1章③



 悩みながら、いつもより手間取って夕食を作る。支度ができたので宮子が父を捜していると、庭で寛太と棚を作っていた。

かんちようさん、この電動ドライバー、すごいですね」

「だろう? 娘たちはこういうのに興味がなくてな。こっちも締めてくれるか」

 一瞬でネジが締まるのがおもしろいのか、寛太が歓声をあげる。男同士で楽しそうにしているのが、少しうらやましい。

 大体寛太は、鈴子や父には親しげに接するのに、自分にだけはあいが悪いのが納得いかなくて腹立たしくなる。棚が完成したところで、宮子は「夕飯ですよ」と声をかけた。

 今日はげんさいが不在なので、寛太も一緒に食卓についている。修行者であっても「自分のために殺されたものの肉」でなければ食べていいので、ハンバーグにした。

 父が食前のかしわを打つのに合わせて、宮子と鈴子も手を合わせる。寛太は合掌して何かのもんを唱えていた。

 かしわでは、基本的に食事中は会話をしない。食事は生命を更新する儀式だから、食べ物への感謝を実感できるよう集中する、という父の教えなのだ。

 寛太も同じ習慣らしく、黙々と食事をしている。としの割に食べ方がきれいで、一つひとつの動作をきちんと意識している。しんとうもそうだが、仏教では食事も修行の一環なのだ。

 食事を終え、宮子はそのまま後片付けを始める。寛太が手伝いを申し出たが、これは私の仕事だからと遠慮した。一緒に皿洗いをするのは、なんだか気まずい。

 代わりに鈴子が、寛太を居間へと引っ張っていく。またアニメでも観せるのだろう。

 片付けを終えてゴミを捨てに行くと、社務室に明かりがいていた。今なら、父一人だ。宮子は急いで手を洗い、社殿へと向かった。

「お父さん。聞きたいことがあるの」

 父が、持っていたてつせんを机に置き、応接室の畳に座る。宮子も向かいに座った。

「なんだい」

「人は……死んだら、どこへ行くの?」

 父は、腕組みをして低くうなった。

「また、難しい質問だな。しんとうでは、くにとこくにへ行く、と言われているが、見解には諸説ある。仏教では、死んだときの心の持ちようや積み重なったごうに従って、生まれ変わるとされている。でも、お父さんも死んだことがないから、本当のところはどうだかわからんよ」

 そんなあいまいなことで、いいのだろうか。

「じゃあ、黄泉の国って、どんなところ?」

「それらに関する文献は、あまり残っていない。『』には、ぎのみことが亡きつまみのみことを追って黄泉の国へ行かれたら、妻の身体にはうじがたかっていた、とある。醜い姿を見られて怒ったみのみことが、黄泉よもつ醜女しこめたちにぎのみことを追いかけさせた、とも」

 では死後の世界は、暗くてきたないということか。

 そんなところへ行けなんて、には言えないし、行かせたくない。

「……お母さんも、そんなところに行っちゃったの?」

 うつむいていると、父の声がした。

「死体は、どうしたって腐る。だから古代の人達は、死体のイメージをそのまま死後の世界と重ねてしまったんだろうな。だが、きちんとおまつりすることで霊魂は黄泉の国から別のところへ行く、という考え方もある。魂は幽世かくりよのおおかみが支配なさるかくりおもむき、家族や親族を守るたまとなってせんしんの仲間入りをする、という考えにのっとって祖霊をお祀りしているのが、このむろきようほんいんだ」

「その幽世は、いいところなの?」

「管長自らが『いいところじゃありません』とは言えないな。国学者の中には、うつし寓世かりのよで幽世こそがもとと言う人もいるから、ここよりはいいと思うよ」

 この世よりもいいのなら、希望が持てる。

「じゃあ、もう死んでる人が、そこへ行かずこっちにいる場合、どうすればいいの?」

「あちらの世界にお送りする。体がないのにこの世にとどまるのは、本人にとってもかなり大変なんだ。時間がたてばたつほど、あちらへ行きにくくなる」

 少し間を置いてから、宮子は恐る恐るたずねた。

「あの空き地になわを張ったのって、お父さん?」

 父がゆっくりとうなずく。

「ああ、私だ。あそこに住んでいたみずさんのご親族から、おはらいを依頼されている」

 水野というみように、心臓が跳ね上がる。指先から血の気が引いていくのがわかった。

「あそこには昔、おばあさんが住んでいて、一時期お孫さんを引き取っていたんだよ。とても厳格な人でね。本人は孫のためと思って厳しくしつけていたらしい。神社に来ては、お母さんによく話していたなあ。『あの子は男好きするタイプだから気をつけないと、不幸になってしまう。私が守ってやらないと』って。お母さんは、お孫さんをもっと信用してあげてって言ってたんだがな。……しばらくしてその女の子は、再婚した東京の母親のところへ行った」

 沙耶の話と同じだ。

「ところが、母親の再婚相手に魔が差した。その……義理の父親として許されないことをしようとして、誤って娘の命を奪ってしまったんだ」

 指先が震える。息がうまく吸えず、いやな汗が背中に流れる。

「母親は、なんとか夫の罪を隠そうとした。自分のせいじゃない、不可抗力だという、夫の苦しい言い訳を信じずにはいられないくらい、認めたくない事件だったんだろう」

「どうして娘のサーヤよりも、そんな男の言うことを信じるのよ!」

 たまらずに宮子は腰を浮かせて叫んだ。言ってから、沙耶の名前を出してしまったことを悔やんだが、父はそのまま会話を続けた。

「そうだね。母親はせめて娘の名誉を守るべきだった。お父さんも少しだけ知ってるけど、近所の人に元気よくあいさつするいい子だったよ、沙耶ちゃんは。お母さんもそう言っていた」

 父は、沙耶の正体に気づいていたのだ。宮子はおとなしく座り直した。

「だが、現実を受け入れられない母親は、夫のうそを信じ込もうとした。彼女は自分の母親──水野のおばあさんに相談して、沙耶ちゃんの遺体をつぼに入れて床下に埋めたんだ」

 手足を折りたたまれた沙耶のなきがらが、スーツケースから大きな壺に移されるところが脳裏に浮かぶ。水色のワンピースが、暗い壺に吸い込まれる。長い髪の束が壺の口から出ているのを、誰かの手が中に押し込み、粘土でふたをする。

 嫌な映像を振り払おうと、頭を振る。沙耶と同じポニーテールが空を切る。

「ひどい」

「おばあさんも母親も、平気なわけじゃなかったんだよ。おばあさんは毎日のように神社に来て、お母さんと長々話し込んでいた。とうを頼むことも多くて、当時は私もずいぶん熱心なものだと不思議に思っていたんだが、今思えばそういうことだったんだな。お母さんは、おばあさんの秘密にうすうす気づいていたのかもしれないね。勘のいい人だから」

 父が、少し寂しそうに遠い目をする。

「おばあさんはだんだんほそって、素人しろうとにも何かよくない病気にかかっている風だったのに、病院に行こうとしなかった。病名がわかっても、手術も治療も拒否してね。沙耶ちゃんのお母さんが無理やりホスピスに入れたけど、入所一カ月でくなられたんだよ」

 宮子はうつむいたまま、机の木目を見つめる。

「その直後、沙耶ちゃんのお母さんは自首したんだ。遺体は死後約一年半が経過していた。警察が来て騒ぎになったが、もう六年近く前のことだから、宮子は覚えていないだろうけれど」

 いくら祖母と母親も苦しんだとはいえ、一年半も壺の中に放置された沙耶の悔しさには及ぶはずがない。

 恐ろしい目に遭った上に、暗い土の下でひっそりと腐っていった沙耶のことを思うと叫び出しそうになり、宮子は唇をぐっとんだ。涙の粒がぱたぱたと落ちて、スカートの色を変える。

「遺骨は実の父親が引き取った。水野さんの家は、十日前にご親族が取り壊したんだ。今月の始め、刑期を終えた母親があの家の階段から落ちて骨折してな。縁起が悪いから、と」

「母親って、もう出所したの?」

「ああ。はまだふくえきちゆうだが、母親の罪はたいだから、たしか三年以下のちようえきなんだ」

 そんな短い刑期で戻ってくるなんて、納得できない。

「母親は勇気を出して家の様子を見に来たらしいんだが、足を滑らせておおだ。おまけに救急車で運ばれるとき、しきりに沙耶ちゃんに謝ったり、迷わずじようぶつしてと泣き叫んでいたとかで、あそこは殺された女の子の霊が出るといううわさが広まったんだ」

 宮子は、腕で涙をぬぐった。

ばちがあたったのよ。ざまあみろだわ」

「宮子、いつも注意しているだろう。言葉にはたましいが宿るから、不用意なことを言ってはいけないよ。たとえ、相手に非があると思えてもだ」

「でも……」

「よくない言葉を発すると、自分自身がけがれてしまう。自分のために、やめた方がいい。特に宮子は」

 納得できない宮子が生返事をすると、父はせきばらいをして続けた。

「それで、幽霊の噂をふつしよくし、母親の怪我も治るようにと、ご親族からおはらいを依頼されたんだ。わざわいをなすものを封じ、お祀りしてほしいと」

「禍って……。サーヤは悪くないよ。どう見ても被害者じゃない! ようやくお母さんと一緒に暮らせると思ったのに、父親からあんな……」

 ほらあなの中でかいた沙耶の記憶が、宮子の脳裏によみがえる。

 新しいお父さんだと信じ切っていた人が暴力的な男にひようへんし、有無を言わさぬ力で押さえ込まれたときの恐怖。このまま続くと信じて疑わなかった日常が足元から崩れて、絶望の中で命を絶たれた無念。義父はもちろん、母親やこの世のすべてを呪いたくなって当然ではないか。

「ひどい殺され方をした上に、あくりようあつかいして追い払うなんて、あんまりよ!」

 我慢しきれずに涙があふる。

 誰も沙耶の無念に耳を傾けていないし、彼女の死をいたんでもいない。ましてや義父や母親が心からびたわけでもない。それなのに、無理やり封じて祀ってしまうのはひどすぎる。宮子は声をあげて泣いた。

「そうだな。沙耶ちゃんは何一つ悪くない」

 父が、宮子の思いを受け止めるかのように、穏やかに言う。

「彼女を守ってあげるべき大人が、助けないばかりか加害者に回った。亡くなった後でさえ。沙耶ちゃんがこんなひどい扱いを受けるいわれは、断じてない」

 ようやくえつを止めることができた宮子に、父が続ける。

「けれども、そのままにしておくとたまが自然霊と溶け合って、意思も理性も失った単なる『禍をなすもの』になってしまうんだ。友達と遊んだり、おしゃれを楽しんだりする普通の女の子だった記憶がだんだん薄れていって、悔しい、恨めしい、呪いたい、でもその相手が誰なのかさえ思い出せない、そんな悪意のかたまりとして存在し続けなきゃならなくなる。それは、沙耶ちゃん本人にとってもつらいことだと思わないかい?」

 否定することができず、宮子は唇をんだ。

「だから、沙耶ちゃんが友達を欲しがったり、かわいいものに興味を示す女の子でいる今のうちに、あちらへ送ってあげよう」

 父がさとすように言う。確かに、何十年もすべてを呪いながらこの世にとどまるのはつらすぎる。宮子はしぶしぶうなずいた。

「予定の日を待っていたのだが、こうなったら早い方がいい。明日、沙耶ちゃんのたままつりをしよう。ご親族には事情を説明しておく」

 父はお下がりの野菜を載せたお盆を持って、渡り廊下へと去っていった。

 たぶん、父に祀ってもらうのがいちばんなのだろう。「禍をなすもの」になってしまう前に。沙耶が沙耶であるうちに。

 でも、無理強いするのは納得がいかない。沙耶は思い残すことがあるから、この世にとどまっているのだ。なんとか彼女の未練を取り去ってあげたい。それが、ひどい目に遭った沙耶にできる、せめてものけではないだろうか。

 宮子は電気を消して外へ出た。月のない夜空は暗い。

 気を紛らわせようと、光の粒を集めて何か作ろうとした。が、何を作っていいか思いつかない。渦巻き状にしてぐるぐる回していると、炎をまとった真っ赤な鳥が現れ、頭上で振り返った。

「きゃあっ」

 驚いて尻もちをつくと、鳥は光の粒に変わりさんした。

 人の気配に振り向くと、寛太が立っている。

「下手な同情は、相手のためにならないぞ」

 そう言って立ち去ろうとする寛太を、宮子は「待って」と呼び止めた。

 口を開いた拍子に、赤い光の粒が入って舌の上で溶ける。その苦みに顔をしかめながら、沙耶も光の粒は苦いと言っていたことを思い出す。

「あの幽霊のことで話でもあるのか」

 立ち止まった寛太が戻ってくる。相変わらずぶっきらぼうな物言いだ。暗いからさっきまで泣いていた顔を見られなくてすむことに、宮子はほっとした。

「あんまりきついこと言わないでよ。サーヤは何も悪くないんだから」

 言い返してくると思ったのに、寛太は隣に立って宮子に同意した。

「そうだな、あいつは悪くない。むしろ、よくここまで自分を保てたもんだ。元々がいいやつだったんだろうな」

 寛太の言葉が意外で、宮子はその横顔をぎようした。

「でも、危険な奴って言ったじゃない」

「お前があいつの無念に形を与えてしまうのが、危険ってだけだ。弱められているとはいえ霊力があって、しかもあいつに同情的だ。波長が合うから体に入りやすい。あいつだってそこまで考えていなかったとしても、お前の体を乗っ取ることができると気づいてしまえば、悪い気を起こすかもしれない」

 普段は盗みなんて考えもしない人が、誰も見ていないところに一万円札が落ちていたら魔が差してしまう感じだろうか。

「下手な同情はためにならないって、そういう意味だったの?」

 まあな、と答える寛太の表情は、暗くてよくわからない。

「でもさ、なんの落ち度もないのにひどい殺され方をして、恨むなって言う方が無理だし、何か未練があるなら解消してあげたいじゃない」

 急に会話が途切れた。待てども寛太の答えはない。急にとげとげしくなった空気に戸惑いながら、宮子は隣をうかがった。

「えっと……あの」

「……天にあげてやるのが本人のためなんだ! 死んでしまったらもう……どうしようもないじゃないか!」

 絞り出すように言って、寛太が走り去る。玉砂利を蹴る音があっという間に遠ざかっていった。

 そういえば、寛太の母親は「よくない亡くなり方」をしたのだと思い出す。

 ずっと感情を抑えてふるまっていた寛太が、あんな声で叫ぶなんて。

 軽々しいことを言ってしまったと後悔する宮子の口の中に、先ほどの光の粒の苦みがまだ残っていた。

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