片鱗と逆鱗 -ζ

 ゼドが低い声で、シーナに取引を持ち掛けた。


「お前の味方を、殺さないようにしてやる」

「おい!」


 間髪あけず、アミィがゼドの言葉を遮るように声を荒げた。そして、ゼドの肩を乱暴に掴む。刹那的に跳ね火がばちばちっと音をたて、白煙があがった。微かに皮膚の焦げた匂いがする。


「どうかしてるよゼド! お前が敵を殺さずにいられるもんか!」

「努力くらいはしてやっていい」


 はっ、とアミィは侮蔑ぶべつ滲む息を零す。


「ヨルムンガンドは破壊に惹かれ、災いをもたらす魔神だ。災いに死はつきもの……覚えているのか、お前の魂は死と共にあるということを」

「それでも」


 ゼドがアミィの手を振り払った。睚眦がいさいがアミィを穿つらぬく。 

 その時、おそれが身を打ち据えた。

 この少年には、凍てついた水がそそがれているのだろうか。他者の口を噤ませるほどのなにかが、膝をつかせ、服従を促す。


「契約ならば文句はないだろう」

「果たせもしない契約なんぞ、はなからするもんじゃねーぞ」


 フェンリルがあくび混じりに口を挟んだ。


「こいつが、対価になり得る利益を差し出せるとでも言うの。冗談でしょ」


 早口でそう言い放ったアミィは、シーナを睥睨へいげいする。


愚図ぐず鈍間のろまで……こんなにも弱い娘が?」


 舌鋒鋭いアミィと俯くシーナ、落ち着き払ったゼドの間を、イブリースの視線がゆっくり行き来した。幾許いくばくか、彼はこの状況を楽しんでいるように思える。彼にとっても、愉楽ゆらくは深ければ深いほど好ましい。


「待て」


 膠着しかけた状況に一石が投じられた。優しい声音のそれは、ザリチュの発したものだった。

 やわぬくい。穏やかなようであって、静かに胸に剣を突き立てられているような、尋常ならざる気配がする。 


「面白いかもしれない。試すだけならばこちらに損害はないさ」


 仁王立ちするアミィの背後から、ザリチュが絡みつくように身を寄せ、囁いた。産毛を撫でた吐息が、アミィの細い髪を揺らす。肩越しにゼドを見る、ザリチュの愉悦に充ちた表情は霖雨りんうのように陰険な真意を隠していた。ただ、冴え冴えと輝く月光のような眼差しだけが、情緒の支配を受けずにいる。


「取引の内容を聞こうじゃないか」


 ザリチュの言葉に、ゼドはシーナを振り返った。

 くさびを打ち込まれたかのように、シーナは微動だにできなかった。


「仲間の命と、シーナ、お前の力の顕現が引き換えだ」


 ザリチュは「へえ」とだけ零し、続きを促した。長い爪で顎を掻いたせいで、爪の先に蜂蜜色の血が付いている。


「こいつの豊穣の力で、インフェルノの土地を復活させようと?」


 アミィが哄笑する。


「ああ。この枯れ野を、お前の力で肥沃の大地に変えてみせろ」

「ベルがやっていたことと同じだね」


 いつの間にか本を読み終えていたイブリースが口を挟む。


「メフィストに大口を叩いていたろ」

「聞いていたの」


 ゼドがにやりと意地悪に笑った。彼が心から嬉しそうに笑うことは、珍しいことだ。そんな彼とは対称的に、シーナは決断できずにいた。だがしかし──。


「イェスか」


 脳にまで響く声が、いつになく熱を帯びている気がする。


「ノーか」


 問うゼドのひとみは、首を振ることを許してなどいない。

 彼から与えられた答えの中に、取引をする選択肢がうに残っていないことなど分かっていた。恐怖と希望とのせめぎ合い。考えのまとまらない答えは、喉の道を塞ぐ重石のようだ。息がつかえて、胸が苦しい。

 「腰抜けめ」アミィの口が罵っている。「阿呆」とフェンリルの溜息が聞こえてくる。

 ゼドの指揮するプレリュードに乗せられて、どこか恐ろしいところへと向かう音符を一音ずつ、そして寸分の狂いなく踏み抜いていっている気がする。

 シーナは口を開いた。それはまるで、くるみ割りの人形のようだった。必然に近しい蓋然がいぜん的答えが舌先に触れた瞬間、溶けて、それから流れるように落ちた。

 ゼドがにやりと笑った。美しい笑みだった。

 アミィがシーナにペンを握らせた。


「仲間の命だけで足りるかな」


 そう言いながら。

 シーナが書面に名を刻むと、ザリチュがどこからともなくナイフを取り出し、ゼドの指の腹を切った。それから、シーナの方に手のひらを差し出す。


「さあ」


 恐る恐るシーナが手を重ねると、音もなく指先に血が膨れ上がった。

 ザリチュが契約書を顎で指す。

 シーナはゼドを見た。感情の読めない赤い眸と目があう。しかしその瞬間、不思議とシーナの中でくすぶっていた憂いが少しだけ晴れた気がした。


「邪神ゼドへの献身の誓いと賛美を」


 最早、戻れぬところまで来てしまった。

 肉体を有する悪魔悪神の臨席する場で、契約は行われる。善なる神々への忠誠を撤回する行為だ。ヘヴンではこう言われている。悪なる者への信奉は日々捧げてきた礼拝を否定し、洗礼で賜わった美しい心を穢す行為だ、と。


「こちらへ」


 奇しくも、窓ガラスから射し込む光は、ヘヴンの礼拝堂を思い起こさせた。ただ、外の光はゆっくりと深い色へと沈んでいく。

 ゼドがシーナに近寄って頬に片手を添え、シーナの額に爪をかけた。小さな痛みが走ったのは一瞬。ゼドが額に口づけをする。

 唇を離したゼドの喉が上下した。血を飲まれたのだと、その時わかった。

 イブリースが小瓶をザリチュに手渡す。ザリチュが瓶栓を抜くと、吐き気を催すほど濃い匂いが広がった。濁った水がザリチュの手によって、低くしたシーナの頭に振りかけられる。


「邪神ゼド名においてなんじに洗礼を授ける。にえを捧げよ」

「贄? そんなの聞いていないわ」

「契約に贄はつきもの。当然であろう」


 ザリチュが笑う。シーナはハッとした。

 ああ、ここにいる者達はあくまでも協力者、絶対的味方などではないのだ。


「私が生贄です」


 シーナはゼドを見据える。


「私の持ちうる贄は我が身ひとつよ」


 へえ、とでも言うように、彼の眉が動く。

 二つの署名と血判が押された契約書を見て、ザリチュが満足げに呟いた。


「取引成立だ」


 イブリースから受け取った布で、シーナが濡れた髪を拭いていると、フェンリルがシーナの傍に来た。


「安心しろ。仲間が全員死ぬことになっても、お前が捧げるのは精々せいぜい人間一人分の生命いのちさ」


 血の契約。

 果たされなければ、人間一人分の命が散る、悪魔の契約の中では比較的やさしいものであった。



 †



「むやみに邪神と取引をしたな。愚かしい」


 午睡ごすいから目醒めたばかりの男が、少女にそう言った。

 しっとりとした夜空には雲ひとつない。だが直に、ここにも土砂の雨が降るだろう。

 岩の上に座っていたシーナは抱えていた膝を崩し、後ろを振り返った。燕尾服を着た悪魔、メフィスト・フェレスが、鬱蒼とした林の中に立っていた。派手に装飾された仮面さえも闇に溶け、深沈と耽ゆく夜の翳に寄り添うように佇む彼は、人とも神ともとれぬ姿をしているように見えた。瞬きをする。再び目を開いた時にはもう、見覚えのある冷笑を浮かべたメフィストが、ステッキをつきながらシーナの方に向かって歩いて来ていた。乾いた喉から変な音が出る。


「ご機嫌麗しゅう。小さな女神よ」


 生い茂る草や木の根が、彼を避けるように曲がってはしおれていく。生気を奪われ変色した花や葉が、彼の靴の下でパキリパキリと音を奏でた。


「……ご機嫌よう、フェレス卿」


 メフィストはシーナの隣に立つと、同じように景色に目を向けた。月白げっぱくの面輪はまるで死人のそれだ。


「上位の魔性の者と取引できるのは、稀なこと。誇るが良い」


 誰から聞いたのだろう。メフィストはシーナとゼドの取引について、全てを知っている口振りだ。


「取引せざるを得なかったのよ。完全に掌の上で転がされていたわ」

「ふむ。だが、最良の策だとも思えるがね。寧ろ、喜んで然るべきであろう。良い博打を打ったな」

「喜んでいるのは、あなたのほうじゃない。……でも、確かに。その通りね」

「では何故、そのように曇った顔をする。お前の意思で契約を交わしたのであろう?」


 メフィストが一歩前に出る。近くの幹が彼を避けるように変形した。頭を垂れた枯色の花弁が、はらはらと零れた。


「豊穣の力なんて……ましてやこの地を全て潤す力なんて私は持っていないのよ。数日でインフェルノの地を癒やし肥やせる自信がないの」


 シーナは身体に寄せた膝に、額をつけた。それを、メフィストがけらけらと笑う。陰険な質はあいも変わらず健在なようである。


「ああ、可哀想な乙女おとめ


 彼の言葉は道具に過ぎない。人間や善なるものをあやし、誑かし、誘う為のもの。見てくれだけは上等な、無慈悲で空っぽのガラクタ。

 道具を手に、肉體にくたいに横たわる本能を墓荒しの如く暴き、毒に浸して、美しいと愛でる。


「私が手助けをしてやろうか」

「結構よ」


 おや、と小さく反応した後、仮面の奥の瞳が弧を描く。


「悪魔とこれ以上契約するなんて、たまったもんじゃないわ」

「浅ましい夢を対価においそれと契約した癖、警戒心が強いのだな」

「あなたはどこか怪しく見えるのよ」

ゼドやつも相当怪しいと思うが」


 メフィストは悠々と続ける。


「では、自分自身で解決するしか道はない」

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聖書を牙で裂く 南雲 燦 @SAN_N6

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