後編 新しい約束を求めて



 放課後になって、いくらか間を置いてから、三号棟の四階、生物準備室のドアを開けた。塩化ビニルの床に、あたしは明確な一歩を踏み出した。たんは震えなかった。心は定まっている。

 ここ、生物準備室は、『深海生物生態研究同好会』の活動場所である。どうせ多くの人が集まる同好会ではないからと、狭い場所に落ち着くことを選んだのだった。何やら長く怪しげな名称の会ではあるが、この高校の同好会には命名規則というものがなく、無法地帯の名称が居並ぶので、むしろ良心的な方だ。会員二名だった会は、あたしが退会届を突きつけたことで、ひとりきりのものになった。

 標本などを収めた棚の並ぶ室内、独特の空気、たった一ヶ月だけで懐かしい。窓際で丸椅子スツールに座り、図書室から借りてきたのであろう(ラベルがある)海洋の本を読んでいたノエルの、ページをる手が止まる。ノエルとあたし、ふたりきり、緊密な瞬間が交差する。それを破って、あたしは口を開く。怯まない。強くいる。不明瞭な感情の答えが、ノエルと分け合える正答となるかは知れずとも、未来へ向かおうとする意思のために。

「この同好会に戻ろうと思って。ただし、条件付きだけど」

 ノエルは表情を揺らさず、本を閉じ、脇にある机に置いた。所作のひとつひとつも、いちいち美しかった。

「その言葉を待ってたワタシはいるヨ、でも、マリアナスネイルフィッシュを捕まえてこいと言われたら無理だから、話を聞いてみないとわからないネ」

「マリアナス、ネイル、何?」

 ノエルは麗しささえ醸す動作で椅子から立ち上がった。あたしの視線が上向く。ああ、あたしはこの角度が好きだ。あたしがノエルを見上げる角度。あたしとノエルの身長差の角度。あたしがノエルの隣に立つという証。なんて大切なものを、いとも容易く手放してしまったのだろう。ノエルはあたしを真っ直ぐに見て、呑気に呆れ顔を浮かべた。

「深海魚の名前。すごく深い海にいるの。花菜芽ちゃん、仮にも深海研の会員だったんだカラ、そのくらいの知識はマストだヨ?」

 ろくに活動らしい活動をしてこなかった同好会で、よく言う。深海魚の話が全く出ないではなかったが、この同好会は、あたしとノエルがふたりでいる聖域であって、ふたりで共に過ごした時間しか、あたしに残さなかった。

「あたしは何でもよかったの。深海魚でも、民間伝承でも、土星の輪っかでも、ノエルと一緒に過ごせれば、それで」

「うーん、まだ、その言葉で喜べないねェ。花菜芽の言う条件を、聞いてみないことにはサ」

 ノエルの曖昧な笑みに、あたしの心が疼く。あたしはこれから、それを変えられるの。気持ちを揺るがすな。向くのは前だ。あたしの気持ちが足りなければ、それまでのこと、だから、もっと満ちて。

「もっと、雰囲気のある場所で話したいから、屋上に出よう?」

 以前なら、もっと強引に迫って、強くノエルの手を取って、無理にでも連れ出した。今はそれができない。あやふやな位置関係。生じている躊躇ちゅうちょの距離。あたしはただ、ノエルが神妙な面持ちで頷くのを見つめるのみだった。


 屋上は立入禁止で、校内から屋上に繋がる階段の先は施錠されているのだが、抜け道はある。ひとつは、四号棟屋上への鍵が一部で流通しているらしいこと(あたしは持っていない)、もうひとつは、棟の四階の端にある特別教室を裏口から出て、非常階段を伝って上ること(非常階段は中途に柵がいくつか設けられていて、一階から上ることはできない。非常時に逃げられない造りであることは不可解)。

 幸いにして、生物室は三号棟四階の端にある。あたしとノエルは準備室を出て生物室を抜ける。生物室では漫研が部活に勤しんでいるのだが、活動場所がお隣であることでなんとなくの顔見知りになっていて、特に何も声はかけられず、そのまま非常階段を上り、ふたり、屋上まで出てきた。

 風は凪いでいる。陽が注いで夏服をきらめかせる。あたしは屋上の柵に腕を預け、海とは反対側、校内を望む。校門から校舎に続く長い坂では、バスケ部らしき連中が男女合同で地獄の坂道ダッシュをしていた。グラウンドを行く白球の行方は目で捉えられない。バスケ部が坂にいるならば、体育館で汗を流すのはバレー部やバド部だろうか。目が届かぬところから、辿々しく、トランペットのが聞こえては途切れる。

 放課後の息づかい、学校とはひとつの生き物で、その胎動の中で、有形無形、様々なものに囲まれ、その中で、あたしとノエルはふたり、指と指を絡ませ合うことを選んで過ごした。たった今、仄かに触れるだけとなっている互いの指に、新たな答えを、明瞭な意思を吹き込みたかった。あと二年足らず、この学び舎で過ごすうちの日々が、ずっと先まで、確かな命として色づくように。

 ノエルがいなければ、きっと、後から思い返しても、色彩は見えないよ。

「花菜芽ちゃァん、あんまり人を焦らすモノではないよォ。これでも緊張してるんだかラ、早く話してくれないと、心臓が保たなくて、マリアナ海溝の底の底まで逃げ出すヨ? 水深一万メートル以上だヨ? つまり水圧が一〇〇MPaメガパスカル以上、」

「はいはい。ちゃんと話すから」

 珍しく情けなさを晒したノエルの話を途中で切った。密やかに笑った。そこまで逃げる根性があるなら、マリア何たらという魚も、きっと捕まえられるぞ。逃げ出すと人を脅したのに、ノエルはあたしと同様に、屋上の柵に腕を預けた。あたしにとっては十分に高さがあると思える柵が、ノエルの背丈では少し心許なく見える。確かに手早く話を済ませるべきだな。ふたりして校内の方を向いてしまっては、いつ教師に見つかるやら。

 梅雨の湿気は昨日より薄れていて、声は出しやすかった。

「お願いがひとつある。叶えて欲しい」

 未来が宿って欲しい。

「同好会に戻るだけじゃない、それは、あたしとノエルが、これから先も一緒に、すぐ隣で生きていくためのもの」

 共に生きる明日に、かざす光を求めてる。

「ついでに言うとね、今つけてる指輪、そろそろ外したいの。だってこれ、ノエルからもらった物じゃないし」

 あたしはノエルに微笑みを向けてやったのだが、相応のものは返ってこなかった。呆れが多分に含まれて返ってきた。

「花菜芽ちゃん、そのホンモノ、壊したの自分だヨ? しかも金槌だヨ?」

「今はそういう野暮は言わない」

 せっかく作った雰囲気を崩されたので、遠慮なくノエルの頬をつねってやった。ノエルは不満げで、でも、以前のようなじゃれ合いに、どこか安心したふうでもあった。まあ、良かれとくれてやった指輪を叩き割られて、根に持つなというのも無理だ、許してやろう。指を放し、ひとつ呼吸を置いて、話を進めた。

「新しい指輪が欲しい。そうしたら、この見知らぬ指輪を外せる。ノエルへの未練なんて、要らなくなる」

 あたしはなぜ指輪を拾ってしまったのか。

 目を逸らしていた気持ちが、形を伴って、目の前に現れてしまったからだ。

 ノエルはすぐには頷かなかった。どこでもない遠くへ視線を向けていた。その端整な横顔に、嫌がるふうは見て取れなくても、正答を掴み取れないもどかしさは潜んでいる気がした。

「ソレ、ただ指輪があればいいってだけじゃないよネ。きっと、何かがセット売りだよネ」

「うーん、セット売りとも言えるけど、指輪があるだけでもいい。だって、あたしがノエルからもらいたいのは、婚約指輪エンゲージリングだから」

 ノエルは勢いよくあたしに向き直り、どれだけ驚いたものか、目を見開き、しかし口は硬直でもしたように何も言葉は発せず、絶句したまま。見つめられることしばし。衝撃的なことを言った自覚はあるが、そこまで驚愕しなくてもいいだろう、お互い、体の隅々まで知ってる仲だぞ。

「あたしから、もうこれ以上は言わない。言いたくない」

 ノエルはぶんぶんと首を振った。拒否の意ではないだろう。どうにか気を取り直そうとしているのだろう。見ていて楽しいので、存分にあたしに翻弄されて欲しい。

「さらっと爆弾発言して、もう言わないって何!? もっと何かないの!? 説明責任的なやつネ!」

「だって、付き合う時に告ったのはあたしなんだから、次のステップはノエルから言ってもらうのが筋でしょ」

 さらりと返せば、ノエルはもう、ほとんど憤慨の気色なのだった。

「それが筋なら天地がひっくり返るヨ! むしろ不平等の極みだヨ! 求愛コクハク求婚プロポーズじゃ価値が違いすぎるよネ! 差額で都内の一等地が買えるヨ!?」

 困惑を激しくするノエルをよそに、あたしはけらけらと笑った。もしかしたら、断られてしまう未来だってあるのかもしれない、けれど、これがノエルにとっても正解の答えなんだって、今は信じる。もっともっと、ノエルにわがままを突きつけたいからね。

「あんまりだから、補足はしてあげよう。あたし、指輪を拾って、心の中で、ノエルへ残した気持ちが形になっていった。その思いに答えが見つけられないまま、指輪を外せなかった」

 ノエルは静かに頷く。ノエルもきっと、残した気持ちを持て余していた。その答え合わせが、同じであってくれればいいと願う。

「曖昧な気持ちを抱えて、それで、友達にどこに未練を残したのか聞かれて、気づいた。友達でもない、親友でもない、恋人でもない、どんなに探したって、正解なんて見つかるわけなかったんだ。あたしは過去ばかり見ていたから。違うんだ」

 さあ、最高の笑顔を、世界一大切な幼馴染みに見せつけてやろう。

「あたしが残した未練はね、未来だよ。これから先、ノエルと一緒に築いていく未来。共に歩んでいく約束という、新しい関係。ねぇ、これがあたしの答えだよ」

 あたしはとびきりの笑顔を向けてやったというのに、ノエルときたら、渋面を隠さないのだ。

「花菜芽ちゃーん? ソレ、高校生なりの最大限の誠意を見せろって解釈でイイ? 今日がワタシのバイトの給料日だってことをアテにして言ってるなら、人間性疑うヨ?」

「疑惑じゃなくて確信でいいよ。いやあ、実に都合が良い」

 あたしがあっけらかんと言えば、ノエルは手で顔を覆って、大げさに嘆いてみせた。

「ロマンチシズムの体現から、急転直下、お金の話になるんだネ! 現実って悲しすぎナイ!?」

「それで、どうする? 今から行く? また毎月のように、あたしにねだられる? 今日買う物は、クレープでもケーキでもないけど」

 あたしは今も、これからも、ノエルに甘えてやるはらなのだ。きっとノエルの方も、甲斐性が発揮できて嬉しいに違いない。たぶんね。

「行くヨ。どこにだって」

 顔から手を放して現れたノエルの瞳に、意思が透けていた。

、ネ。日本で同性婚が認められなくても、世界のどこの国だって、ワタシは行くよ。花菜芽と一緒に行く未来がそこにあるなら、もともといる場所がどこであろうと、そこに残す未練なんてないカラ」

 嬉しいことを言われて喜ぶ前に、虚を衝かれた。

「あ、日本で同性婚ができないこと、考えてなかった」

「花菜芽ちゃん、勢いだけで行動するよネ。知ってた。だって金槌の人だもんネ」

 やばい。これは相当深く根に持たれている。というかこの人は、金槌で指輪を叩き割られた過去がありながら、なおも指輪を買い与えようというのか。あたしのこと、どれだけ好きなんだ?

 せめてご機嫌取りはしてやろう(もとい、どうにかごまかそう)。そう思って、あたしは大きく背伸びをする。めいっぱい伸ばさないと届かない。

 触れるのは、唇と唇。そっと軽く。

 およそ一ヶ月ぶりのキスは、新しい始まりの色がした。




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見知らぬ指輪 ―椿ノ峰高校グラスリリーズ― 香鳴裕人 @ayam4

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