1章④


 目が覚めると、みやは知らない家に迷い込んでいた。

 薄暗い廊下の先に、扉の開いた部屋がある。のぞいてみると、電気はいておらず、ぼんやりと明るいカーテンが見えた。ぞろいなまるい柄が、外から照らされてシルエットになっている。それにしても不規則な水玉模様だなと、宮子はカーテンを凝視した。

 それは水玉模様ではなく、血しぶきだった。

 模様と勘違いするほど、カーテン中に飛び散っている。

 床は一面の血の海だ。その中に、女の人がうつ伏せに倒れている。

 かたわらには、少年が座り込んでいた。泣くことすらできず、表情を失った顔でくうを見つめている。かんだ。

 廊下から足音がして父親らしき男の人が現れた。彼は目を見開いて硬直し、我に返ったとたん、絶叫した。走り寄ろうとして血で足が滑り、床に倒れ込む。

 服を血で汚しながらっていき、女の人を抱き上げた。が、切られた首の傷のせいで、ウェーブのかかった長髪の頭が不自然に垂れ下がり、男の人はまた叫ぶ。

 その声を聞いても、寛太は動かない。眉ひとつ動かさない。

 場面が急に切り替わった。

 包丁を持ち、裸足はだしで玄関を飛び出す寛太を、父親が追いかけている。門の手前で、父親が寛太を抱き止めた。その腕を振りほどこうと、寛太が大声で叫びながら暴れる。

 がった目に浮かぶのは、これ以上ないくらい強い怒り。父親は自分の手が傷つくのも構わず、息子の手から包丁を奪い取って庭の植え込みに投げた。

 武器を奪われた寛太は、それでも必死でどこかに行こうと前進しながら、繰り返す。

『殺してやる! 殺してやる!』

 父親は泣きながら、何度も何度も寛太の名前を呼び続ける。開け放たれた玄関の奥から、テレビの音声が漏れ聞こえてくる。

『繰り返します。先ほど、大阪主婦強盗殺人事件の犯人が逮捕されました。犯人逮捕、犯人逮捕です』


 再び目が覚める。今のは夢だったのか。

 すぐに状況がめず、みやはあたりを見回した。カーテンの向こうがほんのりと明るくなっている。黄緑色の無地のカーテンで、もちろん水玉模様はない。

 時計は五時を指していた。夢のせいで、まだ心臓がどきどきしている。

 口の中は苦いままだ。

 昨日、かんが作った光の粒を口にしたから、あんな夢を見てしまったのか。ということは、あれが寛太の母の「よくないくなり方」なのだ。血の海に横たわる女性を思い出して、宮子はぞくりとした。

 起き上がって寝汗を拭きながら、カーテンを開ける。サッシの鍵に手をかけようとして、境内の木の下に寛太が座っているのを見つけた。

 けつの姿勢でめいそうしている。母親をこうするためだろうか。

「どうしようもないじゃないか!」という昨夜の彼の叫びがよみがえる。夢の中で見た、忿ふんそんのようながった目も。

 宮子に対してだけ無愛想だった彼の態度に、ようやく納得がいった。

 気づかれたくなかったのだ──心の壁の向こうに隠したぞうを。霊力のある宮子なら、こんな形で共鳴して、見ることができてしまうから。

 そっとカーテンを閉める。泣けない寛太の代わりなのか、涙がにじんでくる。

 寛太にとっては、何の落ち度もなく強盗に殺された母親と、義父に殺されて幽霊になってしまったとで、重なるものがあったのだろう。だから、早く天へ送ってあげることにこだわっていたのか。

 沙耶のことも寛太のことも、自分は何もわかっていなかった。

 宮子はカーテンを握ったまま立ち尽くした。


 朝食をすませた寛太が、で白衣の手洗いをしている。洗濯機を貸そうかと言っても、「これも修行のうちだから」と断られたのだ。

 昨夜のことを謝ろうとしたが、寛太は「今、洗濯中」と宮子の言葉をさえぎった。ちらりと見せた弱さを「なかったこと」にしたいのだろう。

 肩まで袖をまくった彼の左腕に、茶色く変色したきずあとが何本もあるのが目に入る。自分で自分を切りつけたのだろうか。

 痛々しさに目をそむけながら、宮子は家族の分の洗濯物を洗濯機に入れた。

 ベランダで洗濯物を干しながら空き地の方を眺めるが、屋根にはばまれてほとんど見えない。

 昨日、「また明日」と約束したのに、このまま父に祀られてしまっては、沙耶も納得できないだろう。でも、どうすればいいのか、まだ心が定まらない。

「宮子」

 階段下から父の声がした。

「隣町の信者さんがくなられたから、出かけてくる。さいの打ち合わせもあるから、昼過ぎに帰る。たままつりはそれからだ」

 玄関まで父を見送ると、今度は寛太が来た。

ろうのところへ行ってくる。また握り飯を作るから、昼前に炊飯器を貸してくれないか」

「うん、わかった。いってらっしゃい」

 を履きこんごうじようを持って、寛太が出ていく。これで家には、宮子とすずだけになった。

 沙耶に会うなら今しかない。とにかく行こう。

 テレビをている鈴子に気づかれないよう、宮子は玄関に向かい、ガラガラと鳴る引き戸をそっと開け閉めした。社殿に一礼してから、砂利道を走る。

 空き地に着いて、宮子はがくぜんとした。

 四隅の棒に、いみだけがくくりつけられている。のついたなわも張られ、強力な結界を形作っていた。

 ──お父さんだ。

 空き地に入り、正方形の結界に歩み寄る。前はつぼが埋まっていたはずなのに、ただの更地だ。もう、沙耶は封じられてしまったのだろうか。

「サーヤ……」

 せみ時雨しぐれが宮子の声を搔き消す。結局、何もできないどころか、さよならさえ言えなかったなんて。ぼうぜんと立ち尽くしていると、かすかな音がした。

 ぼこり。

 結界内の土が割れ、人の頭が出てきた。

 あのオレンジ色の髪飾りは、沙耶だ。目の下まで出たところで、動きが止まる。れぼったいまぶたで白目をむき、宮子をにらみつけている。

「サーヤ。ごめん、こんなことになって。あの……」

 何と言えばいいのかわからない。沙耶の頭がさらに出て、首まで現れる。唇が、れているように赤い。

「宮子、あんたのこと友達だと思ってたのに。父親に告げ口して、あたしをあっちへ送ろうとするなんて」

 沙耶の目が、不自然にがる。

「ちが……、確かに、サーヤが自然霊に乗っ取られちゃう前に、あっちの世界へ行った方がいいと思うけど、これはお父さんが……」

「ほら、やっぱりあたしをこっちの世界から追い払いたいんじゃない!」

 裂けているかのように大きく開いた口で、沙耶が叫ぶ。昨日とはまるで別人だ。怖さで足がすくむ。

「私、サーヤのためにできることがあれば、協力したいの。未練をなくせば、あちらで幸せになれると思うから」

「宮子。あんたって本当に、苦労知らずのイイ子チャンね。あたしは幸せになんてなりたくないの。不幸でみじめなこの姿を、ママに見せつけてやりたいのよ。ママのせいでこんなになったんだ、どうしてくれるのよって」

 沙耶が土の中から両手を出し、胸のあたりまでがってくる。

「久しぶりに会えたのに、ママったら、あたしのこと見て逃げ出したのよ! 顔をくしゃくしゃにして『迷わずじようぶつして』なんて言って。認めたくないことから逃げるのは、昔とちっとも変わってない。だから、追いかけて、何度でもこの姿を見せてやるの」

 下手な同情は相手のためにならない、という寛太の言葉が重くのしかかる。

 自分は甘かったのだ。友達のためにと思いながら、結局は自己満足で、沙耶のふくしゆうしんに火をつけてしまった。

「そうだ、宮子。協力したいって言うんなら、体を貸してよ。あたし、どうしてもママのところに行きたいの。このままじゃ気がすまない」

 腰まで出てきた沙耶が、地面に這いつくばってこちらに手を伸ばす。結界を出ることはできないはずだが、宮子は思わず後ずさった。

「お姉ちゃん、電話だよー」

 鈴子だ。どうしてここがわかったのだ。振り向くと、妹がすぐそばまで来ていた。

「鈴ちゃん、だめ。一緒に帰ろう」

 あわてて駆け寄ったが、鈴子は宮子の手をすり抜けて、結界の方へ近づいた。

「なに、これ。お父さんのバサバサぐしと同じのがついてる」

 鈴子が紙垂に触ろうと手を伸ばす。

「鈴ちゃん!」

 鈴子の肩をつかみ、引き戻そうとする。が、一瞬早く、鈴子の指が結界内に入ってしまった。それを、沙耶がすかさずつかんで引っ張る。

「いやあ、痛い、痛い!」

 指を引っ張られた鈴子が泣く。

「案外強そうだし、この子でいいわ。宮子、手を離して」

 宮子は必死に鈴子の体を抱きとめた。絶対に、渡してはいけない。

「痛いよう。指がとれちゃうよう」

 鈴子が泣き叫ぶ。宮子は結界に腕を突っ込み、沙耶の手を振りほどこうとした。

「やっぱり、あんたの方がいい」

 沙耶が素早く鈴子の指を離して、宮子の手首をつかむ。骨が折れるかと思うほどの痛みが走った。

「鈴ちゃん、お父さんを呼んできて!」

「でも……でも、お父さん、どこ~?」

 鈴子が泣きじゃくる。そうだ、父は出かけていたのだった。

 沙耶の力は強く、必死で踏ん張っても結界の中へと引き寄せられていく。長くはもたない。どうすれば……。

 誰かが走ってくる足音がする。寛太だ。彼は気合と共に、こんごうじようで沙耶の手を打った。

「ぎゃあっ」

 沙耶の手が離れる。宮子は反射的に手を引っ込めた。握られたところが、赤黒く変色している。

「なにするのよ、このくそボウズ!」

「ああ、来週にはぼうになるさ。お前こそ、自分ばかりあわれむのはよせ」

 寛太が立ちはだかって、宮子と鈴子を隠す。

「うるさい、あんたなんかにわかるもんか。義理の父親にひどい目にわされて、それなのにママは、あたしよりあいつを信じた上に、あたしをつぼの中に隠した。おまけに、この姿を見て逃げ出したのよ! 絶対に許さない。追いかけて、追い詰めて、泣きながらびさせてやる。ママも同じくらい不幸になればいいんだ」

 沙耶の大きな口がゆがみ、皮肉めいた笑みを浮かべる。

「そうか。それは悔しかっただろう。……じゃあ、お前の望み、かなえてやろうか」

 寛太が低い声で言う。後ろ姿だから、表情は見えない。

ぎようじやの修するに、調ちようぶくほうというのがあってな。昔から、敵を呪い殺すのに使われていた。現代でも、一般に知られていないだけで裏ではよく行われている。呪われた相手は、病気で衰弱したり事故に遭ったりして、死に至る」

 みつきようにそのようなしゆうほうがあることは、漫画で読んだから宮子も知っている。しかし、かなりの修行を積み、そうに認められた者以外には秘されているはずだ。

「俺にも、呪い殺したいやつがいてな。まだ法は伝授されていないが、自分なりに調べた。見よう見まねなら、修することができるぞ」

 沙耶が動きを止めて、寛太を見上げる。

「呪いたい相手の住所と名前、生年月日がわかればいい。さあ、母親の名前は?」

 沙耶は唇をんだまま、一言も発さない。

「どうした、名前だよ。……そうか、義理の父親の方を先にやってほしいか。じゃあ、二人まとめて呪ってやるよ。ほら、名前は?」

 上目遣いに寛太を睨んでいた沙耶が、眉根を寄せて目をそらした。その表情はどこか、かなしそうにも見える。

 寛太が小さくため息をつく。

「お前、本当は、母親を呪いたいわけじゃないだろう。母親が今までのことをびて、今度こそ自分を愛してくれるんじゃないかと期待しているんだろう」

 沙耶がうつむいて顔を隠す。

「憎めないんなら、もうゆるしてやれよ」

 寛太がこうみようしんごんを唱え始めた。異国の音楽のような調べが、空き地に響き渡る。

「やめて、やめてよ! 赦したりなんかしたら、あっちへ行ってしまったら、もうママに会えなくなっちゃうじゃない……。やめてってば」

 沙耶の肩が、小刻みに震える。

「あたしはただ、ママに会いたかっただけなのに、ママが逃げたりするから……」

 真言を何回か唱えた寛太が、宮子に耳打ちする。

「このままそっとしておこう。あとは、かんちようさんにお任せすればいい」

 寛太が鈴子を連れて、神社へ戻ろうとしている。けれども、宮子は動けなかった。

 ──本当に、これでいいの? 私がもしサーヤだったら……。

 宮子は、沙耶の周りを囲うなわをほどきにかかった。

「バカ、よせ! 結界が破れる」

 寛太があわてて駆け寄ってくる。

「破ってるのよ!」

 寛太に手を押さえられる。

「ここにとどまっても、余計に苦しむだけだろう。あちらに送ってやった方が、こいつのためだ」

 宮子は寛太の手を振りほどき、正面からその目を見据えた。

「ホントにそうなの? 自分の目で見たの?」

 寛太の動きが止まる。

「お父さんだって言ってた。死んだことがないから、自分にも本当のところはわからないって」

 宮子の剣幕に押された寛太が、目を丸くしてこちらを見ている。

「あっちに行った方が楽になるのに、サーヤがこの世にとどまっていたのは、理由があるからでしょ?」

 宮子は、視線を寛太から沙耶に移した。

「それだけ、お母さんに会いたかったのよ。恨むとかそんなんじゃなくて、もう一度『沙耶』って呼んでほしくて、抱きしめてほしくて、そのおもいだけで何年も待ってたんだよ。……わかるよね、その気持ち」

 寛太の目が泳ぐ。

「お願い、何も知らなかったことにして」

 宮子は、再びなわを解きにかかった。

「ひとつ聞く。結界を破って、どうするんだ?」

 沙耶に聞こえないよう、寛太が小声でささやく。

「お母さんに会わせる。最近、骨折して救急車で運ばれたって聞いたから、市内の総合病院にいるはずよ。捜せば見つけられると思う。……私が一緒にいれば、サーヤを外に連れて行けるんでしょ?」

 縄をそうとして爪先を激しく引っかけてしまい、宮子は悲鳴をあげて指を押さえた。再び縄に手を伸ばそうとすると、寛太が割り込んでくる。

「貸せ。コツがある」

 意外な手助けに、寛太の横顔をまじまじと見つめてしまう。彼の額から流れる汗があごまで伝うより先に、なわがゆるんだ。

「よし」

 寛太がほどけた縄を手繰って、いみだけを引き抜いた。宮子も、反対側の縄を持ち、竹を引き抜く。紙垂のついたなわを地面に置くと、寛太と目が合った。彼は小さくうなずき、沙耶の方を顎でしゃくる。

 結界から解放された沙耶に、宮子は駆け寄って手を差し出した。

「サーヤ。……会いに行こう、お母さんに」

 赤くれぼったい目で、沙耶が宮子を見上げる。もう一度手を差し出すと、ようやく手を取ってくれた。指が氷のように冷たい。

 宮子が引っ張ると、腰まで埋まっていた沙耶の体は、すんなりと地表に出てきた。

「ママ……」

 その顔は青ざめ、心なしかふらついている。結界が強かったから、力を奪われてしまったようだ。

「お姉ちゃん」

 妹が、寛太の後ろに隠れてこちらを見ている。宮子と寛太の霊視能力に同調しているのか、今は鈴子にも沙耶を知覚できるらしい。何もないところから突然人が現れたように見えるのだから、驚くのも無理はない。

「鈴ちゃん。お姉ちゃん、友達と出かけてくるね。家に帰ってお留守番してて」

「やだ、鈴子も行く!」

 おびえて寛太の足から離れないくせに、がんとして帰ろうとしない。

「お願い。家でお父さんが帰ってくるのを待ってて。お姉ちゃん、大事な用があるの」

「やだ!」

 途方に暮れていると、寛太が鈴子の前にしゃがみ込み、芝居がかった声で言った。

かしわ鈴子隊員をこれより少佐とし、通信部主任に命ずる!」

 寛太がアニメのをして敬礼すると、鈴子も勢いよく敬礼を返した。

「いいかい、この任務は、全員のチームワークがあって初めて成功できる。鈴子少佐は、通信部主任として、管長さんにメッセージを伝えるという大事な役目を任されたんだ。できるだろ?」

「はいっ!」

 とびきりの笑顔で、鈴子が答える。寛太が「お前もうまく話を合わせろ」とばかりに宮子を目で促す。

「えっと……鈴子少佐、これより帰宅し、我々があおがき総合病院に向かったむね、管長に報告すること」

 戸惑っている鈴子に、わかりにくかったか……と宮子はくだいて言い直す。

「家に帰って、お父さんに『お姉ちゃんたちは青垣総合病院に行きました』って伝えて」

 ようやく理解した鈴子が、宮子に向かって敬礼する。

「はい! お父さんに、アオガキソーゴービョーインに行きましたって伝えます!」

 地面に置いておいたこんごうじようを手に取り、寛太が後を引き受ける。

「よし。では、各自任務に当たれ」

 家の方へと走り出す鈴子を見て、宮子はあんのため息をついた。

「ありがと。子どもの扱い、上手なんだね」

「お前だってまだ子どものくせに。同じ目線でものを考えた方が、話は早いぞ」

「アニメが好きってこと?」

「仲間はずれは嫌ってことだ」

 寛太が、沙耶の方をちらりと見る。

「大分しようもうしているな。タクシーで行こう」

「じゃあ、お金を取ってこなきゃ」

 宮子が言うと、寛太は首から下げたお守り袋を手繰りよせ、中の一万円札を見せた。

おやがな、つらくなったらいつでもこの金で帰ってこいって、持たせてくれたんだ」

「そんな大事なお金……」

「見くびるなよ。俺は絶対、しっぽを巻いて逃げ帰ったりしない。だから、この金は別のことに使う」

 走り出そうとする寛太を、宮子は呼び止めた。

「あの……ありがとう、本当に」

 振り返った寛太がかすかに苦笑する。

「あれだけ必死になられたら放っておけないだろ。そいつのこと泣かせたままじゃ、後味も悪いし。……三輪駅のタクシーを回してくるから待っててくれ」

 走り去る寛太の背中を見送ると、宮子は沙耶を気遣いながら、道路際まで慎重に歩いた。

「宮子、ごめんね。あたし、宮子にひどいことしたのに……」

「いいって、いいって」

「どうしても、ママに会いたかったんだ」

「うん。……疲れるから、もうしゃべらない方がいいよ」

 エンジン音がしてタクシーが現れた。助手席に寛太が乗っている。ドアが開くと、沙耶を後部座席の奥に座らせ、宮子も続いた。

 タクシーが目的地へと走り出す。運転手は自分たちのことを、入院中の親の元へと急ぐ子だと思っているのだろう。子どもだけでは駄目だと乗車拒否されなくてよかった、と宮子は思う。

 十分ほどで、青垣総合病院の玄関前に到着した。先に行けという寛太に支払いを任せ、宮子は沙耶を連れて車を降りる。

 案内板によると、外科病棟は五階だ。エレベーターを探し、ボタンを押して待つ。ちょうど扉が開いたところで寛太が追いついた。

 ようやく五階に着く。建前上面会はナースステーションで記名しなければならないが、大半の人は素通りだ。宮子たちは平静をよそおって通り過ぎる。

 寛太が沙耶に母親の名前を聞いて名札を確認して回り、奥から二番目の病室前で手招きをした。やはりここに入院していたのだ。

「サーヤ、もうすぐ会えるよ」

 だが、沙耶は急に立ち止まった。

「……やっぱり、怖い。また逃げられたら、どうしよう」

 大丈夫だよ、と言おうとして、宮子は言葉をんだ。

 確かに死んだはずの沙耶が会いに来たら、母親は自分が恨まれていると思い、おびえるだろう。それだけのことをしてしまったのだから。

 ためらっていると、寛太がこちらに来た。

「水野さん、で合ってるよな」

 母親の名前を確認されて、沙耶が小さくうなずく。

「六人部屋だけど、二人は寝ているし、三人は留守だ。今のうちに」

 しかし、沙耶は力なく座り込んでしまった。

「いい。やっぱりいいよ。ママに嫌われたくない。また『幽霊だ!』って怖がられるのは、いや」

 そうか、母親が沙耶を怖がったのは「幽霊」だからだ。

 母親も「見える人」なのだと、沙耶は言っていた。それならば。

「サーヤ、私に任せて。お母さんが、絶対怖がらないようにするから」

 不安げに見上げる沙耶に、宮子は思いついた計画を話した。


 の母親は、間仕切り用のカーテンを足首のあたりまで閉めて、まどぎわのベッドに寝ていた。頰がやつれたその女性は、目袋と、ぽってりした唇が、沙耶によく似ている。

 宮子は静かに部屋へ入ると、ベッドの脇に座り込んだ。

 気配を消して窓際まで進んだ寛太が、そっと遮光カーテンを閉めてベッドの陰に座る。廊下から光は漏れるが、これならかなり薄暗い。

 沙耶がためらいがちに入ってきた。ベッドの正面に立ち、母親の寝顔をそっと見つめる。

「ママ」

 沙耶が声をかける。母親のまぶたが動き、ゆっくりと開く。

 宮子は全神経を集中させて、光の粒を集めた。

 母親が、はっと息をむ音が聞こえる。

 ベッドの向こうに立つ沙耶に、目を奪われているのだろう。

 純白に輝く羽を背中に生やし、頭に金色の輪をつけた娘の姿に。

「沙耶……」

 宮子はこっそりと沙耶の母をのぞき見た。その表情に、おそれやおびえはない。

 沙耶の背後から金色の光が放射状に放たれて、さらにこうごうしさを増す。そこまではデコレーションしていないのにと思っていると、けつの姿勢の寛太が合掌している。力を貸してくれているのだ。宮子も負けじと翼を広げ、沙耶を美しく飾り立てた。

 沙耶の母親の目から、涙がこぼれ落ちる。彼女は起き上がり、ぬかづくように頭を下げた。

「ごめん、ごめんね。こんなママで、ごめん」

 泣きながらび続ける母親を、沙耶が戸惑い気味に見ている。眉根を寄せ唇をむ顔に浮かんでいたわずかな怒りは消え、次第に泣くのをこらえるかのような表情になる。

 言い表すことのできない感情をすべて吞み込むように、ていかんの表情を浮かべた沙耶は、やがて穏やかに告げた。

「もういいよ、ママ」

 顔をあげた母親に、沙耶が微笑ほほえむ。母親はギプスのはまった右足をかばいながら、おずおずと近づいて沙耶へと腕を伸ばした。

「沙耶」

 母親は、ためらうことなく沙耶を抱きしめた。

「……ママぁ!」

 ずっと堪えてきたものがせきを切ったかのように、沙耶も夢中で母親に抱きつく。大人びていた沙耶の顔が涙でくしゃくしゃになり、小学生の女の子のそれに戻る。

 抱き合う二人をはさんで、宮子と寛太は顔を見合わせ小さくうなずいた。

 しばらくして、母親は睡眠薬でも飲んだかのように眠りに落ちた。

 けつを解いた寛太が立ち上がる。

「無意識とはいえ霊視能力を使いすぎたからな。疲れて寝ているだけだろう。心配ない」

 沙耶が涙を拭いて、こくりとうなずく。

「ありがとう、二人とも。これでもう思い残すこと、ない」

 そう言ったとたん、沙耶は体をびくりとさせ、ほうけたようにくうを見つめた。

「サーヤ、大丈夫?」

「ん……。上に行きたい。行かなきゃ」

「上? 上って……」

 突然、沙耶が我に返って走り出した。先ほどまでの弱々しさがうそのようなしっかりとした足取りで、病室を飛び出す。宮子と寛太もあわてて後を追った。

「何? サーヤ、急にどうしたの?」

 寛太が横に並び、息ひとつ乱さずに言う。

ゆうだ。思い残すことがなくなったから、行くべき場所へ行こうとしているんだ」

 階段を駆け上がっていった沙耶に続いて、屋上への扉を開ける。強風にはためく洗濯物をけて進むと、沙耶が空の一点を見つめて立ち尽くしていた。

 視線の先を追うと、どんてんの中にひとつだけ、低い位置に漂う白い雲がある。その雲は、内側からまばゆいばかりに光り輝いていた。

「あそこに行きたい」

 振り返った沙耶が、白い雲を指さす。

かんちようさんを呼んでくる」

 引き返そうとする寛太に、沙耶が首を振る。

「ううん、宮子に送ってほしい」

 こんごうじようを地面でコツンと鳴らし、寛太が言う。

「無理だ。集中力が養われていない素人しろうとがやるには、危険すぎる」

「やだ。宮子がいい。それにもう時間がない」

 沙耶の身体からだがうっすらと透けて見える。光る雲も風にあおられて、ふちの方がわずかにほころび出した。

 今、沙耶を天へ送らなければ手遅れになるのだ、と宮子は直感した。

 沙耶は七年半もこの世にとどまり、しかもこの数日でかなり無理をしている。もう自分の力では天にあがれないほど弱ってしまったのだ。

 宮子は拳を握りしめ、心を決めた。

「私、やる。さいは心が大事なんだって、前にお父さんが言ってた。だったら、友達の私しかいないでしょ。サーヤは初めてできた友達なんだもん。絶対に送り届けてみせる」

 宮子と沙耶を見比べた寛太が、しょうがないとでも言いたげな顔でうなずいた。

「わかったよ、もう止めない。ただし、危なっかしくて見てられないから俺も手伝うぞ。とくしてないから俺だって力は弱いけど。……鈴子ちゃんの伝言を聞けば、管長さんがすぐに来てくださるはずだから、それまでもたせよう」

 三人は、人目につかないよう隅に移動した。洗濯物がちょうど目隠しになってくれる。

「ようは、あの光る雲のところまでサーヤを連れていけばいいんでしょ?」

「ああ。こいつがあそこまでたどり着くところを、具体的にイメージするんだ。はしごを作ってのぼらせてもいいし、鳥に乗せて飛んでもいい。ただし、絶対に集中力を切らすなよ。少しでも雑念が入ると、術がほころんでしまうからな」

 集中力、と自分に言い聞かせ、宮子はうなずいた。

「サーヤ、私、がんばる」

「ありがと。信じてるよ、宮子のこと」

 沙耶の笑顔を心に刻みつける。とうとうお別れだ。

 すぐ隣で寛太がけつの姿勢でめいもくして合掌する。宮子も目を閉じて深呼吸をした。

 ──集中しなきゃ。サーヤを無事に送るために。

 まぶたの裏の暗闇に、光の粒を寄せ集めてはしごを作る。

 その端を沙耶の前にしっかりと置き、空へ向けてはしごを一段ずつ延ばしていく。

 沙耶がはしごに手をかけ、足を乗せた。強度を確認すると、上に向かってのぼり始める。

 近くの工場の屋根を越し、一段また一段と、沙耶が光る雲へと近づいていく。宮子は沙耶に追いつかれないよう懸命に光の粒をイメージし、空中にはしごをかけ続けた。

 しかし雲にはまだ遠く、宮子がはしごを延ばす速度は、だんだんと落ちていく。少しでも気を抜くと注意が他へ向いて、頭を休めようとしてしまうのだ。全身から汗が噴き出し、足がふらつく。

 とうとう、沙耶がはしごの先に追いついてしまった。

「宮子、大丈夫?」

 沙耶の心配そうな声がする。

 正直、大丈夫じゃない、疲れで集中力が今にも切れそう──。

 突然、何かの警報音が鳴り響いた。

「ひゃっ」

 車の盗難防止装置の音だと気づいたが、びくりとしたほんの一瞬で、イメージのはしごが崩れ出す。

 あわててはしごをかけ直したが、強度が足りない。このままでは消えてしまう。

「サーヤ!」

 とっさに手を差し伸べる。

 いつの間にか宮子の体は、沙耶の手をつかんだまま宙に浮かんでいた。

 眼下に、病院の屋上が見える。真っ白な洗濯物がはためく隅に、寛太が座っていた。その隣に倒れているのは、宮子自身。

 意識が体を飛び出してしまったのだ。

 自分の状況を把握したとたんに、かろうじて残っていたはしごがすべて消えた。

 ──落ちる!

 宮子が身をすくめた瞬間、腹に衝撃が走った。

 腹に巻きついた縄が、落下を止めてくれている。沙耶の手をしっかりと握ったまま、宮子は縄の出どころを見上げた。

「あ……!」

 そこには、炎をまとった寛太がいた。

 意識を体の外に飛ばして助けに来てくれたのだ。

 縄のもう一端を握って宙に浮かぶその姿は、けんさくで人々をげて救うみようおうけんげんしたかのようにも見える。

「何分かは時間を稼げる。今のうちにはしごを出すんだ!」

 寛太が叫ぶ。

 宮子はあわててはしごをかけ直そうとした。しかし今度は地面から距離がありすぎて、ここまではしごを延ばすのが難しい。早く早くとあせるほどイメージがぶれてしまう。

「落ち着け! はしごじゃなくていい、鳥でも、空飛ぶじゆうたんでも」

 寛太の声に、宮子は気を取り直して大きな鳥を作ろうとした。自分の手にぶら下がっている沙耶の真下へ、ちょうど鳥の背が来るように──。

 そのとき、腹に巻きついていた縄が解け始め、体ががくんと前のめりになった。

「きゃあっ!」

 せっかく形になりかけていた鳥が消えてしまう。

 姿勢が傾いたせいで、胸元にしまっていたまがたまが服から滑り出る。

 あ! と思ったときにはもう、大切な母の形見は落ちていき、宮子の視界から消えた。

「お母さん……」

 腹に巻きついていた縄が完全に解け、空中に放り出される。

 宮子は沙耶の手をぎゅっとつかんだまま、真っ逆さまに墜落した。

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