夏が嵐を連れてくる

葵ねむる

夏が嵐を連れてくる

 今は絶対に言えない。そう強く思うような、誰にも言えないことがある。

 と、前置きをすると今から長い独白でも始まりそうだが、そんなことはない。でもわたしにとっては大それたことなのだ。こんなこと、今さら恥ずかしくて人に言えやしない。



 言えない。誰にも言えない。

 まさか23歳にもなって、自転車に乗れないだなんて。





 ドがつく田舎に住んでいるので、これまでの移動手段と言ったら専ら自動車だった。幼い頃は父親が運転する軽トラック、大きくなってからは自分で運転する実家の軽自動車。それも壊滅的にドライビングスキルが無いので、こわごわ運転しているというのに。自動車教習所時代に「光希みきちゃんは運転そろそろ諦めたほうがいいね」と幾度となく言われ、運転中に何度も悲鳴をあげている。ウリボウやイノシシやタヌキを轢きそうになったことだって一度や二度ではない。役場で働くことを選んだのも、徒歩で通勤できるからだったというのに。


 まさか、急な異動で東京に引っ越すことになるなんて夢にも思わなかった。都市開発研究チームだなんて名前の響きはご高貴だけど、はやい話が「ド田舎の若者の意見を取り入れよう」という、ただそれだけである。どうせ道路をトラクターが走っているとか、最寄りのセブンイレブンまで車で30分かかるとか、バスは3時間に1本しかないとか、そういう話をさせられて笑われるだけに違いない。


 東京。日本の首都。東京タワー。スカイツリー。浅草。渋谷109。どこを歩いても芸能人がいる街。TVでしか観たことがない、煌びやかな世界。あれだけ財政豊かな街なのだ。楽しみを通り越して怖い。しかも、その煌びやかな街並みを自転車で移動しながら各地を訪問するらしい。意味がわからない。都会の人は一体なにを企んでいるというのか。


そがんこつそんなこと言ったって、乗らなんとだろ乗らなくちゃならないんだろ


「だけん、あんたに今頼んどるつたい頼んでるんじゃないの


 そんなふうに、わたしの泣き言を吐き捨てるのは幼馴染の聡太だ。「自転車に乗れるようにしてほしい」なんて、こんなに恥ずかしい頼み事があってたまるかと思ったが、こればかりはどうしようもなかった。生まれる前から知り合いと言っても過言ではない仲なのだ。今さら恥ずかしいところを晒すも何も無い彼にしかこんなことは頼めなかった。



「お前だけ東京行くとかだごすごくウケる。なんで俺じゃないん?」


「わたしのほうが優秀ってことつたい。ことだよところで、なんでこげなこんな体制?」


こげなこんな大きさの自転車に補助輪なんか無かもん無いもん。ほら乗れ。後ろから支えてやあ支えてあげる


 ぐいぐいと強引に押し込まれるようにして自転車に跨る。妹の自転車を借りてきてくれたらしい。とりあえずサドルに腰を下ろして、おそるおそるペダルに片足を乗せる。ここまでは順調だ。そしてもう片方…


どがんしてどうやってもう片方乗せる?!?!?!」


「そこから?!?!?!」


 フッと浮いた体が途端にバランスを崩した。慌てて地面に両足を着ける。よかった地に足がついている。怖すぎる。きっと初めて箒に跨った魔法使いもこんな気持ちだったに違いない。


だごやびゃー本当にひどいな。まずは押さえとくけん押さえておくから乗ってみ。どっちも足を乗して乗せてって感じより、低いほう乗してグッと漕ぐたい漕ぐんだよ


「わかった……」


 さっきの感覚を無理やり頭から弾き出しながら、グッと言われた通りに低いほうだけに足をかけてから漕ぎ出す。すうっと進んだ自転車にギャアギャア声を出すが、どうやら聡太が後ろで支えながら走ってくれているらしい。足動かせ!の声に導かれるがままに漕ぐ。フラフラヨタヨタしていた自転車が、すこしずつ安定してきた。あ、ちょっと分かった。ねえ、行けるかも。と言いかけて、彼がぽつりとつぶやいた言葉に遮られた。



 ___なんか髪の毛いい匂いする。



 その瞬間、グラっと世界が傾いた。

 光希!と彼が叫ぶ声だけが遠くなっていくような気がしつつ、グッと引き寄せられる。彼の腕の中にいた。なにこれ。


「ご、ごめん」


なしてなんで今油断した?!」


「だってあんたが変なこと言うけん言うから!」


「変なこと?」


「…いっ、…なんでもない!もっかいやらせて!」


 いい匂いがするとか、と、さっき聴こえたあの言葉は言えなかった。慌てて起きて彼の腕の中を抜け、もう一度同じようにペダルをグッと踏み込む。みぎ、ひだり、みぎ、ひだり、みぎ。どっちも足を乗せて、交互に思いきり漕いだ。するりと自転車が軽くなる。ふと視線の端に写ったのは、わたしの手を離した聡太だった。


「えっ、ちょ。まって、」



 離れないで。



 すんなり出た言葉と裏腹に、またバランスが崩れて自転車ごと横転した。聡太が慌てて走り寄ってくる。「ごめん、止まり方教えてなかった」だなんて。こんなふうに笑っていたろうか。こんな、やさしくてあどけないふうに。


 ふと彼に抱き抱えられるようにされながら覗き込んだ景色は、思いのほか広かった。あんなに喉仏がくっきりと出ていることも、手が大きいことも、知らなかった。性格はがさつなくせに、線は細いとばかり思っていたのに。ああ、と上から声が降ってくるその声も、ずっと聴き慣れていて、飽きてすらいると思っていたのに。思っていたより声は低く感じたし、落ち着いていて、別の人みたいだ。なんというか、ちゃんと男の人、で、戸惑ってしまう。


「…さっき、」


 だから、言ってしまったのかもしれない。


「髪の毛、良い匂いがするって言われたの、ドキッとした」


「……なんか、良い香りしたけんしたから。その。…女っぽくて、焦った」



 聡太の伏目がちな黒目が揺れる。ああ、どうしよう。困ったな。わたしもうそろそろ自転車に乗れるようになってしまうのにな。わたしもうすぐ東京に行ってしまうのにな。頭のなかで、思考が巡る。



離さんで、いなくならんどって。離さないで、いなくならないで



 自転車のことだけではなくて、という気持ちと、今すぐこの気持ちをぶつけてしまうのは違うよなという気持ちが混ざってクラクラした。今はひとまず自転車に集中するために、一度気持ちは無かったことにした。気付かないふりをする。


 20年以上近くにいたこの人のことが、男の人として好きだなんて。今は絶対に言えない。



Fin.



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