第3話 初めてのキス
朝日で煌めく水面、心地よい波音。初夏の晴れ晴れとした早朝の砂浜にて、私は……、大声を張り上げていた。
「むっ、無理ッです!! わっ、私には絶対無理!! き、気持ちわるい!」
「大丈夫、大丈夫。気持ち悪いって思うのは最初のうちだけだから。馴れたら平気で触れるようになるわよ♪」
みっともない声をあげている原因は、今日初めて出会った遥(はるか)さんのせいである。
再就職先が見つからず、へこんでいた私に話しかけてくれた、大人な雰囲気の彼女。
そんな遥さんは、今日、釣りをするためこの砂浜にやってきたそうだ。そんな彼女に、私は釣りに誘われて。
釣りなんてやったことがなかったけど、テレビで芸能人がやってるとこは見た事があるし、魚が釣れてる様子はなんだか楽しそうだし。だから軽い気持ちで釣りのお誘いを受けちゃったのだが……、私は今そのことに激しく後悔している。
だって! 正面にいる遥さんが、虫を近づけるからだ!
遥さんが右手に持っている小ぶりの透明なパックを、少し私に近づけた。
「いひゃあっ!?!?」
パックの中にウニョウニョした、ミミズみたいなのがたくさんいる!! わわっ!?
しゃがみ込んでいた体勢から慌てて動いたせいで、尻もちをつきそうになる。でも、遥さんがサッと左手を伸ばした。私の右手が掴まれる。
「そんなに慌てないの。危ないでしょ?」
「す、すいません……、って、いやいや!?!? 遥さんのせいですよっ!? ミミズを近づけるから!」
「ああこれはね、石ゴカイって言うの。キスを釣るエサとしてよく使うものよ」
遥さんが、透明なパックを砂浜に置いたかと思うと、なんのためらいもなく指で、石ゴカイという生き物を掴んだ。
「ちょ!? ちょっと!? めちゃくちゃ動いている!?」
「そりゃあ動くわよ、生き物だもの」
「そ、そういうことじゃなくて! ―――って、なっ!? なんで私の手の上に持ってくるんですか!?」
遥さんが、石ゴカイという謎のウニョウニョ生物を、あろうことか、私の右手に近づけだした。
「え? だってキスを釣るには、まずエサを針につけないと。そのためには、触れないと……、ね?」
「は、遥さんがつけて下さいよぉ!? わ、私には、む、無理無理無理!! さ、触りたくな―――」
ポトリ。
「いっ!?!?!?」
私の目が一点に集中する。手のひらでウニョウニョと暴れる、石ゴカイ。何とも言えない、のたうちまわる感覚が私の、手、手のひらに伝わってくる!!
「ひっ!! ひっぎゃ―――」
「叫んじゃダメよ!」
「ひゃい!?」
「噛まれるから」
「何に!?」
「そんなに大声だしたら、石ゴカイが驚いて噛みつくわよ~」
「うっ、うそ……!?」
そんな凶暴なの!? この石ゴカイって!? そ、そんなの、手にのせないでよおおおお!! い、今すぐにでも手をぶん回して払いのけたい!! でも、遥さんが私の手を掴んでいるからどうしようもできない!! ただ、耐えるのみ。
「う、うおおおおッ……!!」
つい、低いうめき声がこぼれる。そうでもしないと、正気が保てない。
「ねっ? 意外と慣れるもんでしょ?」
そんな訳ないでしょ!? 今の私の状況を見てなぜそう言え―――、
ポトリ
「おおッ……!?」
まさかの2匹目だった。私の手のひらで、ウニョウニョ、ジタバタ……。もう最悪の光景と感触だった。わ、私の理性が……!! ふ、吹っ飛びそう!!
「う、うお、う、うおおおお……! ぐ、くっはぁっ……!!」
ズサッ!
私は思わず両膝を付いた。もう、完全にKOされた感じ。なんか……、どうにでもなれ。
「あ、あら? 千佳ちゃん? 大丈夫?」
「ふっ、ふふっ、何がですかぁ……? もう、何でもこいですよ……、ふふふっ」
「あら…………、もうなんか目があれよ。死んだ魚のような目をしてるわね」
例えがひどすぎる。というか、誰のせいだと思ってるんですか、誰の……!!
私がジトーっとした視線で見つめていると、遥さんがニコリと笑う。
「餌つけは私がやってあげる。特別サービス♪」
「!?」
だったら……、触らせないでよ……っ!! 石ゴカイをッ!!
遥さんが、私の手のひらから石ゴカイ2匹を回収。そして、1匹だけつまむ。
……、私さっきまで、ウネウネした石ゴカイというものを触ってたんだよね……。あんな気味の悪いものを……。
でも、心の片隅で、別にもう触れなくもないかと思っている自分がいた。……はぅ……、女子としての何かを失った気がする……。
「まずはね、石ゴカイの頭から針につけるのよ。あっ、見て見て、口からちよっとトゲみたいの出したり引っ込めたりしてるでしょ? これ小さな牙」
あまりじっと見たくないが、確かに石ゴカイの口らしき部分から、小さく黒い何か爪みたいなのが、シャコッ、シャコッ、と出入りしている。挟まれると意外と痛そうだ。もし……、大声を出し続けていたら私、この牙に噛ま―――、
「あっ、大声を出したら驚いて噛みつくっていうのは冗談だから」
「!?」
う、嘘つき!!
「まあでも持ち方が悪いと噛まれちゃうから気をつけて。頭の付け根部分を持って針に付ければ噛まれることは少ないから。それか、頭はハサミで切ってしまってもいいわね」
そう言いながら小さな針に、手際よく縫うように刺していく。
「それで、このままだと長いから、石ゴカイをちぎります」
「えっ? ちぎる?」
「そう、こうプチっとね」
遥さんがそう言いながら、指の爪を立てて石ゴカイをちぎった。う、うわあ……、ワイルド。あの、なんか切った先から、汁みたいなの滲み出てる……。
「長いとね、針がキスの口にかからないの。だから、針先から1~2センチほどの長さに調節した方が良いのよ」
私がちょっと引いているのもお構いなしに遥さんは説明を続ける。なんだか楽しそうに。これから始まる何かに、ワクワクしているような感じ。あの……、私はその逆でちょっとテンション下がっているんですけどね……。
でも、私のそんな気分は、立ち上がった遥さんの構えを見て急に変わった。
「あっ……」
2メートル近くある竿を両手で持ち、竿の先を後ろに構えた遥さん。凛々しい顔付き。目元は、サングラスをしていているから、確かなことは言えないけど、でも、真っ直ぐに、海を見つけていた。
釣り人が、海に向かって仕掛けを投げる。まさに、その瞬間に立ち会っていた。実際に見るのは、初めて。こんな近くで。
急に静かになる周囲。砂浜の心地よい波音が鼓膜をくすぐる。そんなことを感じた一時だった。遥さんが動いた。竿を握った両手が、竹刀を振るように振り下ろされる。後ろに構えていた竿先が、風を切る。涼し気な音を鳴らしながら、しなった竿先から勢いよく空へ放たれる仕掛け。
「すごっ……」
遠くへ。20メートルくらいだろうか。水しぶきを上げて、海の中へ仕掛けが投げ込まれた。
遥さんは、しばらく待つ。糸がするすると、海の中へ吸い込まれていく。タイミングを計っていたかのように、途中で糸の出方を止めた。そして、巻く。糸を回収する何かのハンドルを回して(のちにこれは、リールと知る)。少し巻いては、止める。それの繰り返し。遥さんの顔は、しきりに竿の先に向いていた。
なんだろ……、この……、何とも言えない……。
期待感。
「きたっ……!!」
遥さんの合図するような声に、私も大きく反応する。
竿先が、まるで生き物の尻尾みたいに、揺れた。
遥さんが竿を立てる。糸を巻いていく。巻いていく。
私の視線は、もう釘付けだった。だって、これはきっと、釣れている!!
「一投目できたわねっ! よっと!」
「うわあっ! キレイ」
海中から巻いて引き上げた。姿を現したのは、乳白色に近いキレイな色をした、魚。細身のシルエットがなんだか上品さを感じさせる。
「この魚……、えっと……」
「ふふっ、キスっていうのよ」
「キス……」
初めて見た魚。初めて釣り上げられた瞬間を見た魚。
キス。
「すごい……、こういうのが、釣れるんだ……」
「ふふっ、次は千佳ちゃんの番ね」
「えっ?」
「はい」
そう言って、私に竿を差し出した遥さん。私は、戸惑った。だって、素人の私が持って良いもんじゃないと……、思っちゃったから。でもね、遥さんが言ったの。
「一緒に、釣りしましょ」
その優しい声音と、微笑みが、私は―――、嬉しかった。
「……、はい」
小さな返事をして、私は差し出された竿を、握っていた。そして立ち上がる。胸の奥は、これから始まる釣りに、ワクワクした気持ちいっぱいだった。
釣りたい! キスをっ!!
私は、目の前に広がる海を、遥さんみたいに、真っ直ぐに見つめていた。
今日から私は釣りガール! @myosisann
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