1章⑤



「お母さん、助けて!!」


 宮子の叫び声に呼応するかのように、突如として下から旋風が巻き起こった。

 風圧で浮き上がった体を、誰かに抱きとめられる。

 沙耶の手を固く握っていた指を一本一本やさしくほどかれ、代わりにひんやりとしたものを手のひらに置かれる。握り慣れたこの形は、さっき落ちていったはずのまがたまだ。

 ──あなたは、まだよ。

 聞き覚えのある声で、宮子は我に返った。

 目を開けると、一面に曇天が広がっている。背中には堅いコンクリートの感触。

 宮子は屋上で、大の字になって倒れていた。意識が体に戻ったのだ。

「サーヤ、サーヤは?」

 宮子はあわてて起き上がった。

「上だ!」

 寛太の声に頭上を見ると、そこにはたてがみをなびかせた白銀の龍がいた。

 大きな龍は宮子たちをちらりと見ると、うろこをきらめかせながらしなやかに動き、頭をこちらに向けて止まった。

 龍の頭から、沙耶がひょこりと顔を出す。

「龍に乗せて連れていってくれるんだって! ……宮子、ありがとう。ホントに」

「サーヤ!」

 言いたいことがたくさんあるはずなのに、言葉が出てこない。代わりに、宮子は両手を大きく振った。沙耶があちらでいつも笑っていられるように、と祈りながら。

 ──一緒に過ごしたこと、ずっとずっと忘れないよ。大好きな、私の初めての友達。

 別れを惜しむように手を振り返してくれる沙耶の後ろに、白い衣を着た女の人が現れた。ふと、長い黒髪が風になびき、その女性の顔があらわになる。

 ──まさか。

 一日たりとも忘れたことのないあの顔、なつかしい微笑ほほえみ方は──。

「お母さん!」

 宮子の声が届いたかどうかもわからないうちに、龍が動き始め天へと昇っていく。

 沙耶と母を乗せたその姿は小さくなり、光る雲の中に入ると、見えなくなってしまった。

 光を放っていた雲が暗くくすんでいき、風に吹かれてほどけ、空と同化する。

 その様子をじっと見上げていた宮子は、緊張が解けてぺたりと座り込んだ。

「なんだか、すごく眠い……」

 寛太が、あわてて隣にしゃがみ込む。

「おい、大丈夫か? 待て、こんなところで寝るなって。おい」

 薄れかけていく意識の中で、父の声が聞こえた。

「宮子、寛太君、無事か!」

 洗濯物にはばまれて見えないはずなのに、父が迷うことなくこちらへ走って来るのがわかる。白いシーツを搔き分け、紫のはかまをひるがえしながら。

 ──お父さんも、龍に乗ったお母さんを見たかなぁ。



 翌朝早く、よしに戻るげんさいかんを、みやは父と一緒に見送った。

 昨日、宮子はあのまま屋上で眠り込んでしまい、父に背負われて家に帰ったらしい。目が覚めたのは真夜中。怒られるのを覚悟でまだ起きていた父のところへ行ったが、「明日、五時に玄斎様と寛太君を見送るから、宮子も早起きするように。おに入ってもうひと眠りしなさい」と言われただけだった。

 父は、事の次第を寛太から聞いたようだ。宮子が謝ると「友達のためを思うのはいいことだ。でも、もう少しお父さんのことも信用してほしかったな。……まあ、宮子も成長した、ということか」と、寂しそうに笑った。

 お風呂に入ってからさらに眠ったのに、宮子はまだ体のだるさが取れなかった。対して、玄斎の後ろに控えている寛太は、大きな荷物を背負いながらも疲れた様子はじんもない。

「さて、力を抑えるはどうしますかな」

 じゆを右手に持った玄斎が、宮子の正面に立つ。宮子ははっきりと言った。

「これからは、自分の力を受け入れていこうと思います」

「そうか。自分でそう決めたのじゃな」

「はい。……玄斎様、今まで私の力を抑えてくださっていたのは、何か理由があったのでしょうか」

 玄斎が父の方を見る。父は言いにくそうにしていたが「知っておいた方がいいだろう」と口を開いた。

「小学一年生のころ、お母さんが死んだ後にな、宮子はにせもののお母さんをつくっていたんだ」

 一瞬意味がわからなくて、ぽかんとする。

「チベットのタルパに近いかな。誰かの姿形や性格、言動を詳しく想像して現実世界に重ね合わせて動かしていると、その人が実体を持っているみたいに目の前に現れて、会話もできるようになるというものだ。宮子は『お母さんが生きていたら』とこくめいに想像するあまり、お母さんのタルパ、人工霊体を創り出してしまったんだ」

 言葉を失う宮子に、玄斎が続けた。

「自分で制御できているうちはいいんじゃが、暴走すると意識を乗っ取られることもある。言うことを聞かなくなった人工霊体のことを『怖い』と思うと、『お母さんの顔をした化け物』になってしまう。まだ小さい宮子君にそんなものは見せたくなくてな。お父さんと相談して、もっと成長するまでは霊力を抑えることにしたんじゃよ」

 そういえば、遺影の前で母に語りかけていたら、本物の母が答えを返してくれたように思ったことが何度もあった。あれは、自分自身が創り出した幻像だったのか。

 しょんぼりしている宮子に、玄斎が言う。

「まずは、大切な人の死を受け入れることじゃ。その上で、心の中のお母さんをいとおしみ、共に生きなされ」

 はい、と答える宮子の頭に、玄斎がじゆで軽く触れる。

「これはお守りの加持じゃ。正しく物事を見ることができるように」

 ふっ、と体が軽くなり、視界が鮮やかになる。空気の流れまでもが目に見えるようだ。「しようじんなさいよ」という言葉に、宮子は力強く「はい」と答えた。

 寛太が近づいてきて、気まずそうにささやく。

「言っとくけど、調ちようぶくほうの件はハッタリだからな」

 母親を殺した犯人を呪うために、修法を研究していると言ったことだ。

「殺してやる!」と叫ぶ寛太のがった目と、を送るのを手伝ってくれたときのやさしいまなしが、同時に浮かぶ。

 母親を殺されるというこれ以上ないくらいつらい経験をへて、彼は玄斎に弟子入りし修行を積んでいるのだ。子どもらしい楽しみや気ままさを捨て、相当な覚悟で憎しみを手放し慈悲の心を育てる。よく考えたら、とても普通の小学六年生にできることではない。少なくとも宮子には無理だ。

 霊力のせいで友達ができないだの生きづらいだのと悩んでいた自分に比べると、なんてすごい子なんだろう。宮子の中で、彼に対する嫌な印象が一気にひっくり返っていく。

「うん、ちゃんとわかってる。……昨日は助けてくれてありがとう。感じ悪いやつだって誤解しててごめん、ホントはやさしいんだね」

 ずっといかめしい顔ばかりしていた寛太が、戸惑ったようにまばたきを繰り返し「いや、ぎようは修行のうちだし」と口ごもる。

「修行がんばってね。鈴子が、アニメ録画しとくから絶対また来てねって言ってたよ」

「ん。サンキュ。必ず来るよ。鈴子ちゃんによろしく。お前も、がんばれよ」

 寛太が一瞬だけ笑って、小さく手を振った。つくろったところのない素の表情だ。

 ようやく自分にも笑顔を向けてくれたことがうれしくて、少しだけ胸がドキリとしてしまった。

 玄斎と寛太が一礼し、砂利を踏む音を響かせながら出立する。ちょっとくらい振り返ってくれないかなと思いながら、宮子はその背中を目で追う。一の鳥居を出た玄斎と寛太がこちらを向いて深々と礼をし、道路向こうへ消えるまで、宮子はじっと見送り続けた。

「さて、私はこのままちようはいする。宮子はもう一度寝てきていいぞ。まだ五時だ」

「……今日は、私も一緒に朝拝してもいいかな。サーヤのためにお祈りしたいの」

 宮子が言うと、父は穏やかにうなずいた。

「じゃあ、沙耶ちゃんのためにきちんとお祈りしようか」

 幽世かくりよの沙耶のために、祈りたかった。そして、次は一人でも、大事な人を助けられるようになりたい。

 気持ちを引き締めて、宮子は社殿に入った。ひんやりとした空気の流れに、額の中央がうずく。おやしろの奥に「いらっしゃる」のをはっきりと感じる。

 しん前の、信者が参拝する畳の間に座って宮子が待っていると、かりぎぬを着てをかぶった父が入ってきた。宮子の前に座ると、居住まいを正して言う。

「ただいまより、みずやのひめのみことたままつりをご奉仕させていただきます」

 立ち上がった父が神祠前へと進んで座る。宮子も失礼のないよう父の所作をしっかりと見て、お辞儀の角度まで合わせる。

 毎日のように親しんでいたはずの祓詞はらえことばが、初めて意味を持ったものに聞こえた。


けまくもかしこ伊耶那岐大神いざなぎのおおかみ



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まほろばの鳥居をくぐる者は 芦原瑞祥/ビーズログ文庫 @bslog

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