片鱗と逆鱗 -ζ
ゼドが低い声で、シーナに取引を持ち掛けた。
「お前の味方を、殺さないようにしてやる」
「おい!」
間髪あけず、アミィがゼドの言葉を遮るように声を荒げた。そして、ゼドの肩を乱暴に掴む。刹那的に跳ね火がばちばちっと音をたて、白煙があがった。微かに皮膚の焦げた匂いがする。
「どうかしてるよゼド! お前が敵を殺さずにいられるもんか!」
「努力くらいはしてやっていい」
はっ、とアミィは
「ヨルムンガンドは破壊に惹かれ、災いを
「それでも」
ゼドがアミィの手を振り払った。
その時、
この少年には、凍てついた水が
「契約ならば文句はないだろう」
「果たせもしない契約なんぞ、
フェンリルがあくび混じりに口を挟んだ。
「こいつが、対価になり得る利益を差し出せるとでも言うの。冗談でしょ」
早口でそう言い放ったアミィは、シーナを
「
舌鋒鋭いアミィと俯くシーナ、落ち着き払ったゼドの間を、イブリースの視線がゆっくり行き来した。
「待て」
膠着しかけた状況に一石が投じられた。優しい声音のそれは、ザリチュの発したものだった。
「面白いかもしれない。試すだけならばこちらに損害はないさ」
仁王立ちするアミィの背後から、ザリチュが絡みつくように身を寄せ、囁いた。産毛を撫でた吐息が、アミィの細い髪を揺らす。肩越しにゼドを見る、ザリチュの愉悦に充ちた表情は
「取引の内容を聞こうじゃないか」
ザリチュの言葉に、ゼドはシーナを振り返った。
「仲間の命と、シーナ、お前の力の顕現が引き換えだ」
ザリチュは「へえ」とだけ零し、続きを促した。長い爪で顎を掻いたせいで、爪の先に蜂蜜色の血が付いている。
「こいつの豊穣の力で、インフェルノの土地を復活させようと?」
アミィが哄笑する。
「ああ。この枯れ野を、お前の力で肥沃の大地に変えてみせろ」
「ベルがやっていたことと同じだね」
いつの間にか本を読み終えていたイブリースが口を挟む。
「メフィストに大口を叩いていたろ」
「聞いていたの」
ゼドがにやりと意地悪に笑った。彼が心から嬉しそうに笑うことは、珍しいことだ。そんな彼とは対称的に、シーナは決断できずにいた。だがしかし──。
「イェスか」
脳にまで響く声が、いつになく熱を帯びている気がする。
「ノーか」
問うゼドの
彼から与えられた答えの中に、取引を
「腰抜けめ」アミィの口が罵っている。「阿呆」とフェンリルの溜息が聞こえてくる。
ゼドの指揮するプレリュードに乗せられて、どこか恐ろしいところへと向かう音符を一音ずつ、そして寸分の狂いなく踏み抜いていっている気がする。
シーナは口を開いた。それはまるで、くるみ割りの人形のようだった。必然に近しい
ゼドがにやりと笑った。美しい笑みだった。
アミィがシーナにペンを握らせた。
「仲間の命だけで足りるかな」
そう言いながら。
シーナが書面に名を刻むと、ザリチュがどこからともなくナイフを取り出し、ゼドの指の腹を切った。それから、シーナの方に手のひらを差し出す。
「さあ」
恐る恐るシーナが手を重ねると、音もなく指先に血が膨れ上がった。
ザリチュが契約書を顎で指す。
シーナはゼドを見た。感情の読めない赤い眸と目があう。しかしその瞬間、不思議とシーナの中で
「邪神ゼドへの献身の誓いと賛美を」
最早、戻れぬところまで来てしまった。
肉体を有する悪魔悪神の臨席する場で、契約は行われる。善なる神々への忠誠を撤回する行為だ。ヘヴンではこう言われている。悪なる者への信奉は日々捧げてきた礼拝を否定し、洗礼で賜わった美しい心を穢す行為だ、と。
「こちらへ」
奇しくも、窓ガラスから射し込む光は、ヘヴンの礼拝堂を思い起こさせた。ただ、外の光はゆっくりと深い色へと沈んでいく。
ゼドがシーナに近寄って頬に片手を添え、シーナの額に爪をかけた。小さな痛みが走ったのは一瞬。ゼドが額に口づけをする。
唇を離したゼドの喉が上下した。血を飲まれたのだと、その時わかった。
イブリースが小瓶をザリチュに手渡す。ザリチュが瓶栓を抜くと、吐き気を催すほど濃い匂いが広がった。濁った水がザリチュの手によって、低くしたシーナの頭に振りかけられる。
「邪神ゼド名において
「贄? そんなの聞いていないわ」
「契約に贄はつきもの。当然であろう」
ザリチュが笑う。シーナはハッとした。
ああ、ここにいる者達はあくまでも協力者、絶対的味方などではないのだ。
「私が生贄です」
シーナはゼドを見据える。
「私の持ちうる贄は我が身ひとつよ」
へえ、とでも言うように、彼の眉が動く。
二つの署名と血判が押された契約書を見て、ザリチュが満足げに呟いた。
「取引成立だ」
イブリースから受け取った布で、シーナが濡れた髪を拭いていると、フェンリルがシーナの傍に来た。
「安心しろ。仲間が全員死ぬことになっても、お前が捧げるのは
血の契約。
果たされなければ、人間一人分の命が散る、悪魔の契約の中では比較的
†
「むやみに邪神と取引をしたな。愚かしい」
しっとりとした夜空には雲ひとつない。だが直に、ここにも土砂の雨が降るだろう。
岩の上に座っていたシーナは抱えていた膝を崩し、後ろを振り返った。燕尾服を着た悪魔、メフィスト・フェレスが、鬱蒼とした林の中に立っていた。派手に装飾された仮面さえも闇に溶け、深沈と耽ゆく夜の翳に寄り添うように佇む彼は、人とも神ともとれぬ姿をしているように見えた。瞬きをする。再び目を開いた時にはもう、見覚えのある冷笑を浮かべたメフィストが、ステッキをつきながらシーナの方に向かって歩いて来ていた。乾いた喉から変な音が出る。
「ご機嫌麗しゅう。小さな女神よ」
生い茂る草や木の根が、彼を避けるように曲がっては
「……ご機嫌よう、フェレス卿」
メフィストはシーナの隣に立つと、同じように景色に目を向けた。
「上位の魔性の者と取引できるのは、稀なこと。誇るが良い」
誰から聞いたのだろう。メフィストはシーナとゼドの取引について、全てを知っている口振りだ。
「取引せざるを得なかったのよ。完全に掌の上で転がされていたわ」
「ふむ。だが、最良の策だとも思えるがね。寧ろ、喜んで然るべきであろう。良い博打を打ったな」
「喜んでいるのは、あなたのほうじゃない。……でも、確かに。その通りね」
「では何故、そのように曇った顔をする。お前の意思で契約を交わしたのであろう?」
メフィストが一歩前に出る。近くの幹が彼を避けるように変形した。頭を垂れた枯色の花弁が、はらはらと零れた。
「豊穣の力なんて……ましてやこの地を全て潤す力なんて私は持っていないのよ。数日でインフェルノの地を癒やし肥やせる自信がないの」
シーナは身体に寄せた膝に、額をつけた。それを、メフィストがけらけらと笑う。陰険な質はあいも変わらず健在なようである。
「ああ、可哀想な
彼の言葉は道具に過ぎない。人間や善なるものをあやし、誑かし、誘う為のもの。見てくれだけは上等な、無慈悲で空っぽのガラクタ。
道具を手に、
「私が手助けをしてやろうか」
「結構よ」
おや、と小さく反応した後、仮面の奥の瞳が弧を描く。
「悪魔とこれ以上契約するなんて、たまったもんじゃないわ」
「浅ましい夢を対価においそれと契約した癖、警戒心が強いのだな」
「あなたはどこか怪しく見えるのよ」
「
メフィストは悠々と続ける。
「では、自分自身で解決するしか道はない」
聖書を牙で裂く 南雲 燦 @SAN_N6
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