片鱗と逆鱗 -ς

「点在する湖は下の方で繋がってんだ」


 空にて夜を告げる色の光が、湖水こすいの中をうねっている。シーナの口かられる吐息は水晶のように固くなり、たちどころに黒鉄くろがね色に変じた。水鞠みずまりは雪をあざむき、渾々こんこんと入り混じる涓滴けんてき驟雨しゅうう擬態ぎたいはかりごつ。

 肺腑はいふの底にこびりつく、愛慾あいよくに似たにおいがする。

 菌糸きんしの湧く湖、幻覚を見せる湖、毒素で満ちた水中洞窟、星屑ほしくず滝壺たきつぼ、無限への泉。幾つもの湖を通り過ぎ、海へと辿り着く。静淵せいえんへと向かう海流に乗じ、食い千切られた肉片や異臭を放つ血塊けっかいが混ざりあい、不気味な啼声ていせいが海中を漂っていた。

 珍妙な生き物達が自由気儘に泳いでいる。目を疑うような現象が、至る所で絶えず起きている。正に奇奇怪怪ききかいかいうみの広さを知る。


「絵に描いたような綺麗さだけで、波風立たねえ海なんてつまんねえだけだ。波立つ荒海の方が断然楽しい。可笑しな奴等がうじゃうじゃいる方が面白え。なんつーか、ぞわぞわすんだよ。無性にたぎって仕方ねえんだ」

「この海を見たら、興奮するのもわかる気がするわ」

「お! わかってくれるか!」


 シーナの返答に上機嫌になったのか、リヴァイが更に加速した。


「きゃー! 速いわ!」


 けらけらと笑って、リヴァイの耳許に口を寄せたシーナは、海鳴りに負けぬ大声で続ける。


「それにね! 貴方の傷はセクシーよ!」

「ありがとよ!」


 リヴァイがぐるりと一回転した。


「これは勲章みてぇなもんだ。シーナも、男を選ぶ時は傷の多い男にしな!」

「あははは! そうするわー!」


 シーナを乗せ、彼は海を何度も低徊ていかいしてくれた。バクナワやレイン・クロインなどの海竜かいりゅうと並走したり、神アペプに襲われかけたり。リヴァイが最も警戒しているという海の悪魔には運良く遭遇しなかったが、次々襲い来る未知と危険スリルに、シーナは高揚していた。そして、湖の中とはにわかに信じ難い世界を、満足いくまで翫賞がんしょうしたのだった。


「おかえり」


 イブリースは岩の上で書物を読んでいた。火酒かしゅくゆらし、片手でページをめくるその姿はまるで、絵本のなかの王子様のようである。だが、よく見れば懸衣は血で汚れ、かたわらには絞め殺された怪鳥が数羽横たわっていた。御伽話おとぎばなしどころか、残虐猟奇なスプラッターである。


「どうだった?」

「す……っごかったわ!」

「すっごかったって、シーナちゃん」


 息急き切って、こみ上げた感情を一気にまくし立てるシーナを、本を閉じたイブリースが肩を揺らして笑う。彼がこういう笑いをする時は、とを揶揄っているのだと、シーナも分かるようになっていた。


「えっと、すごく広くて綺麗で、初めて見る生き物ばかりで、その、あとはね……」


 水の中の絶景を表現するのに、月並つきなみな言葉を並べるしかないことを、シーナは歯痒く思った。だが同時に、この稚拙な言葉が寧ろ、胸いっぱいの感動を伝えるのに最適な言葉に思えもてきたのだから不思議である。

 インフェルノは面白い。自然も、神も魔物も人間さえも、言葉も文化も全部全部、面白い。この世界の美というものにも触れたらきっと、天も黙してしまうに違いない。


 猟りに行くと言うリヴァイに別れを告げ、イブリースと共に家に戻ると、ゼド達は議論の真っ最中であった。渦中かちゅうの話題は、シーナの帰還計画から大きく逸脱いつだつしているようだった。


「ずっと話し合っていたのかしら。熱心ね」


 イブリースに身を寄せ、シーナがこそっと耳打ちすると、彼はかぶりを振る。


「あれは喧嘩だよ。議論などという上質なものではない」

「喧嘩なの? これが」

「剣闘試合でも観ていると思えばいい」


 イブリースの持つ彩文さいもん水瓶みずがめ。その輪郭をなぞった水が次々に滑り落ちていく。


「我々も人間と同じく、議論や力で相手を打ち負かすことに快感を得る。特に、無駄に頭が切れて、良心や節操せっそうのない彼らにとっては余計、チェスやチェッカーなどよりもよっぽど魅力的な卓上の遊戯テーブルゲームなのだろうね」


 イブリースは続ける。


「建設的な議論よりも、こうやって蘊蓄うんちくを垂れ、理知的な頭脳をひけらかし、時間を浪費してまで自論で殴り合って場を掻き回すのが心底愉快なのさ。……ほら、横暴な君主が、情報手駒を使ってチェックメイトだ」


 テーブルに視線を遣ると、ザリチュが勝ち誇った様子で、苛立つアミィとゼドを見下ろし、タロットカードでできた扇子をぱたぱたと仰いでいた。刺青まみれの赤黒い舌が、ゆっくりと蛇の如く動く。長髪の間から時折覗く眼孔は、アミィの不服な表情を舐めるように眺めていた。

 彼らにとって、敗者の屈辱は極上の馳走ちそうであり、絶望は至極の口直しデザートである。相手に膝をつかせる為ならば、どんなに姑息こそくでいやらしい手段でも、見境なく利用する。


 イブリースが、試験管を全て、溶かした牛のあぶらが入った赤褐色の容器に放り込んだ。ほどなくしてきめ細やかな泡が立ってくると、粉末状の悪意と怪鳥ピアサのうろこを加えて蓋をする。


「アミィ、火を」


 イブリースが声を掛けるが、アミィはそれを無視して喋り続けている。


「火を」


 イブリースが再度、静かに命じると、アミィは此方こちらに見向きもせず指先だけを動かした。ボッと、水縹みはなだの炎が薪に点火する。

 シーナはそろそろと壁伝いに移動すると、フェンリルが寝転ぶソファの端に、ちょこんと腰を掛けた。フェンリルは片目を開けてシーナを確認すると、また眠りつく。


「私は案外、礼儀マナーというものが好きでね」


 話の行方を案じ顔で見守るシーナに、イブリースは淹れたばかりの青紫の紅茶を渡しながらそう言った。彼もまた、隣のソファに紅茶片手に腰をかける。


「礼儀は時に魔性ましょうに磨きをかけ、時に我が身を守る黒翼こくよくとなる。礼儀を知らぬ彼らには、いつか教えてやらねばならないな」


 そう言って彼は、本の続きを読み始めた。

 気圧計の不規則な音が聴こえた。


「近頃、宣教師を名乗る輩がスラム街をウロウロしているらしいな」


 クコの実に手をばしながら、ザリチュが話を振った。クコの実は硫黄いおう燻蒸くんじょうしてあるため、黄白色をしている。


「似たようなのが数年に一人はいるじゃないか」


 アミィがそう返す。


「ところが今度の奴は、福音をふれ回るどころか食い物まで恵むんだと」


 ゼドが言う。


「随分と気前の良い奴」


 アミィは鼻で笑い、続ける。


「裏があるに決まってんじゃん。今日の飯にすらありつけるか否かの瀬戸際だってのに、他人にほどこしをする奴がどこにいるの」

「そういう阿呆あほうは意外にいたりするもんだ」


 シーナが紅茶に口をつけながらゼドの様子を窺うと、彼は口許くちもとに淡い笑みを浮かべている。


「はー?」


 アミィがありえないと言ったように、肩を竦めて大袈裟に首を振る。


「馬っ鹿じゃないの、いるわけないね! そんな気色の悪いゲテモノがいたら、ドブに漬けてから丸焼きパイにして豚に食わすね!」


 可愛い顔を歪め、相変わらずの毒舌でそう唾棄だきすると、アミィもクコの実をむんずと掴んで勢い良く食べ始めた。

 シーナは俯いて少しだけ微笑んだ。アミィはまだきっと、一つのものをふたりで分けあう幸せを知らないのだ。


「ただこの場合、そいつは限りなく黒に近いな。宗教は何かと人心操作マインドコントロールに利用される。今回もそういった意図がないとは限らない」

「イカれた宣教師の愚行も、今に始まったことじゃない」


 ザリチュが笑っている。


「そろそろダエーワ兄弟が、宣教師とやらから恩寵を受けた者を、少なくとも一匹二匹は殺すさ。じきに情報が向こうから舞い込んで来るだろう」


 シーナは彼からパッと目を逸らした。全貌が見えずとも薄気味悪い彼の笑顔は、目にするだけで、負の感情が皮膚の下をうごめいた。胸の辺りをすうっと冷気が通り抜けるような、身の毛のよだつ悪寒を感じて、シーナは両腕を抱き込む。


「それにお前、このむすめを檻へ戻すのだろう。その時に情報でも生肝いきぎも でも、しこたま取ってくればいい。高く買ってやるぞ」

「お前の懐が寂しくなるだけだ。魔物の骨湯生活は覚悟しておくことだな」

「言うねえ」


 諧謔かいぎゃくもてあそぶゼドに、ザリチュはそう言ってまた、喉を鳴らすのだった。


「シーナ」

「あら? 起きたの、フェンリル。なあに?」


 横を見れば、獣眼じゅうがんがシーナをじっと見つめている。まぶたほとんど閉じているというのに、僅かに見える双眸そうぼうはハッとするほど澆薄ぎょうはくで、結晶にも及ぶほど嶮岨けんそな金であった。


「シーナ、一つ忠告だ。俺は、俺に害ある奴がいたら即刻殺す。俺を脅すならはらわたを抉り出すし、俺を殺そうと手を伸ばした奴の首は噛み砕く。それが例え、お前の知り合いだとしてもな。こう考えるのは俺だけじゃねえはずだ」


 かげりある声でフェンリルは続ける。


「要するに、てめえも覚悟を決めろって話だ」


 シーナは黙り込んだ。


「そもそも自分が蒔いた種だろうに。君の為に死ぬ者が、たくさんいるかもしれないね」


 耳聡くフェンリルの話を拾ったアミィが、追い討ちをかける。


「なあに? その表情は。仕方のないことだよ。君がインフェルノに来た時点で、戦いが起き、誰かが死ぬ運命さだめなのさ。向こうの奴らは、君を攫ったのが僕達悪魔だっていうシナリオを描いているだろうからね。あいつらはいつだってそうだ。僕達悪役を仕立て上げ、悪役退治というていのいい名目を掲げて、正義という名の矛を振り翳し、首を落とそうとする」


 アミィが首元に手刀を持っていき、すぱ、と一文字に横に引く真似をして、笑った。


反吐へどが出るね」


 シーナは唇を噛んだ。


「取引をしてやる」



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