恐れることは無いと思います。なぜなら、哲学は文明に寄り添う学問ではなく、個人に寄り添う学問だからです。
文明に寄り添う学問と言いました。それは何でしょう。具体的には外部器官を活用できる学問です。たとえば生命が二重らせんの4つの記号で出来ていることは今ではほとんどの人が知っています。それが発見されるまで、だれも知りませんでした。でもそれが発見された今、実際にその二重らせんを実際に見たことの無い私たちもそれを当たり前のように受け入れて生きています。では知らなかった以前の全ての人類は今の自分たちよりもおろかなのでしょうか? さて、どうでしょう。そうとは必ずしも言い切れないと思います。でも彼らは知らず私たちは知っている。それは人間の外部――本や論文で記録されているからです。
こうやって文明の進歩によって積み重なっていく知識を文明に寄り添う学問だとします。まあ必ずしも積み重なっていくだけでは無いですが、それは今は置いておきます。
話が若干それました。対して人に寄り添う学問があります。人の寿命は一定です。生まれたら必ず死にます。今のところは、ですが。その人生一つ一つに寄り添う学問。この最たる物が哲学です。よく生きる方法。正しいとは何か。美しいとは何か。これを自分で決めるのが哲学です。
まあそれもパラダイグマ(範疇)という社会的限界に縛られているのですが。
こう言ったことを研究した哲学者もいます。誰ですか。ミシェル・フーコーです。
さて。今私は自分で出した答えが大事だと、答えを言いました。どうでしょう。それは人から言われた答えではなく自分ので考えることが哲学だと言ったことに反しませんか。反しますよね。では私は矛盾しているのでしょうか。賢い人はこれは例外と言ってくれるかも知れません。でも厳密に考えると例外なんて物を認めることはおかしくありませんか。
何かもやもやしますね。これをパラドックスと言います。全てのクレタ人は嘘つきだ。とクレタ人は言った。というような感じで、古くから知られているパラドックスです。
まあパラドックスは、考えるだけ頭がこんがらかるだけなので止めましょう。ただこうした概念を考え抜いた哲学者もいます。誰ですか。バートランド・ラッセルです。
まあこんな感じで哲学を語ってみましたがみなさんはいかがでしたでしょうか。哲学のこと少しは気に病んだり、気に入ったりしてくれましたか。そうしてくれるとありがたいです。私もしゃべったかいがあるという物です。
それではみなさまごきげんよう。
強く生きるための哲学書 陋巷の一翁 @remono1889
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