まほろばの鳥居をくぐる者は

芦原瑞祥/ビーズログ文庫

1章①

 地面に、女の子が生えている。


 小学六年生のかしわみやは目を疑った。驚きのあまり、両手に持った筆洗いバケツや絵の具箱、うわき入れを落としそうになる。

 ──え? どういうこと?

 夏の暑さでまぼろしを見たのかと思ったが、地面から出ているのは確かに女の子の上半身だ。

 後ろで結んだウエストのリボンがかろうじて出ているが、下半身は土に隠れて見えない。なんとか抜け出したいらしく、両手で踏ん張りながら、背筋を伸ばしたり縮めたりしてもがいている。

 気配を感じたのか、女の子が上半身をひねってこちらを向いた。ポニーテールの髪が、しっぽのように宙を跳ねる。

 ぶくろがふくらんでれぼったい目と視線が合った。年齢は、宮子より少し上の中学一年生くらいだろうか。

「ねえ」

 女の子の大きな口が動く。カラーリップでも塗っているのか、赤さがきわっている。

 その声は、絶え間ないせみの鳴き声にされることなく宮子の耳に届いた。

「え……私?」

 あたりを見回して、他に誰もいないことを確認する。女の子が、こくん、とうなずいた。

「ちゃんと見えてるんでしょ?」

 それなのに、どうして助けてくれないのよ。

 そう非難しているに違いない。たぶん、いじめっ子にやられたのだろう。

「ごめんなさい、すぐ」

 宮子は、空き地の四方を囲むロープをくぐって、中に入ろうとした。

「待って!」

 女の子が鋭い声で制する。

「先に、そのロープを切って」

 切ってと言われても、ハサミで縄は切れないだろう。

「ちょっと待っててください。今ほどきます」

 宮子は荷物を地面に置いて、肩くらいの高さにある結び目をほどきにかかった。

 手元が見えやすいように、自分の体で太陽をさえぎって影を作る。固い結び目は、爪で引っかき出そうとしてもびくともしない。帽子をかぶっていても、日光の熱さで頭がじりじりし、汗が目に入ってみる。

 よく考えたら、ロープを切ってもあの子を助けることにはならないのに、なぜだろう?

「早くして。苦しい!」

「ごめんなさい! あと少し……」

 引っかきすぎて、爪ががれそうに痛む。これではらちがあかない。

 宮子は、絵の具箱から細い絵筆を取り出した。結び目の隙間に筆を差し込み、ぎちぎちと揺すって動かす。広がった穴を引っ張ると、ようやくロープがほどけた。

 両端がぱたりと落ちる。

 宮子と女の子は、同時にため息をついた。

「ああ、助かったぁ~」

 心底うれしそうな声に宮子が顔をあげると、立ち上がった女の子が大きく伸びをしている。さっきまで下半身を埋められていたはずなのに。

「え、いつの間に?」

 よく見ると、女の子が埋まっていたところには穴が開いていて、子ども一人が入るくらいのつぼがあった。あの中に下半身がはまって、抜けなくなってしまったのだろう。

「自力で出られたんですか。よかったですね」

 宮子も軽く伸びをする。暑さのせいか、軽いめまいがした。

「ううん、あんたがロープをほどいてくれたから。あんた、強いんだね。ありがと」

 なんだかよくわからないけれど、自分は役に立ったらしい。

「大丈夫ですか? とかしてません?」

「ため口でいいって。あたしはみず。小六で、とうきようの学校に通ってるの。には、夏休みの間だけ来てるんだ」

「どうりで発音が違うと思った。あ、私も六年生で、柏木宮子です。この先のむろきようほんいんって神社に住んでます」

 同い年なのに大人っぽい雰囲気に気後れして、ですます口調になってしまう。

「宮子、か。まさに神社の子って名前だね。あたしのことは沙耶って呼んでよ。こっちに友達いないから、仲良くなりたいな」

 そう言って沙耶は、外国の女優を思わせる大きな口元に、はにかんだようなくぼを作って微笑ほほえんだ。やはり都会の子は品がある。歯どころかのどの奥まで見せて無防備に笑うクラスの子たちとは、全然違う。

 沙耶は身体からだの発育もいいらしく、水色のワンピースの胸元が風で押されるたびに、うっすらと二つの突起が浮かび上がる。見ている方が恥ずかしくなって、宮子はうつむいた。自身の体つきはのっぺりとして、まだまだブラジャーなど必要なさそうだ。

「ありがとうござい……じゃない。ありがと。私も、仲良くしたい。その……沙耶と」

 初対面の相手になれなれしい口をきくのは、居心地が悪い。特に「名前には呪力があるから、敬意を持って扱いなさい」という父の教えからすると、呼び捨ては抵抗がある。

 指先をもぞもぞさせていると、沙耶が笑い出した。

「宮子、すっごいキョドってる。目を合わそうとしないし、体揺れてるし。呼び捨ては慣れてない? じゃ、サーヤって呼んでよ。あだ名なら、気にならないでしょ」

「サーヤ……。ロシア人みたいで、かっこいい! うん、そうする」

 二人の間だけの特別な呼び名がうれしくて、自然と普通の口調になれた。呼応するように沙耶が笑う。大人びているのは外見だけで、中身はさっぱりしていそうだ。早熟な子はなんとなく怖い、というのは自分のへんけんだろう。

 まつ毛まで流れてきた汗を拭こうと、宮子はハンカチを取り出した。ずっと日向ひなたにいるから、暑くて仕方がない。

「サーヤも暑いでしょ。よかったら、うちへ遊びに来る? 何か冷たい飲み物でも出すよ。うるさい妹がいるけど、気にしなくていいから」

 沙耶は帽子もかぶっていないのに、汗ひとつかかず平然としている。

「ふうん、宮子は妹がいるんだ」

「サーヤは、きょうだいは?」

「いない。一人っ子なんだ」

 風が吹き、隣の家の庭木がざわざわと音を立てる。

「……せっかくだけど、今日はやめておくわ。そろそろ帰らなきゃ」

「え、もう?」

 思わずそう言ってしまったが、沙耶はさっきまで下半身を埋められていたのだ。早くシャワーで汗を流したいのかもしれない。

「そうだね。寄り道せずにまっすぐ帰らなきゃ、だね」

 受けを狙ったつもりはないのに、沙耶は大声で笑い出した。

「ハハ、宮子は真面目だねー。この辺っていまだに小学校も制服なのかぁ。宮子の真面目がエスカレートするわけだ。その分じゃ、一人で校区外に出たこともないんでしょ」

「そ、そんなことないよ」

「じゃあ、明日から夏休みだし、一緒にどっか行こうよ。いいとこ知らない?」

 宮子にも、行ってみたいところはある。隣の市にあるショッピングモール、サファイアタウンだ。

 親に連れていってもらった子たちが自慢しているのを漏れ聞いたところによると、いろいろなお店や映画館が入っているらしい。父が神社を留守にできることはめったにないから、もちろん行ったことはないのだけれど。

「このあたりだと、サファイアタウンかな。かわいいものとか珍しいものを売ってるお店がいっぱい集まったところなんだって。私も行ってみたいけど、隣の市だし……」

「おもしろそう! そこに決定!」

 宮子の言葉を、沙耶がさえぎる。

「え、でも……」

「校区外に子どもだけで行くなんて先生に怒られる? 親に言えない? 万引きするわけじゃないし、何が悪いの? 宮子だって、行ってみたいんでしょ?」

「うん、でも……」

 うつむいて口ごもる宮子を押し切るように、沙耶がつるひとこえを発した。

「決まり! 明日の一時に、ここで待ち合わせね。制服なんか着てきちゃダメだよ!」

 ちょっと待って、と顔をあげると、沙耶はもういなかった。

 道路に走り寄って両端を見渡したけれど、誰もいない。やっぱり今までのことは幻だったのかもと思ったけれど、沙耶の華やかな笑顔はしっかりと宮子の頭に焼きついている。

 走って帰っちゃったのか、実はトイレに行きたいのを我慢してたのかも、などと思いながら、宮子は絵筆を絵の具箱にしまい、荷物を拾い上げた。

 ──明日、お父さんに何て言って出てこよう。子どもだけで校区外へ行くなんて言ったら反対されちゃうよね。でもうそはダメだしなぁ。絶対に噓はつかないって、お父さんとの約束だし。ことだまとかなんとかって。……それより明日の言い訳はどうしよう。

 ごまかして出かけるのは後ろめたいが、宮子は少し、いやかなり嬉しかった。明日から夏休みだというのに、何の予定もなくて寂しかったのだ。

 友達が欲しい、小学校最後の夏休みくらい友達と過ごしてみたい。そう考えていたら、沙耶と出会った。

 偶然というより運命かもしれない。

 そんなことを考えているうちに、一の鳥居の前に着いた。陽の光と風雨にさらされて黒ずんだ木製のみようじんとりは、毎日くぐっていてもそのたびに背筋がシャンとする。

 宮子はていねいに一礼して中に入った。父や母がそうしていたからというより、俗界との第一の境界だと肌で感じられるから、自然とおをしてしまうのだ。

 自宅は、父がほうしよくしている三諸教本院の横にある。

 神社は、たいをたたけば天井が震えるくらい古くて小さく、父がかんちようとして一人で切り盛りしている。普通、神社でいちばんえらい人は「ぐう」というのだが、三諸教本院では「管長」という呼び名だ。アニメが好きな妹のすずは、この呼び方をとても気に入っている。どうやら「かんちよう」だと思っているらしい。

 申し訳程度だがちんじゆもりがあるので、参道は夏でも涼しい。鳥居の中に入るだけで、体感温度がまるで違う。

 宮子はたまじやを踏みしめながら、神社を囲うはくべいの前まで来ると、二の鳥居にあたるしんもんの所でもう一度深々と礼をした。第二の境界であるここから先はけいだい、つまり神域だ。

 裏手にある自宅用玄関へ回る前に、社務室にいる父に声をかけようとすると、下足場にが二足あるのに気づいた。一足はかなり履き込んだもの、もう一足は小さめの新品だ。

 そういえば今日から四泊五日間、ぎようじやさんとそのお弟子さんが滞在する予定で、宮子は食事の世話を頼まれていたのだった。その二人がもう到着したのだろう。

 行者のげんさいはよく三諸教本院を訪れるので、宮子も顔なじみだ。

 あいさつしていった方がいいかな、と宮子は靴箱の脇に荷物を置き、靴を脱いで古木の段をあがった。引き戸の向こうから、父と玄斎の声がする。戸を隔てたすぐが応接室なので、声が丸聞こえだ。

「で、宮子君は問題なく過ごしていますかな?」

 自分の名前が出たことに、どきりとする。戸にかけた手を引っ込めて、中の様子をうかがう。

「はい、おかげさまで」

「生まれつき見える者は、うまくコントロールできないと魔にかれたり、精神的に不安定になったりするからのう。宮子君はさんに似たんじゃな」

 田紀里とは、五年前にくなった母の名前だ。

 女性ではあるが、父と同じく神職だった。あさいろはかまをはき、一日に何度も竹ぼうきで境内を掃いていた。

「お母さんも、さんみたいにばかまはやを着てかぐを舞えばいいのに」と言ったことがある。りんとした雰囲気で整った顔立ちの母なら、巫女装束が似合うと思ったのだ。掃除のしすぎで、竹ぼうきが当たる指の付け根にタコができているのがかわいそう、という気持ちもあった。

 しかし母は、「お母さんは巫女じゃなくて神職だから巫女舞はしないの。大神様のいらっしゃるところを清浄に保つことが、とても大事な仕事の一つなのよ。それに、境内や参道で掃除をしていると、お参りに来られたご近所の方とお話しができるでしょう。それも大切なことなの」と笑って言った。

 口数は少ない方だったが、母は近所の人たちにとても慕われていて、いつも誰かしらが世間話をしに訪れていた。

 そんな母は時おり「今日は、車に乗らない方がいいですよ」「刃物の取り扱いに気をつけて」などと相手に声をかけることがあった。「おなかを調べてもらった方がいいですよ」と言われた人が、検査で初期のがんが見つかったとお礼に来たこともある。

 それ以来、「教本院の神主さんはしんたくをくださる」と評判になった。

「あの方は、おしゆうとめさんと気が合わなくてストレスが溜まっているし、少しへんしよくだから、胃が弱ってると思っただけなんですよ」と母は言い訳をしていたが、宮子は知っている。

 母は、普通の人には見えないものを見ることができたのだ。

 応接室から、父の声が聞こえた。

「努力しても見る能力がつかなかった私には、うらやましく思うこともあります。しかし、見えるゆえに妻も苦労をしましたので、宮子にはもう少しの間、このままでいさせてやりたいのです。……あんなこともありましたし」

 声をかけそびれた宮子は、聞き耳を立てた。

「あんなこと」とは何だろう。特別な出来事があったなら覚えているはずなのに。

 しばらくの沈黙の後、玄斎の声がした。

「境内にいる限りは安全じゃし、田紀里さんの形見も持たせている。とはいえ、そろそろも効きにくくなりますぞ。五年前お伝えしたように、心や体に変化があると、力を抑えるのが難しくなりますからな」

 首からさげているすいまがたまを、宮子はブラウスの上からそっと握った。母の形見だから肌身離さずつけるよう、父から言われている。

「しかし、宮子はまだ六年生ですし」

「もう、六年生ですぞ」

 父の言葉を、玄斎がさえぎる。

「娘のことをいつまでも子どもだと思い込みたい気持ちもわからんでもないが、女の子は成長が早い。特に霊力のある子は思春期前後になると、自分の力を制御しきれずに心身を病みがちじゃ。なるべく早く、自分で自分の力に折り合いをつけられるようにしてあげた方がよいですぞ」

 実は宮子にも、母と同じく「見る」力があった。

 以前は母が、宮子の「力」を適度にコントロールしてくれていたけれど、母がくなってからは、玄斎にお願いすることになったのだ。このままでは生きづらいだろうから、と。

 もう五年ほど、宮子は定期的にを受けて、普通の人には見えないもの──いわゆる霊やあやかしの類いを見えにくくしてもらっている。

 どうして「力」を抑える必要があるのかまでは、幼い宮子にはわからなかった。見えることで嫌な思いをした経験があるから、むしろ喜んで玄斎の加持を受けていたけれど。

すず、じっとしていなさい」

 ぱたぱたという足音に、父の声がかぶさる。六歳になる妹の鈴子が、じっとしていられずにうろうろしているのだろう。

 ちょうどいいタイミングなので、宮子は「失礼します」と声をかけて、引き戸を開けた。

 たたみの間に、父と玄斎が座っている。丸いぼんてんがついたゆいをかけた玄斎の格好は、漫画に出てくるカラスてんを思わせる。父は、白衣に紫のはかまだ。

「玄斎様、こんにちは」

 宮子は戸を閉めて正座し、頭を下げた。

「おお、宮子君か。今日は終業式じゃったな。せっかくの夏休みにすまないが、また五日間お邪魔するよ」

 玄斎は高名な行者なのだが、いつもにこにことして偉ぶったところがない。とはいえ小柄なたいからは、人を圧倒するような雰囲気がにじみ出ている。

 少し離れて座っているのが、弟子のようだ。てっきり大人が来ると思っていたのに、どう見ても宮子と同じ小学生だ。白衣のせいで、浅黒い肌がきわっている。

「これは、新弟子のかんじゃ。まだ小学六年生だが、来週、総本山でとくじゆかいさせようと思うておる。宮子君と同い年じゃし、仲良くしてやってくれるかのう」

 寛太と呼ばれた少年が、体ごと宮子の方を向いた。切れ長のさんぱくがんと目が合う。

 なんとなく視線をそらせずにいたら、彼が急に眼光を鋭くした。

 その瞬間、心の扉に手をかけられたような気がしてびくりとする。

 そんな宮子の様子に気づいたのか、寛太は視線をはずし、畳に手をついて頭を下げた。宮子も動揺を隠すように「よろしくです」とお辞儀を返す。

 さっきの感覚は何だったのだろう。同い年の男の子が家に泊まるからと意識してしまったに違いない。きっとそうだ。

 宮子があれこれと考えていたら、鈴子が隣に座って体当たりしてきた。

「寛太兄ちゃんのところも、うちと同じで、お母さんが死んじゃったんだって」

 宮子はあわてて耳打ちをした。

「そういうことは、言わないの」

 たしなめられた理由がわからないのか、鈴子が「なんでー」と無邪気な大声をあげる。

「こら、鈴ちゃん!」

 宮子は鈴子の太ももを軽くたたいた。

「かまいません。本当のことだから」

 ──あ、壁を作られた。

 棒読みのような寛太の口調に、宮子は思った。

 ていねいな物言いとは裏腹に、ここから先は立ち入るなというけんせいが伝わってくる。けれどもその壁の向こうには、言葉では表現できない激しい何かが感じられて、少し怖い。

「どれ、出かける前に、加持をしていこう」

 玄斎が立ち上がり、宮子と鈴子の前に立つ。じゆを持った手が、宮子の前に来て止まる。

「ん?」

 玄斎は、宮子の表情を確かめるように見た後、一歩動いて鈴子の前に立った。数珠を繰りながらしんごんを唱え、鈴子の頭と肩に数珠で軽く触れる。

「宮子君には、帰るときにしようかのう」

 そう言って玄斎は、寛太を連れて外出した。近くにあるしんたいさん・三輪山をはいしにいくのだ。明日以降は、玄斎は知人や信者宅を訪れて相談に乗ったり加持をしたりして、夜だけここに泊まる予定らしい。

 社務室の流しでみを洗いながら、宮子は父に話しかけた。

「寛太君って、私と同い年なんだね。……いきなり下の名前呼びって抵抗あるな。みようはなんて言うの?」

どう寛太君だ。彼はもう玄斎様の内弟子になって実家を出ているし、しゆつとくしたらほうみようで呼ぶことになるから、今は『寛太君』でかまわんだろう」

 湯吞みをすすぎ終え、タオルで手を拭きながらたずねる。

「じゃあ、あの子、玄斎様のいおりにずっと住むの? お母さんはくなってても、お父さんはいるんでしょ?」

 父が、あたりを見回す。鈴子が聞いていないか、確認しているのだろう。当の鈴子は、この時間はお気に入りのアニメをているはずだ。

「もちろん、いらっしゃる。だが、玄斎様のそばにいる方が息子のためになると、お父さんからも住み込みの内弟子になることをお願いされたそうだよ」

「でも、子どもを手放すなんて」

 周りを拒むような寛太の雰囲気は、そのせいかもしれない。

「寛太君のお母さんは、事件に巻き込まれて、あまりよくない亡くなり方をされている。それもあって玄斎様は、寛太君をそばに置いた方がいいとお考えなのだ。……宮子、親は子にとって最善の道を選ぼうとするものだ。手放して平気なわけじゃないんだよ」

 父が少し寂しそうに見えるのは、寛太の父親と自分が重なるからかもしれない。

 母が死んで間もないころの父を思い出す。

 慣れない手つきで作ってくれた父の料理を、宮子は「おいしくないし、お母さんの味と違う」と残した。言ってから、しまったと思ったが、父は悲しそうな顔をしただけだった。

 その夜、トイレに行こうとして、宮子は台所で料理の練習をする父の姿を見てしまう。神主は朝が早いのに、「ニンジンを先に入れて、キャベツは後」とつぶやきながら何度も本を確認してフライパンを動かし、丁寧に計りながら調味料を混ぜていた。

 父の料理の腕はだんだんあがり、あるとき宮子はお世辞抜きで「おいしいよ」と言った。ところが、今度は父がぽつりとつぶやいたのだ。

『それでも、お母さんの味とは違うなぁ』

 そのとき宮子はようやく、母が死んでつらい思いをしているのは、父も同じなのだ、という当たり前のことを思い知った。

 母のことが大好きな父が悲しんでいないはずはないのに、仕事と家事を必死にこなし、宮子と鈴子の世話をしてくれる父は、とっくに日常へ戻ったのだと考えていた。それは単に、悲しい気持ちを隠していただけだったのに。

 自分だけがそうしつかんを抱えていると思っていたことを、宮子は恥じた。その後大泣きしながら父と一緒に皿洗いをしたことを、今でも覚えている。

 その日から宮子は、専用の足台を置いて父と一緒に流しに立つようになった。神社の事務員のはらさんから料理を教えてもらい、今では一人で台所を仕切っている。

 一歳と六歳の娘二人を男手ひとつで育てるのは大変だからと、よしに住む母方の祖父母が自分たちを引き取ろうとしたということは、かなり後になってから聞いた。しかし、父はがんとして首を縦に振らなかったそうだ。

 父方の祖父母はすでに亡くなっていたため、母方の祖父母や近所の人に協力してもらいながら、父は自分たちを育ててくれている。

 寛太の父親も、無理をしてでも我が子を手元に置く方法はあったはずだ。それをおして玄斎に息子を託すということは、そうせざるを得ない事情があったのかもしれない。

「そうだね。きっとあの子のお父さんも、悩んだんだろうな」


 翌日、昼ご飯の片付けを終えたみやは、約束の時間より早く空き地に向かった。紺色のキュロットとプリントTシャツを着てきたけれど、よそ行きにすればよかったと後悔する。

 すずをまくのは大変だったが、宮子が「友達と遊びに行く」と言っただけで、父は快く送り出してくれた。いつまでっても宮子に友達ができないのを、ひそかに心配していたのだろう。行き先を言わずにすんでホッとしたが、それでも後ろめたさは感じてしまう。

「十分前行動! 宮子はやっぱり真面目だねぇ。あ、ちゃんと私服で来てくれたんだ」

 いつの間にかが空き地に現れた。昨日と同じ水色のワンピース姿なので、一瞬あれ? と思ったが、きっと同じ色の別物なのだろう。

「ホントに行くの? 先生に見つかったら、まずいことになるよ」

「あたしはこの校区の子じゃないもーん。大丈夫、見つかったら、親と待ち合わせしてますって言えばいいのよ。さ、早く。宮子が一緒じゃなきゃ行けないんだから」

 一緒に行きたいと言ってもらえるのは、素直にうれしい。

「どうやって行こう。サーヤ、自転車……は持ってないか。じゃあ、JRだね」

 電車がもうすぐ来るから、と宮子は早足で道路へと向かう。

「一時間に一本なんで乗り遅れると……ってあれ?」

 隣を一緒に歩いているはずの沙耶がいないことに気づき、宮子はあわてて振り返った。沙耶が戸惑ったような表情で、空き地と道路を隔てる溝の手前に突っ立っている。

「どしたの、サーヤ。早くおいでよ」

 そう言ったとたん沙耶は笑顔になり、勢いよく溝を跳び越して宮子の隣まで駆けてきた。

「電車の時間、大丈夫?」

「あと十分ないかな。急ごう!」

 早足で駅に向かう途中で、自転車に乗った女の子三人に遭遇する。すれ違いざまに「こんにちは」と声をかけたが、向こうは宮子をいぶかしげに見ただけだった。

 去っていく彼女たちを返り見して、沙耶がおもしろくなさそうに言う。

「なにあれ、感じ悪い。クラスの子?」

「うん」

「もしかして宮子、友達いない?」

 痛いところを突かれた。宮子は、いじめの対象ではないが、特に親しい子もおらず、教室ではいつも一人で本を読んでいる。

「……バレちゃったか。いじめられてるとかじゃないんだけどさ。なんか、避けられちゃうんだよね」

「それシカトじゃん。……身に覚えはないの?」

 ないわけではない。むしろ、ある。

 けれども、それを言ってしまうと、沙耶にまで嫌われるかもしれない。

「あ、そろそろ電車来ちゃう」

 宮子はごまかして、急いで駅舎へと入った。「かなはしえきまでだよ」と料金表を確認してきつを買っていると、ふみきりが鳴り出した。せんきようを走ってホームへ向かう。

 ちょうど入ってきた電車にあわただしく乗り込むと、すぐ後ろでドアが閉まった。

 すいた座席に並んで腰掛け、一息つく。よかった間に合った、と言いながら宮子が汗を拭いていると、沙耶が急に真顔になった。

「ねえ、宮子。さっきの話だけどさ。シカトされてるのに黙ってたら、余計になめられるよ。ガツンと言っちゃいなよ」

 沙耶が自分のことを真剣に心配してくれているのが嬉しい反面、どう説明したらいいのかなと宮子はしゆんじゆんする。

「ありがと。でも、あの子たちに避けられるのもしょうがないんだ。私、その……」

「……幽霊が見えちゃうから怖がられてる、とか?」

 ええ!? と宮子が思わず叫ぶと、沙耶が苦笑した。

「なーんだ、図星だったか」

 どうしてピンポイントでわかったのかと戸惑う宮子に、沙耶が続ける。

「あたしのママもちょっとだけ見えちゃう人で、周りから浮いてたし、なんとなくそうかなーと。宮子って、ママと似てるのよね。顔や性格じゃなくて、なんかいろいろ見透かしてるような目の感じが」

「そうなんだ。じゃあ、お母さんも苦労してるの?」

「うちのママは、見えたり見えなかったり自分の調子次第かな。でも、見たくないものを見ちゃったり、おばあちゃんからオカシイ人扱いされたりでつらいみたい。宮子は?」

 母親が見える人なら、沙耶には話しても大丈夫かもしれない。

「私は……今はもう見えなくなったんだけどね。幼稚園くらいのときは、生きてる人とそうじゃない人の区別がつかなくて、誰もいない席に『食べる?』っておやつを持っていったりして気味悪がられた。あと、私がいると他の子にも見えちゃうことがあって、ゆうしつにあるクマのぬいぐるみの目が、私がいるときだけギョロギョロ動くってみんなが泣き出したりしてさ。そんなことが続いちゃって、卒園まで誰も話しかけてくれなかったんだ」

 沙耶が笑い出す。

「そりゃあ、ぬいぐるみの目がギョロギョロ動いたら、ビビって避けるのも無理はないか」

「あ、ひどい。私だって、友達とおしゃべりとかしたかったんだから」

「ごめんごめん。そうだよね。宮子は悪くないのに。……親は、何も言わなかったの?」

 沙耶に心配をかけないよう、宮子はつとめて明るく言った。

「お父さんは、何があっても明るくあいさつさえしていれば、大抵のことはなんとかなるって。おかげで、いじめだけはまぬがれたかな。都会みたいにクラス替えがあればよかったんだけど、田舎は幼稚園も小学校も一学年一クラスしかないから、そのままずるずるきちゃったんだよね」

「でも、幼稚園のときのことで小六までずっとシカトって、ちょっと意地悪すぎだよ」

 沙耶になら理解してもらえる気がして、宮子は先を続けた。

「うちは神社だし、お母さんは霊能力があるって評判だったから、イメージが先行してたのかも。……それと、うちのお母さんは病気で急死したんだけど、死んだはずのお母さんと私が手をつないで参道を歩くのを見たって子がいたらしくて、りよう使つかいとかあだ名つけられてますます気持ち悪がられるようになっちゃった」

 間もなく金橋駅に着くと、車内アナウンスが流れる。

 降りるよ、と声をかけた宮子の肩を、沙耶の手がポンポンとたたく。

「あたしは宮子のこと、気持ち悪いとか思わないから」

 沙耶の言葉が嬉しくて、宮子はうっかり涙ぐみそうになってしまった。

「ありがとう、サーヤ」

 電車を降りると、サファイアタウンの大きな建物が見えた。炎天下を十分ほど歩き、ようやく目的地にたどり着く。自動ドアの中に入ると、館内の涼しさに汗が引いた。

「あー、気持ちいい!」

 近所のスーパーでもクーラーはきいているが、においが違うのだ。甘い香りが、フロア中に漂っている。

「いいにおい。香水かな?」

「たぶん、あれよ」

 沙耶が指さした店には、シャーベットピンクやミント色の四角いものが並んでいる。

「うわ、おっきなキャンディー。おいしそう!」

 沙耶が、手を打って笑い出す。

「あれ、せつけんだよ」

「ウソでしょ!?」と半信半疑の宮子が近寄って触ってみると、確かに石鹼だ。沙耶はまだ笑っている。

「そんなに笑わなくてもいいじゃん」

「ごめんごめん。でも、確かにおいしそうな色とにおいだよね」

 おしゃべりをしながら、端から順にウインドーショッピングをする。雑貨屋のぬいぐるみでアテレコをして遊んだり、文房具屋でかわいいノートを買おうかどうか迷ったり、「大人になったらこんなのを着たいね」と、ディスプレーされている服を着た未来の自分たちを想像したりするだけで、時間があっという間に過ぎていく。

 パワーストーンの店の前に差しかかり、沙耶が立ち止まった。

「あたし、こういうの好きなのよ。ほら、きれいでしょ。この深いピンク色の石はインカローズ。そっちの青いのはラピスラズリ。幸運を招く石って言われてるんだ。宮子は、パワーストーンとか興味ない?」

「よくわかんないけど、きれいでいいよね。私も、同じようなのは持ってるよ」

 そう言って宮子は、首にかけたひもを手繰りよせ、淡い緑色のまがたまを沙耶に見せた。

「あ、すいじゃん! いいなー。でも、なんで服の中に隠してるの?」

「お母さんの形見だから肌身離さずつけていなさいって言われたんだけど、学校はアクセサリー禁止でしょ。だから、服の中に隠すくせがついちゃった」

「そっか、お母さんの形見か」

 そうつぶやいて歩き始めた沙耶が、思いついたように振り返って言った。

「形見じゃないけど、私たちも何かおそろいのものを買おうよ! 身につけられるもの」

「おそろい……それ、すっごくいいね!」

 何にしようか二人で迷った末に買ったのは、オレンジ色の花がついた髪飾りだった。値段も手ごろだし、二人とも髪が長いから、ポニーテールにつければよく映えるだろう。

 つけ合いっこをしようと、二人でトイレに入る。宮子は無造作に束ねていた髪を、沙耶と同じポニーテールにしてもらった。

「宮子の髪、すっごくきれいだね。シャンプーのCMに出れそう」

 高い位置でくくった黒髪が揺れるたびに、光を反射したつやがなめらかに動く。褒められたのが嬉しくて、宮子ははにかみながら鏡に見入った。

「なんか、アイドルみたい。……サーヤでーす!」

 沙耶がふざけてポーズを決める。宮子も同じポーズをして「宮子でーす!」と言ってみた。髪形を変えて髪飾りをつけただけなのに、自分が沙耶のように明るくてイマドキの女の子になったみたいで、気持ちが華やぐ。

 本当は鈴子にも何か買ってあげたかったけれど、ここに来たことが父にばれてしまうと途中で思い直した。

 二人はおそろいの髪飾りをつけたまま帰りの電車に乗り、自宅最寄り駅の三輪駅へと戻った。プチ冒険が終わったのを名残なごり惜しく思いながら、家路を急ぐ。

「サーヤ、家はどこなの?」

 歩きながら宮子がくと、一瞬の間の後、沙耶が小声でつぶやいた。

「あの空き地の近く。今日はあそこで解散しよう。おばあちゃんが厳しいから見つからないようにしなきゃ。……うちの家、親が離婚したんだけど、原因はママのうわだったんだ。それでおばあちゃん、『こんな娘に育てた覚えはない、ご近所様に恥ずかしい』って、実家に帰ってきたママのこと追い出しちゃったの」

 宮子が返す言葉に詰まっていると、沙耶があわてて言い足した。

「あ、ママだけが悪いんじゃないのよ。パパだって、仕事仕事って、誰も知り合いがいない転勤先で、ママのこと放っておいたんだもん。パパの分のご飯を置いたテーブルの前で、夜遅くまでじぃっと待ってて、ママかわいそうだった。おばあちゃんは頭が固いから『娘に育てさせたら、この子までふしだらになる』とか言って、あたしのことを引き取ったの」

 しんみりし始めた空気を打ち砕くように、沙耶がおどけた口調で続けた。

「最初に言われたのが『ブラジャーしなさい』よ。あたし、小四くらいから胸がふくらんじゃったんだけど、『子どものくせに、ませている。このままじゃ、男を誘うようなどくになる』とか言うの。毒婦だよ、ドクフ。胸がふくれたのはあたしのせいじゃないのにさ。息苦しいし、ブラウスから透けると男子にからかわれるし、ブラジャーなんて大嫌い。キャミソールとか胸元の開いたかわいい服は全部取り上げられて、えりりのぴっちり詰まった地味な服ばっかり着せられるし、スカートもウエストゴムでダサいし、もう最悪!」

 胸が大きいと、いろいろ苦労も多いみたいだ。宮子は、真っ平らな自分の胸をありがたく思った。

「しつけもすっごい厳しくてさ。お客さんにお茶を出すでしょ、こぼしちゃったらもちろん、茶卓の木目が机に平行じゃなかっただけでも、後で説教されるの。言い訳なんてしようもんなら、『不倫なんかする親に育てられたから、根性が曲がってるんだ。たたき直さなきゃ』って、ものさしで手の甲を打つの。いつの時代よって感じでしょ? だからママが、再婚するから東京で一緒に暮らそうって迎えにきてくれたときは、迷わずついていった」

「……ひどい話。でも、今は東京で楽しく暮らしてるんだよね?」

 沙耶はそれには答えず、道路との溝をひょいっと跳び越えて空き地に着地した。

 宮子の方を振り向いた沙耶が、急に道路向こうへ目をやる。そこには、反対側から歩いてくるかんがいた。修行帰りなのだろう。

「お疲れさま」

 宮子は軽くしやくをした。寛太が立ち止まり、にらむような目でこちらを見ている。

「知り合い?」

 沙耶が小声でたずねてくる。

「うん。うちに泊まってるぎようじやさんのお弟子さん」

「ふうん」

 沙耶までが険しい顔をする。寛太に睨まれたのが気に入らないようだ。とりあえず、この二人を引き離さなくては。宮子は寛太の方を向き、極力明るく言った。

げんさい様と一緒じゃなかったの? 汗かいたでしょ。うちでシャワー浴びてきてよ」

 今度は沙耶に声をかけようと空き地の方を振り向いたが、どこにもいない。

「あれ、サーヤ? もう帰っちゃったんだ」

 次の約束をしたかったのに。宮子が仕方なく家へ帰ろうとすると、すれ違いざまに寛太から声をかけられた。

「どういうつもりだ、あんなのと付き合ったりして。かんちようさんが心配するぞ」

 校区外へ電車で行ったことが、ばれたのだろうか。耳がカッと熱くなる。

「ちょっと、『あんなの』って失礼ね! まあ、子どもだけで電車に乗ったのは悪かったと思うけど。見かけが大人びてるだけで、サーヤは不良じゃないよ」

 振り返った宮子の剣幕に驚いたのか、寛太が目を見開く。

「ああ、そうか。お前にはわからないんだったな」

「……何が?」

「いや、何でもない」

 きょとんとしている宮子を追い越し、寛太が一礼して鳥居をくぐり、さっさと参道へ入っていく。

 宮子も鳥居の前で一礼してから後に続いた。社務室にいる父に「ただいま」と声をかけて自宅へ戻る。そろそろ晩ご飯の支度をしなければいけない。

 しんせんのお下がりの野菜を見つくろって晩ご飯を作っていると、鈴子のせわしない足音が近づいてきた。

「あ、お姉ちゃん。その髪飾り、どうしたの?」

 しまった、見つからないうちに取ろうと思っていたのに、忘れていた。

「いいなー。鈴子も欲しい。ちょうだい!」

 宮子は振り向いて、鮮やかな色の髪飾りを妹の目から隠した。

「だめよ。これは、お姉ちゃんの。鈴ちゃんは髪が短いから、まだつけられないでしょ」

 煮物がチリチリと煮詰まる音がする。宮子はあわててコンロの火を切った。

「ずるい、お姉ちゃんだけ。鈴子も、欲ーしーいー!」

 鈴子がをこねる声に炊飯器のブザーがかぶさり、いらいらを募らせる。

「もう、うるさい! そんなことより、お皿並べるの手伝ってよ」

 つい口調がきつくなった。とたんに、鈴子が大声で泣き出してしまう。

「ごめん、ごめん。じゃあ、同じようなのを作ってあげるから」

 顔をくしゃくしゃにして泣く鈴子を、宮子は必死でなだめた。

 やっぱり、何かおみやげを買ってくれば良かった。父は男親だから、かわいいものには気が回らない。妹はアニメの影響で宇宙船やロボットが好きなのだと思っていたけれど、髪飾りやアクセサリーにも興味があったのだ。

 声を聞きつけて、父が入ってきた。

「どうしたんだ」

 鈴子が父の元に走り寄って、白衣の袖を引っ張る。

「鈴子も髪飾りが欲しいのに、お姉ちゃんだけ、ずるいの」

 父の目線が、宮子の頭へと移動する。

「初めて見る髪飾りだな。買ってきたのか?」

 父の口調は、特に怒っている風でもないが、後ろめたさの分だけしゆくしてしまう。

「はい。お小遣いで」

「どこで?」

 日頃から「うそはつくな」と教えられているから、ごまかせない。

「……サファイアタウン」

「あんな遠くまで行ったのか? 誰と?」

 とっさに、沙耶のことは言わない方がいいと思った。もし、彼女のおばあさんに知られたら、沙耶がせつかんされるかもしれない。

 口を閉ざしていると、父が静かに促した。

「別に、怒ろうというわけじゃない。ただ、先方の親御さんに会ったら、あいさつくらいしなきゃいかんだろう」

「それはやめて! サーヤが怒られちゃう」

「サヤちゃんというのかね。どこの子だい?」

「あ……」

 思わず手で口をふさいだが、もう遅い。宮子は観念してうなだれた。

みず沙耶ちゃん。家は知らないの。東京に住んでるけど、夏休みだからおばあさんの家にいるんだって」

 父は「水野」という名前を何度かつぶやいた。

「その水野沙耶ちゃんは、宮子の友達なんだな」

「はい。……サーヤは悪くないの。だから、おうちの人には黙っててあげて。おばあさんが、ものさしで手の甲を打つんだって」

 父は難しい顔をして考え込んでいたが、拍子抜けするほどすんなりと言った。

「わかった。今度だけは黙っておこう。ただしこれからは、誰とどこへ行くか、前もって言ってから出かけるんだぞ」

 父が、かがみ込んで鈴子を抱き上げる。

「鈴子には、お父さんが髪飾りを買ってやろう。来週、手伝いの神職さんが来るから、ここを空けられる。サファイアタウンに行ってみるか」

 鈴子が歓声をあげる。緊張が解けて、宮子は思わずため息をついた。

「そろそろ玄斎様が戻ってこられるぞ。お父さんはたまに御飯を供えてくるから、鈴子はお皿を並べて。宮子、おかずを頼むぞ」


 次の日、みやはちゃんと父に断ってから、空き地へと向かった。

 電話帳を調べたけれど、この近所にみずという家はなく、またに会うにはあそこで待つしか思いつかなかった。塀の陰に座っていると、沙耶がひょっこりと現れる。

「ふふ、宮子見ーつけ」

「サーヤ! よかった、会えて。昨日、大丈夫だった? おばあさんに怒られなかった?」

 手をひらひらとさせて沙耶が笑う。

「ダイジョブ、ダイジョブ。宮子の方は? もしかして怒られちゃった?」

「ううん、怒られはしなかったけど、サファイアタウンに行ったのバレちゃった。妹がこの髪飾りに気づいて」

 宮子は、頭につけたオレンジの髪飾りを指さした。

「そっか。女の子はやっぱり鋭いね」

「で、ごめん。サーヤのこと、お父さんに言っちゃった。絶対家族の人に声をかけないで、とは言っておいたけど」

 沙耶の顔が曇る。

「……お父さん、神主なんだっけ」

「うん。もしかしてサーヤの家、うちの信者さん?」

 沙耶が答えずに後ろを向く。

 やはり沙耶は昨日、おばあさんに怒られたり意地悪をされたのではないだろうか。だって、今日も水色のワンピースを着ているのだ。形違いではなく、昨日とまったく同じ服を。

 どう声をかけようか迷っていると、沙耶が振り向いて笑った。

「じゃあさ、今日は近場で遊ぼう。宮子のお気に入りの場所に連れていってよ」

 沙耶の笑顔はくつたくがなく華やかで、つらいことなどないように見えてしまう。

「どこかあるでしょ。昔、基地とか作らなかった?」

 小さいころは、お気に入りのほらあなを秘密基地と名付けて、一人で遊んだものだ。男の子たちに占領されてからは、行かなくなったけれど。

 こう暑くては、みんな家でゲームでもしているだろう。今なら誰もいないかもしれない。宮子が洞穴のことを言うと、沙耶は目を輝かせた。

「あたし、洞穴って見たことない。よし、秘密基地に行こう!」

 探検隊結成! と二人ではしゃぎながら、秘密基地へと向かう。

 坂道をあがり、畑の横から山道に入る。人ひとりが通れるくらいの幅しかなく、土と同化しかけた枯れ葉が両脇に積もっていた。太陽の光が木々にさえぎられた道を、宮子と沙耶は前後になって進んでいく。角を曲がると、硬い岩肌に開いた洞穴に着いた。

「ここだよ。ひんやりしてて、なんだか落ち着くんだー」

 入り口は、少しかがめば十分入れる高さだ。沙耶も恐る恐る、後からついてくる。

「わあ、洞穴って、初めて入る。無人島の洞窟で暮らすお話があったじゃん。あれを思い出すなぁ」

「じゃあ、今からここは無人島の洞窟で、私たちのね。この明るいところが居間で、奥のくぼみがベッド」

「へー、ベッドまであるんだ。どれどれ」

 沙耶が、横穴に入り込む。

「二人だとちょっと狭いかな。宮子もおいでよ」

 手探りで横穴を確認し、体を滑り込ませる。沙耶の隣に膝を抱えて座ると、ちょうど穴がいっぱいになった。

「やっぱり、ベッドにするには狭いね」

 光の入らない横穴は暗く、沙耶の輪郭がうっすらとしか見えない。

「ねえ。サーヤは、暗いところで光の粒が見えたりする?」

「光の粒?」

「うん。私ね、暗いところだと、いろんな色の光の粒が見えるんだ。でね、それを自分の思い通りの形に動かせるの。赤い粒をバラの花にしたり、白い光で羊を作ったり」

 宮子の「力」は弱められてはいるが、光の粒を見たり操ったりする力は、無害だからかこれまで通り使えるのだ。

「……私って変かな」

 おずおずとたずねる。沙耶の表情は見えないが、拒絶するような雰囲気は感じられない。

「変じゃないよ。幽霊が見えるくらいなんだから、今さら驚かないって」

「ホント?」

「ホントだってば。……ね、試しにちょっと見せてよ、その光の粒を操るっての」

 沙耶にそう言ってもらえるのは嬉しい。けれども、何も見えなければやはりガッカリされるのでは、と宮子は不安になった。

 幼稚園児のころ、宮子はしやこうカーテンで部屋が真っ暗になったときに、隣の子に「ほら、まいだよ」と言って、光で獅子舞を作って見せたことがある。けれどもその子は困った ような顔で「どこ?」と首をかしげた。

 鈴子にも父にも光の粒は見えない。今までにこれが見えたのは、死んだ母だけだ。花や動物を作って遊んでいると「かわいいね」と笑ってくれた。

 嫌われたくないという気持ちと、沙耶なら見えても見えなくても気味悪がったりしないだろうという期待を込めて、宮子は黄色い光の粒を集めて星を作った。それを尾を引かせながら、沙耶の方へ飛ばしてみる。

「あ、流れ星発見!」

「え……サーヤ、見えるの!?」

 驚きのあまり宮子が腕に触れると、沙耶がフフッと笑いながら言った。

「ママが見える人だからかな、あたしもこのくらいなら見えるんだ、実は」

「ウソ、どうしよう、すっごい嬉しい! 今まで馬鹿にされたことしかなかったから」

 ようやく自分のことを気持ち悪がらず、しかも同じ感覚を持つ友達ができたのだ。宮子は喜びのあまり、猫が甘えるみたいに沙耶の肩へ頭をもたせかけた。

 今度はケーキを作ってみる。これは立体感を出すのが難しいのだ。

「あ、イチゴショート。食べちゃえ。……うわ、苦い! 宮子、光の粒って苦いよ」

 沙耶がくすくすと笑う。

「よーし、とっておきのを見せちゃう!」

 宮子はイギリスのこのへいの連隊を作った。黒い光はないから、大きな帽子はあいいろだ。ちゃんと足を左右交互に動かしながら、足並みをそろえて行進させる。眠れない夜などに練習して、ようやく十二人編成で動かせるようになったのだ。

「すごい、隊列を崩さずに歩いてる。こんな技ができるなんて、やっぱり宮子は強いね」

 沙耶の手が宮子の首に触れてきた。

 夏だというのに冷たい指だ。暗いから、腕と間違えているのだろう。

「ずっと、気味悪がられたり遠巻きにされたりで、寂しかったんだ。サーヤが友達になってくれて、ホントに嬉しい」

 首に置かれた沙耶の指に、力がこもった。

 血がのぼり、頭のしんが締めつけられる。「苦しい!」と言う間もなく、宮子の意識は薄れ、暗闇に同化した。

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