1章③
悩みながら、いつもより手間取って夕食を作る。支度ができたので宮子が父を捜していると、庭で寛太と棚を作っていた。
「
「だろう? 娘たちはこういうのに興味がなくてな。こっちも締めてくれるか」
一瞬でネジが締まるのがおもしろいのか、寛太が歓声をあげる。男同士で楽しそうにしているのが、少し
大体寛太は、鈴子や父には親しげに接するのに、自分にだけは
今日は
父が食前の
寛太も同じ習慣らしく、黙々と食事をしている。
食事を終え、宮子はそのまま後片付けを始める。寛太が手伝いを申し出たが、これは私の仕事だからと遠慮した。一緒に皿洗いをするのは、なんだか気まずい。
代わりに鈴子が、寛太を居間へと引っ張っていく。またアニメでも観せるのだろう。
片付けを終えてゴミを捨てに行くと、社務室に明かりが
「お父さん。聞きたいことがあるの」
父が、持っていた
「なんだい」
「人は……死んだら、どこへ行くの?」
父は、腕組みをして低くうなった。
「また、難しい質問だな。
そんなあいまいなことで、いいのだろうか。
「じゃあ、黄泉の国って、どんなところ?」
「それらに関する文献は、あまり残っていない。『
では死後の世界は、暗くて
そんなところへ行けなんて、
「……お母さんも、そんなところに行っちゃったの?」
うつむいていると、父の声がした。
「死体は、どうしたって腐る。だから古代の人達は、死体のイメージをそのまま死後の世界と重ねてしまったんだろうな。だが、きちんとお
「その幽世は、いいところなの?」
「管長自らが『いいところじゃありません』とは言えないな。国学者の中には、
この世よりもいいのなら、希望が持てる。
「じゃあ、もう死んでる人が、そこへ行かずこっちにいる場合、どうすればいいの?」
「あちらの世界にお送りする。体がないのにこの世にとどまるのは、本人にとってもかなり大変なんだ。時間がたてばたつほど、あちらへ行きにくくなる」
少し間を置いてから、宮子は恐る恐る
「あの空き地に
父がゆっくりとうなずく。
「ああ、私だ。あそこに住んでいた
水野という
「あそこには昔、おばあさんが住んでいて、一時期お孫さんを引き取っていたんだよ。とても厳格な人でね。本人は孫のためと思って厳しくしつけていたらしい。神社に来ては、お母さんによく話していたなあ。『あの子は男好きするタイプだから気をつけないと、不幸になってしまう。私が守ってやらないと』って。お母さんは、お孫さんをもっと信用してあげてって言ってたんだがな。……しばらくしてその女の子は、再婚した東京の母親のところへ行った」
沙耶の話と同じだ。
「ところが、母親の再婚相手に魔が差した。その……義理の父親として許されないことをしようとして、誤って娘の命を奪ってしまったんだ」
指先が震える。息がうまく吸えず、いやな汗が背中に流れる。
「母親は、なんとか夫の罪を隠そうとした。自分のせいじゃない、不可抗力だという、夫の苦しい言い訳を信じずにはいられないくらい、認めたくない事件だったんだろう」
「どうして娘のサーヤよりも、そんな男の言うことを信じるのよ!」
たまらずに宮子は腰を浮かせて叫んだ。言ってから、沙耶の名前を出してしまったことを悔やんだが、父はそのまま会話を続けた。
「そうだね。母親はせめて娘の名誉を守るべきだった。お父さんも少しだけ知ってるけど、近所の人に元気よくあいさつするいい子だったよ、沙耶ちゃんは。お母さんもそう言っていた」
父は、沙耶の正体に気づいていたのだ。宮子はおとなしく座り直した。
「だが、現実を受け入れられない母親は、夫の
手足を折りたたまれた沙耶の
嫌な映像を振り払おうと、頭を振る。沙耶と同じポニーテールが空を切る。
「ひどい」
「おばあさんも母親も、平気なわけじゃなかったんだよ。おばあさんは毎日のように神社に来て、お母さんと長々話し込んでいた。
父が、少し寂しそうに遠い目をする。
「おばあさんはだんだん
宮子はうつむいたまま、机の木目を見つめる。
「その直後、沙耶ちゃんのお母さんは自首したんだ。遺体は死後約一年半が経過していた。警察が来て騒ぎになったが、もう六年近く前のことだから、宮子は覚えていないだろうけれど」
いくら祖母と母親も苦しんだとはいえ、一年半も壺の中に放置された沙耶の悔しさには及ぶはずがない。
恐ろしい目に遭った上に、暗い土の下でひっそりと腐っていった沙耶のことを思うと叫び出しそうになり、宮子は唇をぐっと
「遺骨は実の父親が引き取った。水野さんの家は、十日前にご親族が取り壊したんだ。今月の始め、刑期を終えた母親があの家の階段から落ちて骨折してな。縁起が悪いから、と」
「母親って、もう出所したの?」
「ああ。
そんな短い刑期で戻ってくるなんて、納得できない。
「母親は勇気を出して家の様子を見に来たらしいんだが、足を滑らせて
宮子は、腕で涙をぬぐった。
「
「宮子、いつも注意しているだろう。言葉には
「でも……」
「よくない言葉を発すると、自分自身が
納得できない宮子が生返事をすると、父は
「それで、幽霊の噂を
「禍って……。サーヤは悪くないよ。どう見ても被害者じゃない! ようやくお母さんと一緒に暮らせると思ったのに、父親からあんな……」
新しいお父さんだと信じ切っていた人が暴力的な男に
「ひどい殺され方をした上に、
我慢しきれずに涙が
誰も沙耶の無念に耳を傾けていないし、彼女の死を
「そうだな。沙耶ちゃんは何一つ悪くない」
父が、宮子の思いを受け止めるかのように、穏やかに言う。
「彼女を守ってあげるべき大人が、助けないばかりか加害者に回った。亡くなった後でさえ。沙耶ちゃんがこんなひどい扱いを受けるいわれは、断じてない」
ようやく
「けれども、そのままにしておくと
否定することができず、宮子は唇を
「だから、沙耶ちゃんが友達を欲しがったり、かわいいものに興味を示す女の子でいる今のうちに、あちらへ送ってあげよう」
父が
「予定の日を待っていたのだが、こうなったら早い方がいい。明日、沙耶ちゃんの
父はお下がりの野菜を載せたお盆を持って、渡り廊下へと去っていった。
たぶん、父に祀ってもらうのがいちばんなのだろう。「禍をなすもの」になってしまう前に。沙耶が沙耶であるうちに。
でも、無理強いするのは納得がいかない。沙耶は思い残すことがあるから、この世にとどまっているのだ。なんとか彼女の未練を取り去ってあげたい。それが、ひどい目に遭った沙耶にできる、せめてもの
宮子は電気を消して外へ出た。月のない夜空は暗い。
気を紛らわせようと、光の粒を集めて何か作ろうとした。が、何を作っていいか思いつかない。渦巻き状にしてぐるぐる回していると、炎をまとった真っ赤な鳥が現れ、頭上で振り返った。
「きゃあっ」
驚いて尻もちをつくと、鳥は光の粒に変わり
人の気配に振り向くと、寛太が立っている。
「下手な同情は、相手のためにならないぞ」
そう言って立ち去ろうとする寛太を、宮子は「待って」と呼び止めた。
口を開いた拍子に、赤い光の粒が入って舌の上で溶ける。その苦みに顔をしかめながら、沙耶も光の粒は苦いと言っていたことを思い出す。
「あの幽霊のことで話でもあるのか」
立ち止まった寛太が戻ってくる。相変わらずぶっきらぼうな物言いだ。暗いからさっきまで泣いていた顔を見られなくてすむことに、宮子はほっとした。
「あんまりきついこと言わないでよ。サーヤは何も悪くないんだから」
言い返してくると思ったのに、寛太は隣に立って宮子に同意した。
「そうだな、あいつは悪くない。むしろ、よくここまで自分を保てたもんだ。元々がいい
寛太の言葉が意外で、宮子はその横顔を
「でも、危険な奴って言ったじゃない」
「お前があいつの無念に形を与えてしまうのが、危険ってだけだ。弱められているとはいえ霊力があって、しかもあいつに同情的だ。波長が合うから体に入りやすい。あいつだってそこまで考えていなかったとしても、お前の体を乗っ取ることができると気づいてしまえば、悪い気を起こすかもしれない」
普段は盗みなんて考えもしない人が、誰も見ていないところに一万円札が落ちていたら魔が差してしまう感じだろうか。
「下手な同情はためにならないって、そういう意味だったの?」
まあな、と答える寛太の表情は、暗くてよくわからない。
「でもさ、なんの落ち度もないのにひどい殺され方をして、恨むなって言う方が無理だし、何か未練があるなら解消してあげたいじゃない」
急に会話が途切れた。待てども寛太の答えはない。急にとげとげしくなった空気に戸惑いながら、宮子は隣を
「えっと……あの」
「……天にあげてやるのが本人のためなんだ! 死んでしまったらもう……どうしようもないじゃないか!」
絞り出すように言って、寛太が走り去る。玉砂利を蹴る音があっという間に遠ざかっていった。
そういえば、寛太の母親は「よくない亡くなり方」をしたのだと思い出す。
ずっと感情を抑えてふるまっていた寛太が、あんな声で叫ぶなんて。
軽々しいことを言ってしまったと後悔する宮子の口の中に、先ほどの光の粒の苦みがまだ残っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます