狐の女中:裏

 ゆきのは妖狐の身でありながら、人間の娘に化身して、女中として資産家の屋敷にて働いていた。既に働いていた女中たちから見れば余所者に相当するゆきのであったが、彼女は先輩女中たちに一目を置かれるようになるにはそう時間はかからなかった。

 ゆきのは確かに美貌の持ち主であったが、女中たちはゆきのの聡明さと堂々とした態度、そしてそれらを持ち合わせながらもひとかけらも傲慢な様子を見せない寛容さを評価していた。

 ゆきのは女中たちが知らない事をていねいに教える事がある一方で、一部の令嬢が見せるような傲慢さを見せる事なく常に礼儀正しかったのだ。無論その時は、ゆきのが狐であると疑う者はおらず、少し謎めいているけれど感じの良い女性であると多くの女中が考えていた。

 甲家の当主は好色な男だった。家柄も容姿も知性も申し分のない正妻がいるにも拘らず、気になった女中やそうでない娘に手を出し、次々と妾にしてしまうような男なのだ。

 甲家当主は当然のようにゆきのにも関心を向けた。尤も色事にしか興味のないこの男は、ゆきのの美貌にしか意識を向けなかったのだが。しかし当主の動きは徒労に終わった。

 ゆきのは当主の身持ちの悪さも知っていたし自分に向かってきた意図も読めていた。彼女は丁寧に決然と当主の誘いを跳ね除けたのだ。当主とゆきのとのやり取りはもちろん女中たちも知る事となった。

 仲間が翻弄され時には泣かされる事があったのを知っている彼女らは、この事実に様々な反応を示した。ゆきのが当主の鼻を明かした事を面白がるものもいたし、彼女の毅然とした態度を称賛する者もいた。

 中には、当主の誘いをにべもなく跳ね除けたゆきのを、愚かな事をしたという輩もいたが、そういう意見は声高に述べられる事は少なかった。この事件が明るみになったころは、ゆきのは甲家の女主人、すなわち当主の正妻と随分親しくなっていたためだ。

 誘いを跳ね除けられて以来、ゆきのに対して複雑な感情を抱いていた甲家当主だったが、当主の正妻はゆきのに対してかなり友好的だった。正妻は物静かで穏やかな性質だったが、その典雅な風貌の奥には深い知性を湛えた人物だったのだ。

 理知的で冷静ながらも謙虚で礼節を忘れぬゆきのを好ましく思うのは当然の成り行きであろう。大切な息子、寅坊の面倒を見るようにと依頼したのも当主ではなくて正妻だった。ゆきのの事はもはや妹のように思っており、彼女に任せれば息子も賢くまっすぐに育つであろうと信じての事だった。

 当主の跡取り息子の面倒を見るという仕事は確かに大役だったが、ゆきのはその仕事を楽しんで引き受けた。もとより長女であるゆきのはしばしば歳の離れた弟妹の面倒を見ていた訳であるし、正妻がゆきのを妹として可愛がるのと同じく、ゆきのも正妻の事を姉のように慕っていた。幼い弟、或いは甥のように思って寅坊に対して接していた。

 寅坊が体調不良に襲われた時、誰よりも不安になったのはゆきのだった。任務の不手際を責められると思ったのではなく、純粋に寅坊の身をゆきのは案じていたのだ。はじめはどのような理由で寅坊が弱っているのか解らなかったが、本性が妖狐であるゆきのは(年長者である叔父叔母や父親の助言もあり)、すぐに真相を突き止める事が出来た。端的に言えば、寅坊が弱っているのは病気のためではなかった。寅坊は何者かに毒を盛られていたのだ。

 何故幼い寅坊が毒を盛られないといけないのか。理由や犯人が気になったものの、何にもまして寅坊を回復させるのが最優先だとゆきのは悟った。気付かれないように毒を盛られ続けていた寅坊はかなり弱っており、伏せがちになっていたのだ。

 ゆきのが妖術を使ったのは、言うまでもなく寅坊の生命を護る為だった。もちろん解毒の為の薬を手配してはいたが、すぐに手許にやって来る代物ではなく、その間に寅坊が死んでしまったら元も子もない。ゆきのは自分の生命力を少しずつ寅坊に流し込む事にした。その術はうら若い妖狐たるゆきのには中々難しい術に類するものだったが、構ってはいられなかった。

 術を行う最中に変化が解け、ゆきのの本来の姿が露になった。とはいえ騒ぎにはならなかった。寅坊はおのれを蝕む毒と闘うためにうなされながらも眠りに就いており、部屋の中で起きている者と言えばゆきの自身しかいなかったのだ――その時、部屋の向こうで何者かが覗いていた事には、ゆきのは気付かなかった。

 寅坊を呪詛で殺そうとした化け狐であると嫌疑がかかった時、迫りくる使用人たちを前にゆきのは抵抗しなかった。暴れれば捕まえられないどころか反撃も容易かったのだが、ゆきの自身がそういう事を望んでいなかったためである。彼女は当主と正妻に真実を告げるつもりだった。自分が化け狐である事を偽って働いていたという負い目もあったし、妖術を使ったのは呪詛ではなく寅坊を救うためであると伝えれば単純な当主と慈悲深い正妻は解ってくれるだろうと思っていたのだ。

 正妻は途中までゆきのの事を信じていたが、当主はゆきのを始末するようにと言い放つだけだった。ゆきのに袖にされた事を恨んでいた上に、口の上手い退魔師が付いていたためだった。

 寅坊がほんとうに呪詛ではなくて毒にやられて夭逝した事、毒を盛っていたのは当主やゆきのを悪く思っていた女中の仕業だった事は、全てが終わってから明るみになったのだった。

 しかしやはり、ゆきのや彼女の眷属による呪いはあったのかもしれない。数年を待たずして甲家は没落し、ゆきのの物語しか残らなかったのだから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狐の女中 斑猫 @hanmyou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画