1章②



 気がつくと、みやはどこかのアパートの部屋を天井から見下ろしていた。

 台所で、がラーメンを作っている。流しには空き袋が二つ。さいばしで鍋をぜている姿を、後ろから誰かがじっと見ている。

 水色のワンピースから伸びる素足、ウエストから腰にかけての曲線、ポニーテールのうなじにうっすらと浮かぶ汗。めるような視線が、彼女を観察している。

 火を止めて調味料を入れようとしている沙耶に、誰かが近づく。

 視線の主は、動物を捕獲するように沙耶を後ろから抱きすくめた。

 沙耶が、大声をあげて暴れ出す。男は沙耶を床に押し倒し、口をふさごうとした。


『やめて、おさん!』


 沙耶のものか自分のものかわからない悲鳴で、宮子は目が覚めた。

 視界が真っ暗であせったが、洞穴の中にいたのだったと思い出す。

 沙耶の指は、すでに離れていた。服の中のまがたまが、熱を持っているのがわかる。光でできたこのへいは、粉々に砕け散っていた。

「サーヤ、今の……」

 まだ少し意識がもうろうとする頭で、宮子は先ほどの夢を思い返す。あれはまさゆめだろうか。だとしたら、沙耶は──。

 考え込んでいると、沙耶は突然腰を浮かし横穴からした。

「……あたし実は、暗くて狭いところが苦手なの」

 宮子も、ふらつきながら後に続いて外に出る。

 暗いところに慣れた目に、夏の日差しはまぶしすぎる。積もった枯れ葉や木々ばかりが広がっていて、遭難でもしたみたいで急に不安になってくる。

「そろそろ戻ろうよ」

 近道だからと神社の境内を横切ろうとすると、沙耶が嫌がった。宮子は不思議に思いながらも、民家側の坂道を下りる。なんとなく気まずくて会話が途切れがちになり、沈黙に耐えきれなくて、宮子は話題を探した。

「あの神社、大和国やまとのくにいちみやの有名なとこなんだけど、やましんたいなんだよ。うちのむろきようほんいんは、昔いろいろあってあそこから独立したんだって。神社って死をけがれと捉えるから、氏子さんでもお葬式はお寺にお願いすることが多いんだけど、うちの神社はくなった方をまつれいがあって、しんそうさいはもちろんしきねんさいせいしんさいもしているんだ」

「……人間、誰でも死ぬのに、死んだら『けがれ』としてきらうなんて、ひどい話だと思わない?」

 沙耶の顔に、いつもの笑顔はない。

 言葉を失った宮子は、うつむいたまま歩き続けた。

 空き地に着くと、いつさくじつ端によけたはずの棒が、沙耶がはまっていたつぼのあたりを囲むように、四隅に立っていた。宮子がほどいたロープも、片付けられている。

「やだ……」

 真っ青な顔で、沙耶がつぶやく。

「どしたの、サーヤ。気分悪い?」

 肩を揺すると、沙耶がこちらを向いた。どこかかなしそうな顔だ。

「日射病かな。うちに来て休む? お父さんは信者さんの家を回っているはずだし、妹はテレビでもてるし、気にしなくていいから」

 沙耶が視線をはずし、とたんに元気そうに言う。

「ん、大丈夫。別に気分が悪いわけじゃないから。それより、まだ時間も早いんだし、遊ぼう。そうだ、妹ちゃんも呼ぼうよ」

「え、すずを? まだ小一だから騒々しいよ」

「いいって、いいって。小さい子が一人で留守番って、かわいそうじゃん」

 確かに、今日は社務室に事務のはらさんがいるとはいえ、自宅には鈴子一人だ。たぶん、ブロックでお城を作っているか、アニメのDVDをているかだろう。

「それもそうだね。じゃあ、呼んでこようかな」

 道路へ向かおうとすると、いつの間にかかんが立っている。驚いて、宮子は声をかけた。

「あれ、まだ三時くらいなのに。今日はもう終わりなの?」

 寛太は、宮子ではなく沙耶を見ている。いや、にらんでいる。

ろうの受けられた依頼が長引いて夜通しになりそうだから、夕食の握り飯を作りたい。台所を貸してくれないか」

「いいけど……」

「米はあるけど、他人の家の台所はわからない。一緒に来てくれ」

 寛太がようやく宮子の方を見た。を言わせない口調だ。

「そういうわけだから、諦めろ」

 沙耶に言い放った寛太が、宮子の手首をつかんで連れていこうとする。

「ちょ……、ちゃんと帰るから、触らないでよ! ごめん、サーヤ。また明日ね」

 振り返って、沙耶にもう一方の手を振る。沙耶も「うん、また明日。待ってるから」と名残惜しそうに手を振っていた。

 空き地が見えないところまで来て、ようやく寛太が手を離す。

「痛いじゃないの。一緒に遊んでるところに無理やり割って入るし、なんなのよもう!」

 さすがに腹が立って、宮子はまくしたてた。しかし、寛太はまったく動じない。

「やれやれ、シアワセなやつだな。お前は守りが強いから無事だけど、妹まで危険にさらすなよな」

「なんのことよ」

 一の鳥居の前にさしかかった。二人共いったん会話をやめて、示し合わせた訳でもないのにぴったりのタイミングで一礼して中に入る。たまじやを踏む二人分の音が響き渡った。

「ねえ、妹まで危険にさらすなって、どういう意味よ」

 寛太が立ち止まり、宮子の方を向き直った。

「自分で自分に暗示をかけているようだから、はっきり言わせてもらう。あいつ、もう死んでるぞ」

 意味が理解できず、宮子はほうけたように立ち尽くした。

「お前が一緒にいないとあいつ、空き地から出られないだろう。強い力のそばにいないと、姿形を保つことができないんだ」

 言い返せないまま、宮子は寛太の後をついて歩く。

 しんもんをくぐり、二人は社殿に向かって無言で一礼をした。やはりタイミングも角度もまったく一緒で。

 宮子は社務室の窓から原田さんに声をかけ、自宅の玄関へ向かった。しかし、頭の中は別のことでいっぱいで、自分が何をしているかもさだかではない。

「いつまでもこっちの世界にいたって、しょうがないんだ。変なことをしでかさないうちに、あるべき世界へ送ってやった方がいい」

 寛太が、追いうちをかけるように後ろから言う。めまいがして視界が揺らぐ。ふらつく体を、靴箱に寄りかかって支えた。

「さっきから変な冗談言わないでよ。だって、サーヤとは一緒に電車に乗ったし、買い物だってしたのよ。透けてもいないし、足も、触った感触だってあるのに」

「脳なんて簡単にだませるんだぞ。あいつが買い物をしたと思っているのはお前だけで、実際にはあいつの分は商品も売れてなければ金も払っていない、そもそも他の人には見えてすらいなくて、お前がひとごとを言いながら自分の分だけ買っていった可能性もある」

 駅の手前ですれ違ったクラスメートのいぶかしげな表情を思い出し、宮子は首を振って反論した。

「そ、そんな馬鹿なことあるわけないじゃん。サーヤを幽霊呼ばわりするのはやめて」

「感情でねじ伏せて否定するのはやめろ! お前、本当はわかっているんだろう。あいつがこの世の者じゃないって」

 大きな声にびくりとしながら、宮子は言い返す。

「え、でも私には見る力は……」

「一時的に弱めていただけだし、今は大分見えているはずだ。お前には、あいつの念に形を与えられるだけの力がある。これ以上近づかない方がいい。危険だ」

「でも……。でも、危険じゃないもん。サーヤは、私の初めての友達なんだから!」

「なにが友達だ。じゃあ、その首はなんだ」

 そう言われて、宮子は壁にかけてある鏡をのぞんだ。首に、うっすらと赤い指のあとが残っている。

「これは……暗かったから、腕と間違えてつかんじゃっただけよ」

「そうか? あいつ、お前の体が欲しかったんじゃないのか? そのお守りがなかったら、たぶん体を乗っ取られていたぞ」

 宮子は、胸に手をあてた。服の下に、つるつるとしたすいまがたまを感じる。

 肌身離さずつけているように言われた、お母さんの形見。

「違う。違うもん!」

 泣きそうになるのをこらえながら、靴を脱ぎ捨て、廊下を走った。

「あれえ、お姉ちゃん、お帰りー」

 鈴子が居間から顔を出したが、宮子は二階まで駆け上がり、乱暴に自室の扉を閉めた。

「なんなのよ、あいつ。何もかもわかったような顔で、サーヤのこと悪く言って!」

 宮子は枕をつかんでベッドに投げつけた。振りかぶった拍子に、翡翠の勾玉がえりりから飛び出し、胸にこつんと当たる。

 肩で息をしながら、宮子はそれをぎゅっと握った。石が体温を吸い取り、少しずつ怒りを冷ましていく。

『あいつ、もう死んでるぞ』

 冷静になってくると、先ほど寛太に言われたことが、すとんと胸に落ちてきた。

 もしかすると彼の言うとおり、最初からわかっていたのかもしれない。沙耶が地面から上半身だけを出して、もがいていたときから。

 そうだ。あのとき四方にめぐらされていたロープは、結界のなわだ。がついていないから、気づかなかった。紙垂は薄い和紙だから、雨で溶けて流れたのだろう。

 なわで囲われることが何を意味するのかくらい、宮子にだってわかる。

 沙耶は封印されていたのだ、あの土地に。

 宮子の知っている「幽霊」は、自分の恨みや未練をぶつけてくるだけで「友達になりたい」なんて言わない。だから、沙耶が幽霊だなんて思いもしなかった。

 一緒に遊ぼうと言ったり、宮子がいじめられていないか心配してくれたりする「普通の女の子」だったから、気づかなかったのだ。

 宮子には今までのことが、体を乗っ取るために近づいてきた演技だとは思えない。

 友達になりたいと言ってくれた沙耶の言葉に、うそはないはずだ。そう信じたい。

「お母さん。私、どうしたらいいんだろ」

 宮子はまがたまを握りながら、写真立ての中の母に話しかけた。

 沙耶がこの世のものでないとしたら、いちばんいいのは、父にまつってもらい、あちらの世界に送ることだ。

 しかし、それはどうしても裏切りのような気がしてならない。

『人間、誰でも死ぬのに、死んだら「けがれ」としてきらうなんて、ひどい話だと思わない?』

 穢れは、神主によってはらわれる。でも、祓われてどこへ行くのだろう?

 沙耶が空き地にとどまっているのはあちらへ行きたくないからだとすれば、このままでもいいのではないのか? 友達が望まないことは、したくない。

 友達──。

 沙耶は本当に、友達である自分の体を乗っ取ろうとしたのだろうか。

 ううん、違う。そんなはずはない。それに「あちら」には母もいる。悪い世界であってはならない。父だって、亡くなった人たちを日々お祀りしているのだから……。

「お母さん。そっちはどんなところ? 友達を、そこに送っても大丈夫?」

 考えても考えても答えが出ず、どうしていいかわからなくなる。

 悩むのを諦め、宮子は階段を下りて洗面所へ向かった。居間から鈴子の声が聞こえる。

「でねでね、鈴子はレイナかんちようが好きなの」

 寛太に、お気に入りのアニメをせているようだ。派手な音楽と、ミサイル発射の効果音が鳴り響く。あの取り付く島もなさそうな寛太に話しかけるなんて、鈴子の無邪気さも大したものだ。

 感心しながらのぞいてみると、意外にも寛太が食い入るようにテレビを観ている。先ほどまでと違って、いきいきとした小学生らしい表情だ。

「よし、がんばれれんぽう!」

 宇宙船の戦いを、本気で応援している。作りごとの物語の世界なのに。

 ──あんな顔するんだ。実は、わりといいやつなのかな。

 母親がくなり、父親と離れて信仰の世界に入ったことで、普段は気が張っているのかもしれない。強がっていたって、まだ自分と同じ小学生なのだから。

 気持ちを整えるために、宮子は洗面所で顔を洗った。目が充血していないか鏡でチェックし、ついでに髪もかす。首の指痕がまだ消えないので、タオルを巻いて隠した。

 わざと足音を立てて居間に入ると、テレビではアニメのエンディングが流れていた。寛太と鈴子が並んで座っている。

「で、連邦と帝国の戦いは、どうなるんだよ」

「それは、来週のお楽しみー」

「マジかよ。続きが気になって修行にならないじゃん」

 寛太の残念そうな顔に、鈴子が笑い声をあげる。

「じゃあ、ちゃんと録画しといてあげる。夏の修行が終わったら、観に来てよ」

「やった! 約束だぜ」

「うん。指きりげんまん、ね」

 鈴子が差し出した小指に、寛太はためらいもせず自分の小指をからめて指切りをする。

 隣の台所から、炊飯器のブザーが聞こえてきた。

「お、けたか」

 寛太が立ち上がる。宮子と目が合うと、小さく「よう」と手をあげた。

「炊飯器、鈴子ちゃんに言って借りたぞ。握り飯作るから、深めの皿を貸してくれないか」

「うん」

 宮子は、深めの皿に塩と水を入れ、テーブルに置いた。ちやわんとまな板も、その横に並べる。寛太は、白衣の袖口を少しまくって手を洗い、持参した梅干しを取り出した。

「アルミホイルも、使ってくれていいよ」

 しゃもじを水にらして、寛太に渡す。

「サンキュー」

 寛太はご飯を茶碗によそい、真ん中に梅干しを入れた。手を塩水で濡らし、茶碗の中身をてのひらに移す。手慣れた様子でご飯のかたまりを三角形に整え、まな板に並べていく。

「上手だね。私も手伝おうか?」

「いや、いい。これは俺がやらなきゃ意味がないから」

 依頼の合間に玄斎が口にするものは、悪い気が入らないよう注意する必要がある。だから、願主宅で出される食事や出来合いではなく、寛太が作って持っていくのだろう。

 五つ握り終えると、寛太はいったん手を洗い、アルミホイルで握り飯を包み始めた。それをさらにしきで包み、対角線同士をくくる。ちゃんと皿とまな板を流しで洗い、水切りの中に入れている。炊飯器のうちがまも洗おうとしたので、宮子が止めた。

「まだ熱いよ。冷めたら洗うから、そのままにしといて」

「ああ、釜が痛むんだっけ。じゃあ、頼む」

 白衣の袖を正している寛太に、宮子は声をかけた。

「ねえ。……もし、友達が、本当は行かなきゃいけないところがあるのに、行かずにいるとしたら、どうするのがいちばんいいと思う?」

 わかりやすすぎるたとえ話だが、考えている余裕など宮子にはない。

 すると、かんはつれずに寛太が答えてくれた。

「行かなきゃいけないなら、行かせるべきだろう」

「そこが、もしかしたら、あんまりいいところじゃないとしても?」

「あんまりいいところじゃないと判断するのは、本人であって周りじゃない。それに、最終的に本人のためになるだろう道を勧めるのが、友達の役目だ」

 父が似たようなことを言っていた。寛太の父親が、息子を内弟子に出すことを決めたと聞いたときだ。

「本人に、どう納得してもらえばいいかしら」

 寛太が初めてよどむ。

「それは……難しいな。相手の性格にもよるし。管長さんに任せるのが、いちばんいいと思う」

 風呂敷を持って出て行きかけた寛太が、振り返って言う。

「おい、無茶はするなよ。守るべき人が誰なのかを、ちゃんと頭に入れておけ」

 玄関へ歩いて行く寛太を、鈴子が手を振って見送る。

 寛太が言う「守るべき人」とは、妹である鈴子のことだろう。もちろん、宮子もそんなことは百も承知だ。

 けれども、沙耶のことも守りたいのだ。大切な、友達なのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る