片鱗と逆鱗 -ε

 リヴァイは陽気な男だった。どちらかと言えば、ヘヴンにいそうな雰囲気さえあった。訊ねるまでもなく、その疑問はすぐに解決した。彼はどうやら、元々ヘヴンの住人だったようだ。


「変わった男だろう。こちらに来てもまだ、善神らしく生きるというスタイルを変えない。よほどの変態らしい」


 イブリースはそう言笑げんしょうしながら、足元に置いてあった木箱を開ける。中にはガラスの試験管と遠沈えんちん管が並んでいた。どろりとしたオレンジの液体、緑の気体、飛び回る無数の虫、乾涸ひからびた生物のようなものなど、得体の知れないものが一種ずつ入っている。


「俺は変態じゃあねえよ」

「貴方はどうして、インフェルノに来たの?」


 罪人や邪神、魔物系の生物でない限り、ヘヴンからインフェルノにくだるのは、法度はっとである。ヘヴンのなかで捕まらなかった場合、殆どは捜索されることなく、死んだものとして扱われた。

 そもそも、禁じられているとは言えど、インフェルノに行きたいと望む思考自体が反社会的であると見做みなされる。遅かれ早かれ罪人となる者が、誰の手もわずらわせることなく自ら死地へおもむくというのだ、それを誰が止めようか。


「退屈だったんだ。狭い海で泳ぐのは」


 彼の眼差しのなかに、少しの郷愁きょうしゅうが見てとれた。


「俺は単純に、もっと広い海で泳ぎたかった。ヘヴンあそこの海は狭すぎる。それに……」

「それに?」


 リヴァイアサンがくるりとシーナに顔を向けた。鋭利な歯がガチガチと音をたてる。精悍せいかんな顔付きに一瞬ぎる狂気。ゼドやイブリース達とはまた違った、陶酔的とうすいてきな魅力がある。巧みな悪ではなく無邪気な悪、それよりももっと、純粋で単純な何か。


「悪魔を悪魔たらしめるのは、何なのか。興味が湧いただけのことよ。インフェルノに棲む奴が悪ってんなら、善良とうたわれる精霊の俺がインフェルノに行ったら魔物になんのかって、疑問に思ったのさ」

「……結果は?」

「よくわかんねえ」


 リヴァイアサンはぐるりと最中で尾鰭を回した。あわ色の湖に波が立つと、次第に水は鈍い桔梗ききょう色と濃い抹茶色に変じ、もつれ合うように混ざってまた、さざなみひとつ立たない、透き通る水色に戻った。


「そりゃあ確かに、邪気はどんどん身体に入ってきた。見た目もこの通り、傷も増えて、すっかり魔物の様相さ。だが、なんだろうな。俺の根っこは変わった気がしねえんだ」


 ヘヴンの掟にもとる行為を取れば、即座に地獄行きである。それすら構わぬと、甘言かんげんに惑わされることなく、神々におもねることもなく、孤立と糾弾きゅうだんの恐怖にも負けず、彼は貪婪どんらんに自由を求めた。

 ヘヴンの綺麗で濁りのない海は、彼にとってはひとやとそう変わらなかったのかもしれない。


「ただ、聖餐をくらえども聖油を注がれども、得られなかった快感が、激情をもしの衝迫しょうはくとなって俺を襲うんだ」


 やはり、彼も快楽を糧としている。そしてそれを、心からよろこんでいる。ゼドやイブリースと同じように。


「善神とは一体なんだ? 精霊とは? 人間とは?」


 リヴァイは黙り込んだ。

 魔物とは、悪神とは、悪魔とは一体全体、なんなのだろうか?

 リヴァイは精霊らしい精霊だった。人を助け、海をまもり、神に従順だった。決して賢いとは言えなかったが、根は真面目で面倒見が良く、ヤンチャをした頃もあれど、誰からも好かれる明るい青年だった。しかし、あることをきっかけに、その真面目さが一部の神からやっかまれていることを知った。リヴァイの心の中に浮かびあがったもやもやとした思いは、その存在を大きくしていった。

 リヴァイの考えを改めさせようと、彼らはあらゆる手をこうじた。されど、踏み込んだ好奇心が悪に転ずるとは、信じたくなった。周囲はリヴァイから徐々に距離を置いた。非難の眼差しから逃れるのは懺悔か、黄金か、奸計か、非情さだったのか。考えたくもなかった。

 今やこの身に染み入った悪辣な血も、己が身を白くきよめていた聖水と同じように、強い脈をうっている。リヴァイを生かし、さあ動けと鞭をくれる。


「見せてやろうか」


 リヴァイが笑い、目配せする。


「見たい!」


 シーナが身を乗り出す。


「待ってろ、カリュブディスを捕まえてきてやる」


 そう言うと、リヴァイはバシャンと湖に飛び込んだ。ゆらゆらと黒い影になった彼の姿は、すぐに消えてしまう。


「カリュブ……? なんて言ったの?」

「カリュブディス。渦潮の怪物のことだよ」


 答えたイブリースが、そのまま続ける。


「シーナ、ああいう正直者はやはり誰がどう見てもいい男だが、こういう場所では損をする。君も正直さが美点の神だけどね、賢くなることも必要だよ」


 何のことかと、シーナはイブリースを見る。彼は黙々と作業を続けている。


「実はね……」


 何気ないイブリースの発言に、シーナは叫びそうになった口を手で押さえる。


「リヴァイを騙しっ……」

「しっ。秘密だよ」

「秘密?」


 イブリースが軽く笑む。


「なに、かわいいものだよ」


 同じヘヴン出身でも、堕天しただけはあるようだ。イブリースの方がよっぽどたちが悪い。


「ああそれと、そうやって無闇むやみに足を入れてはいけないよ」


 初めて作業の手を止めたイブリースの視線を辿ると、シーナの左足が湖に浸かっている。


「ここの湖は強い酸性やアルカリ性だったり、水のように見えても液体窒素やマグマだったりすることがある。身体をつければ、たちまちに溶けてしまうからね」


 それを聞いた途端、シーナは即座に左足を湖から引き抜く。飛び散った水滴が、命を宿しているかのように、身をくねらせて砂上さじょうを跳ねる。


「この湖は大丈夫だよ」

「びっくりさせないでください……」


 冷や汗をこっそりと拭ってすぐ。


「捕まえたぜ!」


 突然目の前に現れたリヴァイに、シーナは驚いてのけぞり、尻餅をついた。


「捕まえてきたぜ!」

「あぁ……びっくりした。それが、カリュブディス?」

「ああ」


 下半身だけを残して人のかたちをしたリヴァイが、濡れた髪をかきあげながらうなずく。彼は引っ掻き音に似た金切声で啼きながら暴れる、カリュブディスの首根っこを掴んでいる。首根っこ、とは言ったが、正直カリュブディスは頭や胴体を持たず、生物らしからぬ形をしていたので、シーナには首がどこかわからなかった。


「こいつはなんでもかんでも吸い込んだら吐き出したりする生き物でな。ほれ、このたるんだ腹にたんまり溜め込んでるんだ」


 リヴァイが、カリュブディスを上下に振ると、粘液の塊のような体がぼよんぼよんと伸び縮みする。そして突如、ゲェエエエと奇声をあげた口から、豚や河馬カバ、岩や舟といったものまでがかと次々に吐き出され、見る間に山を作った。


「全部出させてから、こうやって……」


 ぜえぜえと息の荒いカリュブディスの身体を、今度は雑巾のように絞る。


「ぐふぇ、うぇ」


 カリュブディスが涙目になっているように見え、心配するシーナを他所に、リヴァイは絞ったカリュブディスを無理矢理引っ張って伸ばしてから、水中に突っ込む。

 静かだった、水面が揺れ始めた。そして、ボコ、ボコボコと音を立てて、水中に大きな泡の球体ができた。


「この中に入れ。お前も楽に呼吸ができる」


 水中に潜ろうと足を踏み出したシーナはハッとして、今更ながら、ちら、とイブリースを窺う。


「いっておいで」


 頷く彼を見て、シーナはきらきらと顔が輝かせた。白の絹沓きぬぐつを急いで脱ぎ、湖に足の指先をつける。先程よりも、水の質感が硬い。


「大丈夫。そのまま体重をかけるんだ」


 水中から顔を出す、リヴァイのエメラルドの瞳がうながす。

 慎重に右足に重心を移すと、ゆっくりと足が沈み込んでいく。滑らかな質感、波紋はもんはアメジスト、薫りはアンソクコウノキに似ている。ゼドが教えてくれた。良い香りのする植物があると。甘く濃厚なバニラの油を、クリームに混ぜてパンに塗るのが美味しいのだと。

 両足を入れた。冷たかった水が、どんどん温かくなっているように感じた。水中に潜って、大きな泡を指先でつつく。求肥ぎゅうひのように柔らかく、強く押し込むとやっと指の先端が膜の反対側に入った。指先から、肘、そして肩、頭と胸、そして下半身。確かに泡の中は、外と同じように呼吸ができる。


「入ったな」


 ぐるん。目の前でリヴァイが一回転。巨大な鮫とした。シーナはその背にまたがる。


「しっかり掴まんな」


 転瞬てんしゅんの間に、元居た湖畔こはんからは随分と離れた。凄まじいスピードだ。

 シーナを背に乗せたリヴァイは夕靄ゆうもやに似た泡のうずを突き抜け、湖に差し込む光の紗幕さまくの合間をするすると潜り抜け、沼のように重い底へと降りていく。深すぎて、くらく見えない底に少し足がすくむ。

 咲く花の如く突如出現する暗流は、とぐろをまいている。その渦にのみこまれそうになるかと思いきや、彼は煙でも払うかのように訳なく進む。


「すごい!」

「まだまだこっからぁ!」


 リヴァイの声が、澄んだ水にこだまする。

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