Ⅱ
『助けてくれ!』
と友人の真司にメッセージを送ったのはその夜のことだった。
真司はおれの知っている中で唯一の「普通の人間」だ。
高校生の頃から、オタクで陰キャなおれに対しても普通に接してくれた聖人のような人物だった。
『どうした?何かあったのか?』
返事はすぐに返ってきた。
『デートすることになった!助けてくれ!』
『いいことじゃないか。何を助けるんだよ』
『我、デート、初めて、作法、頼む』
『テンパりすぎて日本語ヘタになってんな。笑。分かった。とりあえず着ていこうと思ってる服に着替えて写真送ってこい』
おれは自分の手持ちの中から一番イケてそうな服を選び、玄関に置いてある姿見で自撮りを撮った。初めて撮った。
『……三点だな』
写真を送ってすぐに真司からそう返ってきた。
『なんでだよ!何がいけないのだ!』
『何が、というと、、、全部だな』
画面の向こうからため息が聞こえてきそうなメッセージを見て、おれはがっくりと肩を落とす。
『まずはお前、髪を切れ。それから――』
おれは次々と送られてくる真司からのメッセージを、正座しながら読んでいった。
******
約束の日、駅前のロータリーの前で落ち着きなく何度もスマホを確認する。
緊張のせいか脇から汗が垂れ落ちてくるのを感じていた。心なしかお腹も少し痛くなってきた。
「……河合、さん?」
声が聞こえたので顔を上げると、そこに天使が立っていた。
いや、天使を超えた女神だ。ヴィーナスだ。
仕事中とは違い髪をおろして少し内巻きにした佐世保さんは、白っぽいワンピースの上からクリーム色のカーディガンを羽織っている。
めちゃくちゃ可愛かった。
「あ、あぁ、お待たせ」
「待っていたのは河合さんのほうだと思うんですけど」
そう言うと佐世保さんは少しだけ笑顔を見せた。
バイト先では見たことのない、柔らかな笑顔だった。
「髪、切ったんですね」
佐世保さんがおれを見上げるように言ってくる。
「そ、そうなんだ。ちょっとウザかったからねー」
誤魔化すようにおれは短くなった襟足を触りながら目線を泳がせる。
「似合ってますよ」
何気ないように発せられたその言葉に、思わず腰が抜けそうになった。
すべて真司のアドバイスのおかげだ。ありがとう、真司。
「あ、ありがとう。ふふ、ふひゃ。そ、それじゃあ行こうか」
あまりのうれしさに気持ちの悪い笑いが漏れ出てしまったので、おれは恥ずかしくて顔を合わせないように歩き出した。
自分で出すと言った佐世保さんを制するように、強引に二人分のチケットを購入した。
彼女が飲み物はいらないと言ったので、早めに劇場に入ることにする。
人気アニメのせいか、場内はそれなりに混んでいた。
隣に並んで座ると、歩いている時よりも強く彼女の匂いを感じて、思わず大きく息を吸い込んだ。
甘い、甘い、匂いがした。
真面目そうな佐世保さんからこんな甘美な香りがするだなんて、そのギャップに脳が溶けていく感覚がした。
周りを見渡すといかにもアニメが好きそうな風体をした人間が多くいて、おれは少しの優越感を覚えた。
おれはお前らとは違う。なんてったって女を連れているんだからな。
そんな感情がどうにも湧き上がってきて、心なしか席に座りながらも胸を張ってしまう。
上映中も映画に集中出来なかった。
暗い劇場内でちらちらと横目で彼女の顔を確認する。
彼女の眼鏡にスクリーンが反射して、おれは一生その眼鏡越しに映画を観たいだなんて思ってしまう。
彼女のいる右側の神経だけ、感度が十倍にも二十倍にもなっているような気がした。
「面白かったですね」
劇場を出て歩く途中で彼女が言ってくる。
「あ、あぁ、うん」
正直ほとんど中身を覚えていなかったおれは、曖昧に返事をする。
空はオレンジ色に染まっていて、あと数分もすれば空よりも地上の方が明るくなってしまうような時間だ。
「よ、良かったらこのあと、軽くご飯でもどうかな?」
今日、頭の中で何度も練習した言葉を口にする。
練習したわりにはさりげなさはゼロだった。
「いいですよ。どこがいいですか」
佐世保さんが想像以上にあっさりと言ってくるので、こういうことに慣れているのかと、ほんの少しだけ胸に痛みを感じた。
「じ、じゃあ色々食べれるように居酒屋でもいこうか」
もちろん、事前に調べていたお店がある。
居酒屋ではあるが、有機野菜や地方の食材にこだわった創作料理を出す店だった。
ネットでの評判も上々。特に気に入ったのは「個室がカウンターのような造りになっていて、デートにぴったり」といった口コミだった。
実際、入ってみると想像以上に素晴らしかった。
二人掛けの個室は口コミの通りシートが横並びになっていて、おのずと隣同士で座ることになった。
「お先にお飲み物だけでもお聞きしましょうか」との店員の声に「じゃあ、ビールで」とおれが答える。
「佐世保さんは?」
「じゃあ、私もビールで」
「……お酒、飲むんだ?」
「意外ですか?」
「いや」
普段の彼女を見ているとお酒を飲む姿は想像出来なかったが、それもおれが勝手に彼女に貼り付けたイメージでしかないのだろう。
「それじゃあ、乾杯」
運ばれてきたグラスを軽く合わせてから、おれは一気に半分ほど飲み干す。
今日一日、緊張のせいで喉がカラカラだった。
彼女のほうを見ると、慎ましくではあったが、ごくりごくりと美味しそうにビールを喉に流し込んでいた。
そんな姿ですら可愛らしいと思ってしまう。
そこから、今日の映画の感想やバイト先の愚痴などで盛り上がった。
アルコールが入ったせいか、おれの口もいつもより饒舌に動いてくれる。
彼女がビールに変えて三杯目のレモンチューハイを呑み終わる頃、おれは彼女の姿に少しの違和感を覚え始めていた。
口調がどんどん軽くなっていき、どこか、妙に色っぽいのだ。
会話の合間に挟まれるスキンシップが大きくなっていき、ついには肩を寄せ合うような格好になっていた。
――もしかして、彼女もおれに気があるのか?
そんな考えが浮かんできて、思わず口元が緩んでしまう。
「ちょっと、河合さん話聞いてますぅ?」
砕けた口調になった佐世保さんがおれの肩をつつく。
「聞いてるよぉ」
そう言っておれも意を決して彼女の二の腕あたりを指でつついてみる。
指先に感じる女の子の柔らかさは、それだけで股間が熱くなってきてしまう。
彼女も嫌がる素振りは全く見せない。
これはもしかして、と淡い想像をしていたその時だ。
「この後、どうします?」
彼女から聞いてきた。
眼鏡の奥の目は潤んでいて、見つめているだけで吸い込まれて、思わずキスをしてしまいそうになるほどだ。
「こ、この後は――」
――佐世保さんってさ、ヤリマンなんだって。
――酒飲ませたら淫乱になるんだって。
ふいに、アイツの言葉が浮かんできた。
いや、そんなはずはない。
確かに今の酔った彼女はとても色気に満ちているが、それはきっとおれのことを良く思ってくれているからで。
おれはごくりと唾を飲み込む。
「佐世保さんは誰にでもそんなことを言うの?」
言ってから、後悔した。
クソみたいな質問だ。
佐世保さんはきょとんとした表情でおれを見ている。
「あ、あぁ、いや、違うんだ。バイト先のやつらがさ、なんか変な噂してたから」
「変な噂ですかぁ?」
酔いのせいでよく頭が回らないのか、佐世保さんは間の伸びた口調で返してくる。
「そ、そう。なんか、佐世保さんがヤリマンだとか、酒飲ませたら淫乱になるとか。あぁ、いや、おれは全然そんなこと思ってないけどね――」
「えー、なんでバレてるんですかぁ」
その時、えへへと可愛く笑う彼女の顔を、おれはどんな表情で見ていたのだろうか。
「……え?」
「私ぃ、お酒飲むとエッチな気分になっちゃうんですよぉ」
一瞬で、酔いが覚めた。
店内のBGMが遠くなっていき、焦点がどんどんと狭まってくる感覚がした。
彼女のその甘い甘い言葉は、はちみつのような粘度を持った、酸だった。
おれの心にどろりと張り付いて、痛みを伴って胸を焦がしていく。
「そ、それってどういう」
「だからぁ、酔っ払うとエッチしたくなるって言ってるのぉ」
キャハハと笑いおれの肩を軽くパンチしてくる。
「……ってことは、色んな男と?」
「えー、分かんないです。数えたことないし」
今さっき食べたものが全部喉元まで押し寄せてきた。
動悸が激しい。背中にはべっとりと汗をかいている。
「も、もっと自分を大事にしなきゃダメだよ」
「えー、なんかその言葉めっちゃ童貞臭いですよぉ。あ、河合さんやっぱり童貞なんだ」
彼女が口元を押さえてクスクスと笑う。
「私、童貞でも大丈夫ですよぉ。だからこの後、どうしますぅ?」
上目遣いで見てくる彼女を思わず押しのけた。
「……ごめん。おれ、帰る」
そう言って財布から一万円札を取り出しテーブルに置いてから、逃げ出すように店を後にした。
店を出てから、堪えていたものが決壊したかのように泣いてしまった。
泣きながら改札をくぐり、泣きながら電車に乗って、泣きながら自宅への道を歩いた。
――違う違う違う。
何が違うのか。頭の中でずっと繰り返していた。
下心が無かったわけではない。
もちろん、君とそういうことをしたくなかったといえば嘘になるだろう。
でも違うんだ。
おれが求めていたのは、思いを伝えて、二人で思いを確かめ合って。
それで、なんというか。
愛のあるセックスがしたかったというか。
そんなクソくだらない理想は見事に打ち砕かれた。
彼女の細い腕を、きめ細やかなその肌を、すらりと伸びたうなじを。
今まで何人もの男が弄んだというのか。
――違う違う違う。
自分が抱いていた彼女のイメージが、どんどんと崩れていく。
君は優しくて、清楚で、それでたぶん――処女で。
陰キャ男が抱いていたそんな幻想は、すべて的外れだったのだ。
悔しくて、情けなくて。
勝手な想像で盛り上がっていた自分を殴ってやりたくて。
家についてから布団にくるまって、そんでそのままずっと泣いた。
******
後日。
バイトで彼女と同じシフトになった。
彼女はおれの顔を見て「あっ」と何か言いたげにしていたが、彼女がおれに声を掛けようとするたびに、わざと距離を取って話しかけられないようにした。
どんな言葉をかけられても、上手く返せる気がしなかった。
最低の、ヘタレ野郎だ。
おれはその月でバイトを辞めることにした。
店長には引き止められたが、もうここで働ける気がしなかった。
彼女ももうおれに声をかけるのを諦めたのか、隣同士になっても淡々と仕事をこなすだけだった。
バイト最終日。
閉店後の後始末をして更衣室に向かう。
佐世保さんは今日はシフトには入っていなかった。
ほんの少しだけ安堵していた自分がいた。
更衣室を開けるといつかと同じく乾麺と刈り上げの二人がだべっていた。
「あぁ、河合さんおつかれっしたー」
最終日だけでも愛想よくしようとしたのか、二人が手を上げて挨拶をしてくる。
「あぁ、ありがとう。二人も頑張ってね」
そう言って自分のロッカーに向かう。
制服から私服に着替え、ロッカーに置いてあった私物をカバンに詰め込む。
帰ろうと出口に向かうと、二人はまだ座り込んで話をしていた。
ドアの手すりに手をかけてから、ふと思い立ち振り返った。
「あ、あのさぁ」
声を掛けると二人がこちらを向いてきた。
「前に、佐世保さんがヤリマンだって話、してたでしょ」
二人が「やべぇ、聞かれてた」と言わんばかりに気まずそうに互いの顔を見合わせる。
「……あれ、ホントだよ」
フヒョ、フヒョヒョと気持ちの悪い笑いを漏らすおれの顔を「なんだコイツ?」みたいな表情で見ている二人を置いて、おれは更衣室を後にした。
まるで首の骨が折れたのではないかと思えるほど、
とぼとぼと、足を引きずるように。
あれは一種の復讐だったのだろうか。
おれは考える。
最後の最後になにか反撃してやりたくて。
――誰に?
――何に?
強烈な自己嫌悪で、地球の重力に負けそうになる。
それでもなんとか家にたどり着き、カバンを置いて一息ついた。
ふとスマホを見るとメッセージが届いていた。
送り主は――佐世保さんだった。
心臓が止まりそうになるほど驚いて、震える指でメッセージを開いた。
『お疲れ様です。最終日まで挨拶できなくてすいませんでした。河合さんは優しくて、一緒に働けて良かったです。いままでありがとうございました』
おれは布団の上で体育座りになって、
そのメッセージを何度も読み返し、
返事を返すこともなく、泣いた。
過呼吸になりそうなほど、泣き続けた。
【サセコの佐世保さん――完】
サセコの佐世保さん 飛鳥休暇 @asuka-kyuka
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