見知らぬ指輪 ―椿ノ峰高校グラスリリーズ―

香鳴裕人

シェアード・ワールド『椿ノ峰高校』

見知らぬ指輪 ―― 同題異話・六月号

前編 見知らぬ指輪にきみを見る



「だから! 何でよりによって! このタイミングで! と顔を合わせるかな! あたしの精神を害する! なぜ!」

 六月下旬、あたしが喚いたのは、昼休み、印刷室(一号棟一階)でのことだった。窓外では、朝はぽつぽつと降るのみだった雨脚が、時の経過と共に勢いを得ていた。さして広くもない一室(そのうえ、二台の印刷機と、積まれた更紙ざらがみの段ボールがけっこうな場所を奪っている)にいるもうひとりが、何か不満を滲ませるでなく、むしろ愉快げに口を開いた。会いたくなかった。残された気持ちが形となって現れてしまった今この時に。混乱が増すじゃないか。

「心の声心の声。花菜芽かなめちゃん、そういう時は心の声を活用して、円滑な対人関係を守るんだヨー。あと、という指示代名詞は人に対して使うものではないよォ。もっとも、という語は人代名詞的に用いることがあるから、一〇〇%間違いとも言い切れないけれどもネ」

 ちらと見やれば、あたしの隣で二台の印刷機のうち一台を使っている高堂たかどうノエルは、せっせと印刷物を吐き出す印刷機を見守っていた。先月まで濃緑のブレザーだった制服は、今は夏服になった。ノエルは日英のハーフであるが、日本生まれ日本育ちで、生まれてからずっと使用言語は日本語だ。よって、独特に縒れた口調は日本語が不得意だからではなく、ただの個人の癖。

 ノエルの姿容は、端的に言えば美しい。その一語でおおよそ済むところ、詳述すれば、まずめりはりのある艶やかなスタイルに目が向く。身長は一七〇センチを超えていて、あたしは見上げる側になる。顔は日本人寄りであるが、一目すれば外国の血が混じっているとわかる、華のある顔立ち。長く真っ直ぐ伸びる透き通るような髪は、茶色を超えて金に近しい。そこらのモデルよりも優れていると思わされる。こう並べていくと、いかに自分がノエルの隣に立つのが不釣り合いかがわかる。あたしに華はない(めりはりもない。ついでに身長も平均より低い)。それでも何食わぬ顔で今までやってきたのは、言うなればに、あたしが甘えてきたからだ。

「ノエル、中間テストの結果、国語は何点だった?」

「百点だネ」

 まあ、あえて聞かずとも見当からはさしてずれまい。口調が縒れていても回答には反映されないし、ノエルの成績は、(国語のみならず全教科)極めて良い。あたしとノエルがそろって、この高校、県立椿ノ峰つばきのみね高校に進学したのは、ノエルがあたしの学力に合わせたからだ(それも特権の濫用だ)。もし望むのであれば、ノエルの方は、受験に落ちてしまう高校などごく少なく、相当な学力を求められても応えられるはずだった(近場で言えば、椿ノ峰成旺せいおう高校あたりか)。

 遅れて、(あたしの独白に過ぎなかったのだが)ノエルはに答えた。

「なぜかと言えば、去年の文化発表会が大盛況で、祭実さいじつだけじゃ人手が足りなかったからだねェ。今年はそれを見越してェ、中央委員会が助っ人で駆り出されることになったカラ。そんでもっテ、花菜芽とワタシで参加申請案内を印刷することになったゆえ」

 祭事実行委員会(通称、祭実)はあたしの属する委員会で、生徒が主体的に学校生活を盛り上げるこの高校ならではの委員会と言ってよい。文化祭、体育祭を除くイベントを企画・運営するものだ。卒業記念祭において、その活動の最後を飾る。ノエルの属する中央委員会は生徒会に近しい位置にあるもので、学校の統括に関わる。

 七月、終業式前日に球技大会が行われる、そしてその後に、文化発表会なるイベントが催される。文化系の部活・同好会が、体育館や講堂を使って、演奏を披露したり、成果物を頒布したり、展示発表したりするわけである。うちの高校は尋常でなく同好会の数が多いので、それを取りまとめるのは手間だ。

 どうも、ノエルの顔をまともに見ることに抵抗があった。会話をしてはいるものの、胸中にどこか痒みを覚えるものだった。今、答えが余計に見えなくなる。ただ、口を閉ざす理由もなかった。

「久しぶり? 一ヶ月くらい会ってなかったのかな。初めてだね、そんなこと」

「廊下でちらっと姿を見たりはしたけどネェ。一歳の時からの付き合いの中、こんな期間があってもイイんでないのかな」

 あたしとノエルははっきりと幼馴染みである。すなわち、それがである。同じマンションの隣同士として始まって、一歳の時からつながりがある。あたしは後に同じ町内の戸建てに引っ越したのだが、その程度で縁が切れるではなかった。ただし、今現在で言えば、関係は疎遠だ。

「まぁ、ノエルと完全に縁を切るつもりはないわけだけども」

「本当、よくよく考えれば、つまらないケンカで別れたねェ」

 深く憎んだというのでもないのだが、いったんこじれた関係が、するりと元に戻るではなかった。

 ノエルは怪訝な顔を隠さず、あたしの手を強く指差した。

「というかネ、さっきから気になってたんだけども、花菜芽の左手薬指にある指輪、何なの。それ、ワタシがあげたやつだよねェ。何でつけてるの。過ぎた過去なんて、綺麗さっぱり、驚くくらいに棄てちゃうドライな花菜芽が?」

 確かにあたしの指には指輪がある。左手薬指にそれがあることにさしたる理由はなく、単にその指が一番サイズが合ったというだけのことだ。ノエルの言うことには誤解があった。

「これ、確かにノエルにもらった物と同じ品だけど、ノエルがくれた物とは違うよ。見知らぬ指輪。ノエルからプレゼントされた物は、別れた後に間違いなく棄てた。何なら金槌で叩いて壊した。だからこれは全くの別物」

「うわァ。いくらケンカ別れした後だからって、叩き壊すところ、人格的に危うさを感じるヨ?」

 あたしは薬指にある指輪をそっと撫でた。手触りも同じだ。けれどこれは、見知らぬ指輪。

「たまたま、拾ったの。一昨日のことなんだけど、つまりね――」



 指輪。

 見知らぬ指輪、けれど、酷く見覚えのある指輪。

 梅雨の直中ただなかのこと、窓外の景色は雨が降りしきり満ち続ける。雨声は乱雑に打つ。雨勢は確かで、湿度の匂いが濃い。ここ、椿ノ峰高校の校舎は海に突き出た高台の上に立っていて、最奥にある四号棟、最上階にあたる四階、一年一組の教室に立っていて瞳に映るものは、窓を通して向こうにある、幾多の雨粒を呑み込む海ばかりだ。人家のひとつもない。これほどひとりきりで教室に残されていれば、錯覚めいて、寂寥という語の一端に触れられる気がする。長居するつもりはなかったのだが。

 二年生であるあたしがここまで来たのは、同じ委員会に属する後輩に用件があったからだった。その時すでに教室は閑散としていたのだが、その全員が帰るに至ってもなお、あたしはここを離れられないでいる。どうしても気になって、心気をほぐせない。

 指輪だ。

 間違いなく棄てたはずの指輪、だから、これは見知らぬ指輪だ、しかし、その姿形、記憶に強く残っている物。置かれていると解釈するには無理があって、落ちていると判断するのが正しいであろうそれが、木目調のフローリングの床に転がっている。逡巡し、見つめるばかりだったあたしは、屈み、ようやくそれに手を伸ばした。模様のある銀のリング、かわいらしい飾り気のある石座、イミテーションの水色の石、あたしがかつてノエルから贈られた物と、そっくりと言うと足りずはっきり同一で、高い物でもなし、同じ商品を誰かが持っていたとしても不自然ではない。

 迷った。戸惑いを覚えると同時に、強く迷った。

 拾った指輪を放し、このまま捨て置くこともできるが、それは、いち生徒の行いとして好ましくはなかろう。職員室まで出向き、落とし物カウンターに預ける、それが無難で、おそらく正しいだろう。けれど、手にした指輪を見れば見るほどに、その意思が削がれていく、誰かの大事な物だったらどうするんだ、でも、けれど、悪い行いに心が預かる。引き返す術を見失う。

 つまらないいさかいに流されるまま、叩き割ってしまったからか。

 まさか、それで埋め合わせになるわけもないのに。

 きっと、不明瞭な気持ちが増すだけなのに?

 それでも、指輪を通して、そこにノエルを見て。

 結局あたしは、拾った指輪を自らの指にはめた。



「――というわけ」

 あたしは、吐き出されていく印刷物を見つめるまま、指輪を拾った経緯をノエルに聞かせた(あたしの心情については、半ば以上省いた)。全生徒に配るプリントではない、千五百枚弱を印刷するものではなく、もうそろそろ、必要な枚数を印刷し終える頃合いだった。隣を見やれば、ノエルは印刷を終え、刷られた物をまとめつつ、あたしを危ぶむ眼差しを向けた。

「花菜芽ちゃん、ソレ、遺失物等横領ないし占有離脱物横領って言うんだヨ」

「詳しい罪状はともかく、自分のやってることはわかってるよ。まあ、いつまでもつけているつもりはないし、気が済んだら、落とし物カウンターに届けるつもり」

 ノエルには、もう責めるつもりはないようだった。あたしの前でも印刷機が止まり、あたしは刷られた紙の束をまとめた。ノエルに見られてしまってなお、あたしは指輪を外す気にはなれなかった。指輪はあたしを縛る、正体の見えぬ気持ちの表れとしてあって、振り解けなかった。今ここで、ノエルにあたしの気持ちに深入りされたくなくて、思わず指輪をはめてしまったあたしの衝動は、ノエルに頼ることなく考えなくちゃいけないような気がして、それで、あたしは実務の方に話を向けた。

「この申請用紙の束を、職員室前に置く。それで今日の仕事はおしまい」

 あたしがそう言うと、ノエルは曖昧な、切なさとつやが同居したような、そんな微笑みを見せた。

 ねえ、それはどんな笑み?

「残念。せっかく会えたのに、すぐ終わっちゃうんだネ」

 残念?

 それは、どういう気持ちで?



「うーん、せっかく高堂さんに会えたのに、感動の再会とはならなかったのね」

 翌日、昼休み、窓外に望む景色は注ぐ雨滴ではなく、梅雨の合間の晴れだった。互いの机を正面でくっつけて、あたしの向かいで手作りの弁当を食べる日森にちもり沙知さちは、わずか残念がるふうにして言った(ちなみにあたしはパンをもくもくと食べている)。日森さんとは、進級のクラス替えの後、たまたま席が隣になり、それが縁でよく話すようになった。人気者のはずなのだが、どうしてか話し相手にあたしを好んでくれる。あたしのクラスにノエルが顔を出さなくなってからはなおさらに、話す頻度が増えた。

 日森さんはかわいらしい。特に微笑むととびきりだ(注、だからと惚れるわけではない。あたしはちゃんと友達として見ている)。身長はノエルほどではないが、女子にしては高く、スタイルもノエルに負けず劣らず良く、一般的なかわいいからは逸れるものの、やはり先行するのはかわいらしいというイメージだ。栗色の綺麗な髪、きらきらした瞳に長い睫毛が印象的。

 一度、日森さんが後輩らしき男子から『さち姉』と呼ばれているのを見たことがある。ただ、クラス内で通りがいいのは、断然、『さっちゃん』だ。あたしがそう呼ばないのは、あくまでクラス内でよく話す相手であって、一緒にどこかに遊びに行くような関係ではないので、なんとなくの遠慮があるから(もっとも、当初より話題については気兼ねがなかったのだけど。日森さんは聞き上手だ)。

 あたしはひと囓り分のパンを飲み込み、いちご牛乳で喉を湿らせ、返す言葉を探した。ちょっと、ぶっきらぼうな口の利き方になった。

「別に。心底憎み合っているわけでもないし、今さら恥じらいとか、あるでもないしさ、普通だよ、普通」

「そのがね、他の人にすればなの。私も幼馴染みがいるから、忘れないように気をつけたいな」

 その幼馴染みのことを思い出したのか、日森さんは微笑みに重ねて頬を緩ませるという器用なことをした。一ヶ月ちょっと前までなら、あたしもこうだったのかもしれない。あたしとノエルが恋人として付き合っている(当時)ということも、先月別れたことも、とうに日森さんに話していて、事情は知れていた。女同士だからと偏見の目で見られることはなく、(というより、むしろ興味津々といったふうで)しっかり受け止めてくれたことは、素直に感謝したい(あえて勘繰ると、あたしの恋愛話を聞きたくて、あたしを話し相手に選ぶのかもしれない。あるいは、共に幼馴染みがいるという境遇?)。

 日森さんがタコさんウインナーに箸を伸ばしかけたところ、その薄く白い手は止まり、視線があたしに向き、そして難題が投げかけられた。そこにあったのは日森さんの微笑みだったが、真剣な眼差しも同居していた。

「前から疑問だったんだけどね、高堂さんとカナちゃんの関係って何なんだろうなぁって。ほら、確かにふたりは幼馴染みだけど、ごく当たり前の幼馴染みってわけでもないわよね? 私とココちゃんとは違って、あっ、またココちゃんって言っちゃった。とにかく、何だか、不思議だなぁって」

 ココちゃんとは日森さんの幼馴染みのことで、何度か話題に出てきた(ココちゃんと呼ぶなと言われているらしいのだが、本名で呼ばれているのを聞いたことがない)。カナちゃんとはあたしのことだ。つまりこれは、あたしとノエルの話題だ。

 あたしとノエルの関係性を表す、正しい言葉があるのだろうか?

 返事は、苦し紛れになった。あたしにもわからない。正答を手繰り寄せられない。足掻いても無駄だとは最初からわかって、言葉を無理に捻り出すようになった。

「何、というか、ひと通り全部、としか言いようがないというか。記憶も定かでない頃から一緒に育って、友達としてつるんで、仲良くやって、親友に昇格してぴったり張り付くような時期もあったし、うっかり恋人になっちゃって、やることは何だかんだで済ませちゃって、結局今は疎遠になってて、だから、やっぱり、ひと通り全部」

 日森さんは食を進めなかった。微笑みを絶やさず、あたしを見つめた。

「あのね、私、それのに未練があるかだと思うの。カナちゃんが望む距離感? みたいなもの、カナちゃんがたくさんの中から選ぶことが必要なんじゃないかなぁ」

 あたしが先月までつけていた指輪が(と、言っても、これは別物なのだが)私の指にあることはもちろん日森さんの目に入っているはずで、果たしてどこまで見透かされているものか。

 未練?

 ノエルへの未練?

 日森さんの言っていることは正しいようにも思う。けれど、どこか一点、的を射てないような気もする。

 を選ぶ?

 違和感。

 不明瞭な気持ちの行き着く先。

 

 違うんだ。

 あたしは指輪を見つめる。誰のとも知れないけれど、見覚えの濃いそれを。

 想起される。ノエルとの、これまでのことを。

 、そうじゃないんだ。




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