1章②
気がつくと、
台所で、
水色のワンピースから伸びる素足、ウエストから腰にかけての曲線、ポニーテールのうなじにうっすらと浮かぶ汗。
火を止めて調味料を入れようとしている沙耶に、誰かが近づく。
視線の主は、動物を捕獲するように沙耶を後ろから抱きすくめた。
沙耶が、大声をあげて暴れ出す。男は沙耶を床に押し倒し、口をふさごうとした。
『やめて、お
沙耶のものか自分のものかわからない悲鳴で、宮子は目が覚めた。
視界が真っ暗であせったが、洞穴の中にいたのだったと思い出す。
沙耶の指は、すでに離れていた。服の中の
「サーヤ、今の……」
まだ少し意識が
考え込んでいると、沙耶は突然腰を浮かし横穴から
「……あたし実は、暗くて狭いところが苦手なの」
宮子も、ふらつきながら後に続いて外に出る。
暗いところに慣れた目に、夏の日差しはまぶしすぎる。積もった枯れ葉や木々ばかりが広がっていて、遭難でもしたみたいで急に不安になってくる。
「そろそろ戻ろうよ」
近道だからと神社の境内を横切ろうとすると、沙耶が嫌がった。宮子は不思議に思いながらも、民家側の坂道を下りる。なんとなく気まずくて会話が途切れがちになり、沈黙に耐えきれなくて、宮子は話題を探した。
「あの神社、
「……人間、誰でも死ぬのに、死んだら『
沙耶の顔に、いつもの笑顔はない。
言葉を失った宮子は、うつむいたまま歩き続けた。
空き地に着くと、
「やだ……」
真っ青な顔で、沙耶がつぶやく。
「どしたの、サーヤ。気分悪い?」
肩を揺すると、沙耶がこちらを向いた。どこか
「日射病かな。うちに来て休む? お父さんは信者さんの家を回っているはずだし、妹はテレビでも
沙耶が視線をはずし、とたんに元気そうに言う。
「ん、大丈夫。別に気分が悪いわけじゃないから。それより、まだ時間も早いんだし、遊ぼう。そうだ、妹ちゃんも呼ぼうよ」
「え、
「いいって、いいって。小さい子が一人で留守番って、かわいそうじゃん」
確かに、今日は社務室に事務の
「それもそうだね。じゃあ、呼んでこようかな」
道路へ向かおうとすると、いつの間にか
「あれ、まだ三時くらいなのに。今日はもう終わりなの?」
寛太は、宮子ではなく沙耶を見ている。いや、
「
「いいけど……」
「米はあるけど、他人の家の台所はわからない。一緒に来てくれ」
寛太がようやく宮子の方を見た。
「そういうわけだから、諦めろ」
沙耶に言い放った寛太が、宮子の手首をつかんで連れていこうとする。
「ちょ……、ちゃんと帰るから、触らないでよ! ごめん、サーヤ。また明日ね」
振り返って、沙耶にもう一方の手を振る。沙耶も「うん、また明日。待ってるから」と名残惜しそうに手を振っていた。
空き地が見えないところまで来て、ようやく寛太が手を離す。
「痛いじゃないの。一緒に遊んでるところに無理やり割って入るし、なんなのよもう!」
さすがに腹が立って、宮子はまくしたてた。しかし、寛太はまったく動じない。
「やれやれ、シアワセな
「なんのことよ」
一の鳥居の前にさしかかった。二人共いったん会話をやめて、示し合わせた訳でもないのにぴったりのタイミングで一礼して中に入る。
「ねえ、妹まで危険にさらすなって、どういう意味よ」
寛太が立ち止まり、宮子の方を向き直った。
「自分で自分に暗示をかけているようだから、はっきり言わせてもらう。あいつ、もう死んでるぞ」
意味が理解できず、宮子は
「お前が一緒にいないとあいつ、空き地から出られないだろう。強い力のそばにいないと、姿形を保つことができないんだ」
言い返せないまま、宮子は寛太の後をついて歩く。
宮子は社務室の窓から原田さんに声をかけ、自宅の玄関へ向かった。しかし、頭の中は別のことでいっぱいで、自分が何をしているかも
「いつまでもこっちの世界にいたって、しょうがないんだ。変なことをしでかさないうちに、あるべき世界へ送ってやった方がいい」
寛太が、追いうちをかけるように後ろから言う。めまいがして視界が揺らぐ。ふらつく体を、靴箱に寄りかかって支えた。
「さっきから変な冗談言わないでよ。だって、サーヤとは一緒に電車に乗ったし、買い物だってしたのよ。透けてもいないし、足も、触った感触だってあるのに」
「脳なんて簡単に
駅の手前ですれ違ったクラスメートのいぶかしげな表情を思い出し、宮子は首を振って反論した。
「そ、そんな馬鹿なことあるわけないじゃん。サーヤを幽霊呼ばわりするのはやめて」
「感情でねじ伏せて否定するのはやめろ! お前、本当はわかっているんだろう。あいつがこの世の者じゃないって」
大きな声にびくりとしながら、宮子は言い返す。
「え、でも私には見る力は……」
「一時的に弱めていただけだし、今は大分見えているはずだ。お前には、あいつの念に形を与えられるだけの力がある。これ以上近づかない方がいい。危険だ」
「でも……。でも、危険じゃないもん。サーヤは、私の初めての友達なんだから!」
「なにが友達だ。じゃあ、その首はなんだ」
そう言われて、宮子は壁にかけてある鏡を
「これは……暗かったから、腕と間違えてつかんじゃっただけよ」
「そうか? あいつ、お前の体が欲しかったんじゃないのか? そのお守りがなかったら、たぶん体を乗っ取られていたぞ」
宮子は、胸に手をあてた。服の下に、つるつるとした
肌身離さずつけているように言われた、お母さんの形見。
「違う。違うもん!」
泣きそうになるのを
「あれえ、お姉ちゃん、お帰りー」
鈴子が居間から顔を出したが、宮子は二階まで駆け上がり、乱暴に自室の扉を閉めた。
「なんなのよ、あいつ。何もかもわかったような顔で、サーヤのこと悪く言って!」
宮子は枕をつかんでベッドに投げつけた。振りかぶった拍子に、翡翠の勾玉が
肩で息をしながら、宮子はそれをぎゅっと握った。石が体温を吸い取り、少しずつ怒りを冷ましていく。
『あいつ、もう死んでるぞ』
冷静になってくると、先ほど寛太に言われたことが、すとんと胸に落ちてきた。
もしかすると彼の言うとおり、最初からわかっていたのかもしれない。沙耶が地面から上半身だけを出して、もがいていたときから。
そうだ。あのとき四方にめぐらされていたロープは、結界の
沙耶は封印されていたのだ、あの土地に。
宮子の知っている「幽霊」は、自分の恨みや未練をぶつけてくるだけで「友達になりたい」なんて言わない。だから、沙耶が幽霊だなんて思いもしなかった。
一緒に遊ぼうと言ったり、宮子がいじめられていないか心配してくれたりする「普通の女の子」だったから、気づかなかったのだ。
宮子には今までのことが、体を乗っ取るために近づいてきた演技だとは思えない。
友達になりたいと言ってくれた沙耶の言葉に、
「お母さん。私、どうしたらいいんだろ」
宮子は
沙耶がこの世のものでないとしたら、いちばんいいのは、父に
しかし、それはどうしても裏切りのような気がしてならない。
『人間、誰でも死ぬのに、死んだら「
穢れは、神主によって
沙耶が空き地にとどまっているのはあちらへ行きたくないからだとすれば、このままでもいいのではないのか? 友達が望まないことは、したくない。
友達──。
沙耶は本当に、友達である自分の体を乗っ取ろうとしたのだろうか。
ううん、違う。そんなはずはない。それに「あちら」には母もいる。悪い世界であってはならない。父だって、亡くなった人たちを日々お祀りしているのだから……。
「お母さん。そっちはどんなところ? 友達を、そこに送っても大丈夫?」
考えても考えても答えが出ず、どうしていいかわからなくなる。
悩むのを諦め、宮子は階段を下りて洗面所へ向かった。居間から鈴子の声が聞こえる。
「でねでね、鈴子はレイナ
寛太に、お気に入りのアニメを
感心しながら
「よし、がんばれ
宇宙船の戦いを、本気で応援している。作りごとの物語の世界なのに。
──あんな顔するんだ。実は、わりといい
母親が
気持ちを整えるために、宮子は洗面所で顔を洗った。目が充血していないか鏡でチェックし、ついでに髪も
わざと足音を立てて居間に入ると、テレビではアニメのエンディングが流れていた。寛太と鈴子が並んで座っている。
「で、連邦と帝国の戦いは、どうなるんだよ」
「それは、来週のお楽しみー」
「マジかよ。続きが気になって修行にならないじゃん」
寛太の残念そうな顔に、鈴子が笑い声をあげる。
「じゃあ、ちゃんと録画しといてあげる。夏の修行が終わったら、観に来てよ」
「やった! 約束だぜ」
「うん。指きりげんまん、ね」
鈴子が差し出した小指に、寛太はためらいもせず自分の小指を
隣の台所から、炊飯器のブザーが聞こえてきた。
「お、
寛太が立ち上がる。宮子と目が合うと、小さく「よう」と手をあげた。
「炊飯器、鈴子ちゃんに言って借りたぞ。握り飯作るから、深めの皿を貸してくれないか」
「うん」
宮子は、深めの皿に塩と水を入れ、テーブルに置いた。
「アルミホイルも、使ってくれていいよ」
しゃもじを水に
「サンキュー」
寛太はご飯を茶碗によそい、真ん中に梅干しを入れた。手を塩水で濡らし、茶碗の中身を
「上手だね。私も手伝おうか?」
「いや、いい。これは俺がやらなきゃ意味がないから」
依頼の合間に玄斎が口にするものは、悪い気が入らないよう注意する必要がある。だから、願主宅で出される食事や出来合いではなく、寛太が作って持っていくのだろう。
五つ握り終えると、寛太はいったん手を洗い、アルミホイルで握り飯を包み始めた。それをさらに
「まだ熱いよ。冷めたら洗うから、そのままにしといて」
「ああ、釜が痛むんだっけ。じゃあ、頼む」
白衣の袖を正している寛太に、宮子は声をかけた。
「ねえ。……もし、友達が、本当は行かなきゃいけないところがあるのに、行かずにいるとしたら、どうするのがいちばんいいと思う?」
わかりやすすぎるたとえ話だが、考えている余裕など宮子にはない。
すると、
「行かなきゃいけないなら、行かせるべきだろう」
「そこが、もしかしたら、あんまりいいところじゃないとしても?」
「あんまりいいところじゃないと判断するのは、本人であって周りじゃない。それに、最終的に本人のためになるだろう道を勧めるのが、友達の役目だ」
父が似たようなことを言っていた。寛太の父親が、息子を内弟子に出すことを決めたと聞いたときだ。
「本人に、どう納得してもらえばいいかしら」
寛太が初めて
「それは……難しいな。相手の性格にもよるし。管長さんに任せるのが、いちばんいいと思う」
風呂敷を持って出て行きかけた寛太が、振り返って言う。
「おい、無茶はするなよ。守るべき人が誰なのかを、ちゃんと頭に入れておけ」
玄関へ歩いて行く寛太を、鈴子が手を振って見送る。
寛太が言う「守るべき人」とは、妹である鈴子のことだろう。もちろん、宮子もそんなことは百も承知だ。
けれども、沙耶のことも守りたいのだ。大切な、友達なのだから。
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