雨が降るから。

高橋鳴海

雨が降るから

「あー、降り始めちゃった。どうしよっか、京太郎くん」


 ざあざあとなり響く雨音を聴きながら、谷木涼子が言った。どうすると言われても今日は雨が降るから早く帰りたいと言ったのに、無理矢理残らせたことに対する罪悪感とかはないのか。


「ひとまず、最終下校時間まではここで書くつもりだ。あと、京太だ。人の名前は正しく呼ぶものだぞ、谷木」


 京太郎というのは所謂あだ名だ。小説を書いていて、西村京太という名前だから「京太郎」という安直なチョイスである。


「お前はどうする」


 顔を上げずにそう返す俺に谷木はつまらなさそうな顔して、正面に椅子を持ってくると肘をついて、心底退屈だと言わんばかりにこちらを見た。


「べっつにー、書きたいものもないし私も下校時刻までここで君の作業を見守ることにするー」


 拗ねたような口調で谷木は言う。それに「そうか」とだけ答えて、黙々とペンを動かし原稿を書き進める。目標としている賞の締め切りまで、残り三日を切っていた。デジタル化が進む現代で、アナログ方式で書くからには少なくとも二日前の明日には完成させないと、打ち込みと推敲をする時間がない。


「……ねぇ」

「なんだ」


 しばらく黙って作業をしていると、唐突に谷木の声が耳のすぐ側から聞こえてくる。何回も同じことを繰り返されるとそういった彼女の行動にも慣れるもので、俺の口からはすんなりと返事が出た。対して谷木は嬉しそうに眉を細めながら、口を開く。


「ふふ、私の扱いにも慣れたもんですなあ。他の人だったら今ので顔を赤くして吃ってるよ」


 その言葉に苦笑を一つ。

 ほとんど毎日一緒にいれば誰だってあしらい方の一つや二つ覚えるだろう。別に特別なことじゃない。


「自覚があるならやめたらどうだ」

「やだね」


 谷木はアカンベーをして俺から離れ、鼻歌を歌いながらまた正面の席へと座り直した。ふわりと残る彼女の香りに少しだけ名残惜しさを感じながら、また作業に没頭した。

 谷木の寝息が聞こえることに気がついたのは、それから二時間後。原稿も最後の佳境が目前となり、中々筆が進まないので一度休憩を挟もうと考えて鉛筆を置いた時のことだ。

スヤスヤと気持ち良さそうな緩い呼吸と、普段の鬱陶しさからは考えられないほど愛らしい寝顔にしばしの間意識を奪われる。


「くちゅんッ」


 ぼけっとしていると谷木がぶるりと体を震わせて、くしゃみをした。書くことに熱中していたせいか温度変化を感じていなかったが、どうやら部室は少し冷えてきているらしい。きっと雨のせいだろう。春先だとまだ気温が下がりやすい。

 仕方ないな、なんてなんでもない言葉を呟いて机にうつ伏せになって眠っている彼女に自分が着ているブレザーを肩から掛けてやる。部活生の最終下校時刻である九時まで後二時間ほどだが、彼女の寝顔を見ている間にすっかり書く気が抜けてしまった。

 カバンから水の入ったペットボトルを取り出して口をつける。思いの外生温くなっている液体が喉を通りぬけていく感覚が少し不快だった。

 続いてカバンから本を取り出した。筆が進まない時は読書をするのが一番いい。


「んん……」


 本を読み始めてから一時間近く経った頃、少し寝苦しくなってきたのか谷木から声が漏れた。肩にかけていたはずのブレザーは、いつの間にやら抱きしめるようにされている。

 時間も時間なので、そろそろ起こしてやった方がいいのかもしれないが、もう少しだけ彼女のその寝顔を見ていたくて、声をかけることはしなかった。

 しばらくもぞもぞとしていたが、程なくして落ち着いたのか谷木はまた安らかな寝息をたて始める。その様子が居所を整えた犬のようで、可愛らしくて、ついつい破顔してしまう。

 谷木が犬だったのなら種類はなんだろう。よく整えられた甘栗色の長い髪はどこかレトリバーらしさを彷彿とさせるが、普段の振る舞いも加味して考えるとコリーあたりだろうか。意外とチワワだったりするのかもしれない。

 しかしながら、こうして彼女の寝顔を見ていると端正な顔立ちであることが改めてよくわかる。いつだか告白される機会が多過ぎると愚痴を言っていたが、容貌だけで判断するのなら多くの男子生徒が魅了されるのも納得できた。中には性格を知って告白をした奴もいるのだろうが、どちらにしろ俺は谷木に告白した生徒に尊敬の念を抱いてしまう。とてもじゃないが、俺にそんな勇気はない。

 文庫本を置いてから、そっと手を伸ばして彼女の髪の毛に触れる。谷木がここで起きてしまえばセクハラ男として一躍校内の人気者だろうが、幸い起きる気配はない。俺にはこれが精一杯の勇気だった。

一度だけ、そのまま髪を梳くように指を通して撫でる。サラサラとしていて、まるで水を触っているかのように心地良い手触りで、何度でも撫でてしまいたくなる。

 手を離してからもう一度、と思って手を伸ばしかけるが彼女が身動ぎをしたことでハッとして、机の上に置いた文庫本を手に取った。その拍子に机の角に肘をぶつけてしまい「いッ」と大きな声が出た。


「……あ、れ」


 当然、そんなことをすれば寝ている人間も起きるというもの。谷木は目を擦りながら、突っ伏していた体勢から起き上がり、ぼんやりとこちらを見つめる。


「あ、京太くん」

「……お、おう。おはよう」


 詰まりながらそう言った俺に「おはよ」と返事して、にへらと嬉しそうに笑う谷木。対して俺は勝手に髪に触ってしまったことで少々の罪悪感を感じていた。


「私、寝ちゃってたんだ」

「ああ、それはもう気持ち良さそうだったぞ」

「……へへ、面目無い。勿体無いことしちゃった」


 何が勿体無いのかはわからないが、谷木はそう言ってグイッと体を伸ばした。寝起きで朦朧としているのか、彼女の口調はいつもより明らかに緩くなっている。


「……あれ、その本って」


 伸ばした体を弛緩させた後、彼女が何かに気がついたのか、俺が持っている本を指差した。谷木は見せろ、と言いたいのかこちらと本とに視線を交互させる。俺は黙って彼女の要求に応じた。


「やっぱり、私が君にあげたヘミングウェイだ! 捨てないでくれてたんだ!」


 俺の手から本を取って確認すると嬉しそうにそう言ってこちらに笑顔を向ける。


「流石に貰ったものを捨てるわけにはいかないだろ。それに、その作品は嫌いじゃない」


 その本、老人と海はアーネスト・ヘミングウェイによって老漁師のサンチャゴの生き様が描かれた世界的ベストセラー作品だ。本が好きなら知らない人の方が少ない作品であるが、俺自身は知っているだけで食わず嫌いをしていた。読む価値がないと断じていたのである。ところが、ヘミングウェイが好きな谷木はそんな俺の「老人と海」に対する偏見に憤怒した。結果、彼女の逆鱗に触れてしまった俺は無理矢理、本当に無理矢理それを押し付けられてしまった。

 そして、読むことを渋る俺に彼女が言った「先っぽだけだから」に見事に引っかかって、別に趣味でもないこの作品をついつい何度も読んでしまっている。サンチャゴという老漁師の魅力の強さ故だ。


「京太郎くんも、ヘミングウェイの良さがわかるようになったかー。いっつも暗い小説ばっか読んでたもんね」

「別にいいだろ。あとヘミングウェイが明るいわけではないし、それに俺はヴィットコップだとかラヴクラフトだとかそういうのが好きなんだよ」

「えー。ダメだよそんなの。君の文章があんな風になるの私、イヤだもん」

「……お前が決めることじゃないだろ」


 だってイヤなんだもーんと、そっぽを向いて足をパタパタさせる谷木に溜息を零す。

 そこで一度会話は止まった。


「雨、降り止まないね」


 しばしの沈黙の後にふと、谷木がそんなことを呟いた。


「そうだな」

「……そうだ! もしこのまま下校時刻まで止まなかったらどうする!」

「いや、そりゃあ、傘がないわけじゃないし普通に帰るだろ」


 そう言うと谷木はわかってないなーとでも言いたげに心底呆れたような表情を作る。

 そんな顔をされても、俺には何が言いたいのかなんてわからないわけで訝しむような顔をするしかない。


「君に察しろという方が無理な話だったかもね」


 やれやれと身振りをする彼女に少しムッとする。別に他の部分で貶されてもなんとも思わないが察しが悪いというのは心外だった。


「俺はこれでも察しがいい方だ。他人の相談に乗って、相手が触れられたくない核心を遠ざけつつ解決するのは得意だぞ」

「でも、女心には疎いから恋愛相談では尽く地雷を突いて毎回失敗してるの知ってるよ」


 俺は負けを認めて黙った。これ以上は己の傷を増やすだけだと察したからだ。

 ただ、谷木のその言い方では彼女の言葉の中に「女心」に纏わる要素があることになるのでそこだけは少し聞きたくなった。墓穴を掘りたくないので黙ることにしたけれど。


「そうそう、それでさ。もしもこのまま雨が止まなかったらさ」


 そんな俺の疑問を他所に谷木は立ち上がって、こちらのすぐ近くまで寄ってくる。


「隠れてこのまま一夜を部室で一緒に過ごそうよ」

「バカ言うんじゃありません」

「あだッ」


 何を言いだすかと思えば、突拍子も無いことを言うものだから迷わず頭を叩いた。


「そんなこと出来るわけないだろ」

「どうして?」

「どうしてって、お前、部室の鍵を返さないといけないだろ」

「ギリギリまで残る時はいつも顧問の先生は帰ってるし、運動部の先生って無頓着な人多いから大丈夫だよ」


 結構頻繁に残っている筈なのだがそういった情報は全然知らなかった。いつも彼女が鍵を返しに言っていたからであろう。

 それは全く大丈夫な要素ではないと思う。


「バレたら変な勘違いされるだろ」

「……どんな風に?」

「そりゃあ、お前……」


 恋人、とか。

 いや、それで済むだろうか。男女が一夜他に誰もいない場所で共に過ごすというのはどういう受け取られ方をするのだろう。夜の校舎に男と女という言葉にはそこはかとないいかがわしさを感じるのだが、どうなんだ。俺が意識し過ぎているだけなのか。


「別に私、君の言う「勘違い」をされても構わないけどなあ」


 艶やかな唇に色めかせた言葉を乗せて彼女は囁く。

 甘い言葉と谷木の女性らしい香りが、脳を溶かすようにじんわりと思考を侵食して、心にまで浸透してくる。


「……俺が構うんだよ」


 どうにか絞り出したその声は、彼女の音に比べてか細く力がない。

 そんな俺の様子に谷木は笑みを濃くした。

 彼女は椅子に座る俺の首元に両手を回し、そのまま膝の上に座った。拒絶とはいかずとも引き離さなければいけないとわかっていても、俺の体は意思とは別のところで硬直したままで動いてはくれない。触れ合う部分から彼女の柔らかさと微かな熱を感じる。


「嘘だ」


 耳元でそう囁かれる。ゾクリと甘い痺れが背筋を走った。


「馬鹿を言え、嘘なわけないだろ」


 困惑を隠して口にしたそれは精一杯の強がりだった。

 ……正直な話をしてしまうなら、突如としてこの部室に渦巻いたこの異様な空気に、麻薬のように脳を震わせる官能的なその香りに流されてしまいたいという気持ちはある。未だに降り続けている雨の音が既の所で理性を引き留めてくれていた。


「いったい、どういう心境でこんなことをしている」


 努めて冷静にそう言うと、回された腕の力が強くなった。


「好きだよ。京太くん」


 聞こえたのは質問に対する明確な回答とは言えないそんな返事。「だからどうした」と一言返してしまえばそれで終わるような答え。

 けれども、それは確かな実感を伴って心に落ちて来る。落ちて来て、大きな波紋を描き出す。

 歓喜と動揺。割合としては動揺が大きいか。確かな騒めきが身体の中を駆け回る。今の俺の顔はきっと真っ赤だ。心臓の高鳴りが勢いを増した。

 それでも思考だけは乱れることなく、こうしてはっきりとしているのだから不思議なこともある。


「俺は……」


 気恥ずかしさから言葉を選びあぐねて彼女の肩を両手で押して引き離す。

 谷木はいつも通りの余裕がありそうな顔でこちらを見ている。


「一先ず、離れてくれ」

「嫌だった?」


 そう言われて閉口する。


「嫌じゃなかったんだ」


 察しが良いのも困りものだ。笑顔を見せう彼女にそう思う。少しだけ顔が赤い。


「……いいから一回離れろ」

「えー」


 不満を声に出しながらも、渋々と言った表情で谷木は離れる。そのまま彼女は立ち上がって、腕を後ろに組んで拗ねたように窓際に近づいた。雨を見ているようだった。

 俺も立ち上がり、文庫本をカバンにしまった。それから、机に出しっぱなしにしていた文房具や原稿用紙も同様にしまうと、カバンのファスナーを閉めて、持ち手の部分を肩にかけるようにして持った。時計の長針は八時五十分を指し示している。


「帰るぞ」

「えええ! この流れで帰るとか言っちゃうんだ!」

「……当たり前だろ馬鹿女」

「ひどい!」


 鍵を持って部室の扉を開き、廊下に出てドタバタと慌ただしく荷物をまとめる谷木が出て来るのを待ってから鍵を閉める。

 時間もギリギリだから鍵を戻すのは明日の朝でもいいだろうと、不満そうな顔をする谷木を無視して急いで玄関に向かった。


「……ねえ、京太郎くん」

「なんだ」


 外靴に履き替えながら、玄関に着くまで拗ねて無言だった谷木が話しかけてくる。それに対して、靴紐を結びながら適当に返事をする。


「返事、聞いてないんだけど」

「……ああ」


 恐らく先程のことだろう。思い出したらまた胸の鼓動が早くなった気がした。

 数分前に谷木は俺に「好き」という言葉を放った。それに対して彼女は俺に返答を求めているのだろう。しかしながら、あれを告白というのは些か無理がある気がする。ムードは良かったが、酷く退廃的な香りがした。

 傘立てにあるビニール傘を取って、玄関を出る。雨はまだ止む気配はない。

 谷木と並んで傘をさして歩く。返答をしない俺に彼女はこちらの顔色を伺うでもなく、隣を黙って歩いていた。

 昔から察しが悪いとはよく言われていたがそんな俺でも彼処まで積極的に動かれて、それを冗談で済ませるほど鈍いわけではない。

 答えが決まっていないわけではなかった。ただ、部室で言われた時とつい先程答えを求められた時という絶好とも言えるタイミングを逃してしまったために言い出せなくなっているのだ。

 これも我が尊大な羞恥心の賜物か。答えるつもりでいるが、この調子ではいつ虎になってもおかしくはない。


「なあ、谷木」

「なに?」

「今日、俺を残したのってアレが目的だったのか?」

「そうだよ。寝ちゃったのは誤算だったし、膝にまで座るつもりはなかったけどおかげで言葉は自然と出たよ。かなり恥ずかしかったし、やっちゃったーって思ったけど」


 そう言いきって一呼吸置いてから「あと、どうせならいけちゃうところまでいこうと思ったんだ」と続けた。

 あまりにもあっけらかんとそんな返しをしてくるものだから、言葉を見失う。


「で、私まだ返事聞いてないんですけど」


 答えに窮する俺に唇を尖らせながら谷木は言う。その表情に現れた不満の色はいつまでも答えを返さない俺に対するものなのか。恥ずかしいことを言わされたことに対するものなのか。あるいはその両方かもしれない。

 どうやって言葉にすべきだろうか。答えが決まっていたとして、この心をどうやって表現すればいい。その言葉に豪奢な装いは不要か。それとも必要か。迂遠な言葉にすればいいか、否か。

 思えばこれまで俺が彼女に対して何かを素直に話したことは一度もなかった。それは気恥ずかしさから来る照れ隠しというよりも変な意地のようなものだった。

 足が止まる。谷木も数歩先で立ち止まってこちらを見た。似つかわしくもない不安そうな顔だ。


「ぶはッ」


 思わず破顔してしまう。笑う場面ではないことはわかっているのだが、どうにもいつも悪戯な表情をする彼女との差異にそんな顔をするならあんなことしなければよかったのにと、おかしさを感じてしまった。それと、愛おしさもだ。


「なッ! ど、どうして笑うの!」

「いや、はははッ。あまりにもその顔が似合っていないものだから、つい」

「失礼な! 私だってそれなりに勇気を出したんだからね!」

「わ、悪い。悪かったから怒らないでくれ」


 ぷりぷりと長い髪を揺らしながら、傘を投げ捨てるような勢いでこちらに詰めてくる彼女から慌てて謝りながら少し距離をとる。

 締めようとした空気がすっかり弛緩したのを感じた。さっきまで真面目に言葉を選んで悩んでいた自分が馬鹿らしく思えた。

 目の前の彼女はきっとどこまでも素直に言葉を紡いだ。何の捻りもない。全く物書きらしくないありきたりでロマンスも何もない、健全な想いから健全さを半ば放棄したような雰囲気の中放たれた面白みのない言葉。だからこそ愛おしい一言。

 ならその返事に飾った言葉も、迂遠な物言いも相応しくない。必要なのは陳腐な言葉だ。世界の何処かでいつも誰かが自然と口にする言葉だ。


「なあ、谷木」


 未だに弱まる気配を見せない雨の中、顔を赤くしてそっぽを向いて去ろうとする彼女に声を掛ける。


「なに。また馬鹿にするんでしょ」

「違う。いいから聞け」


 彼女はヴィットコップやラヴクラフトみたいな文章を俺が書くのを嫌だと言った。実はそれを彼女に言われたのは今日が初めてだったわけではない。

 それがどういう意味かなどということをこれまで考えたことはなかったし、これからも考えることはない。きっとそれに意味はない。あるとしたら、きっとただの我儘だろうから。

 そう言われ慣れてきた辺りから何も思わなくなったが、初めは怒ったものだ。ある意味で、ヴィットコップや彼女に近しい雰囲気の文章を当時の俺は理想だと思い込んでいた。


「お前の下手くそな告白に対する返事だ」

「言うに事欠いて、人を煽るようなことを言うのってどうかと思うんだけど!」

「意趣返しだ、ほっとけ」


 揺るぐはずのなかったその理想を震わせたのは他でもない谷木だ。土足で俺の居場所にズケズケと上がり込んできて、じめじめとしたモノトーンのように仄暗い風景に彩を足していったのは彼女だ。

 だから、俺は彼女の想いに真摯でありたいと思う。

 それに、雨が降るから少しだけ素直になれる気がしたのだ。捻くれた言葉も、飾り立てただけの安っぽい言葉でもない。少しの素直さで口から飛び出そうとするそれは小説書きとしては失格だが、それでもやはりそのありふれたよくあるセリフを彼女に伝えようと決めた。

 彼女の非難の言葉を遮るように、雨音にかき消されてしまわぬように声を出す。


「お前が好きだ」


 そうして口にした言葉は、やっぱり告白の言葉としては想像し得る限りのものの中で最も単純で、わかりやすい。表現者として、いや、彼女への告白の言葉をこねくり回して格好つけようとしていたちんけな自尊心故に恥ずかしさを感じる。

 明確なこの言葉こそ、彼女へ告げるべき一番大切な言葉であることをずっと失念していた。とんだ李徴擬きである。

 言葉に不要な繕いなどいらない。伝えるべき言葉を違えなければ、それは相手に届かないわけはないのだ。


「……うん、うんッ」


 谷木が強く頷く。珍しく不安気にしていた顔が、初めて俺に怒っていた顔が、桜の木が花びらをつけるように鮮やかに色付いていた。

 今日は随分と彼女の知らない顔を見る。この先も、沢山そういう表情を見ることになるのだろうか。


「照れ臭いね」

「……まあな」


 改めてそれを言われるとしっかりと顔が熱くなるからやめてほしかった。

 二人共すっかり照れてしまって、一頻り照れて落ち着くまでの間お互いの顔をよくみることができなかった。

 

「ここで雨でも止めば、ロマンチックなんだけどね」


 落ち着いてしばらく歩いてからふと、谷木がそんなことを言う。言葉の割に残念そうな感じはしない。


「いや、止まないからいいんだろう」

「それもそうかも」

「……ああ」


 谷木が存外あっさりと引き下がるものだから、俺もそれ以上は何も言わなかった。

 空は曇天のまま、星すら覗かない雨天模様。それでも、わざとらしい月明かりにに照らされるよりはずっといい。


「好きだよ、京太くん」


 突然、谷木が確かめるようにそう口にした。

 果たしてどう返したものか、と一瞬だけまた悩むがすぐに答えは出た。


「俺も、お前が好きだよ」


 言うと、谷木の肩が少し揺れた。顔は俯きがちで少し赤い。部室でのあの勢いはどこに捨てて来たのだろう。もしかしたら、本当にノリに乗ってしまっただけなのかもしれない。

 谷木の以外に初心な反応を見て、これからどれだけこの言葉を口にするのだろうかと思う。これからどれだけ谷木と一緒に居られるのだろう。すごく気になるがその答え合わせはまだ当分先で良いと結論付けた。

 間違いないのは書きかけの小説は暗い世界にほんの少しだけ色を足したような結末を迎えるだろうし、俺と谷木の関係は恋人という名前が付くだけできっと劇的に変化するわけではないということだ。

 劇的ではなくゆっくりと、知らないうちに、彼女の色が俺の世界に増えていく。

 どうせだし、雨が降るからもっと素直になってみようと思う。流れる雨水が心をサラサラと流すから、今日はそれぐらいでちょうどいい。

 変わっていく自分を愛せるように、彼女が付けてくれた色を愛せるように……


「涼子のことが好きだ」


 一歩だけ、勇気を出して前進する。

 パチクリと目をしばたかせる谷木はやっぱりいつもと違う表情をしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨が降るから。 高橋鳴海 @Narumi_TK

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ