僕だけの島
亜済公
僕だけの島
潮の匂いの混じった風が、初夏の弾けるような日差しの中で、うっすらと頬を撫でていった。港のすぐ近くにあるカフェテラスに、人の気配は殆どない。遠く、管弦の混沌とした音色が聞こえる。僕はぼんやりと耳を傾け、サクランボ入りのソーダを含んだ。
空島は、人口十数人ほどの小さな島だ。貝楼諸島の南部に位置して、ドーナツのような形をしている。正確には、限りなくドーナツに近い三日月とでもいうのだろうか。まさにその極端な入り江が、僕の目の前に広がっている。
「では、そろそろ行きましょう」
ソーダを飲み終え、語りかけると、目の前の女性は神妙な面持ちで頷いた。年は六十ほどだろう。痩せぎすで、青白く、元気なのは真っ黒い髪の毛だけだった。眩しそうに細められた目元には、細く皺が寄っている。僕はその瞳の中に、感慨に似たものを見いだした。クア、クア、クア。海鳥が甲高い声でなく。
「娘と最後に会ってから、もう十年になるでしょうか」
僕は女性に先だって、アスファルトの道路を歩いて行った。ガードレールは錆び付いて、塗料が瘡蓋のように浮いている。緩やかな上り坂が暫く続き、陽光に汗が染み出した。
「あの子は昔から変わっていた。数字を書くのが好きだったし、生物図鑑が愛読書だった。中学生になりたての頃、私と夫が、インターネットを使わせたとき、最初に何を調べたんだと思います?」
「……さぁ。イリオモテヤマネコの動画、とか?」
「ナメクジの交尾だったんです」
道は大きな通りへ合流した。周囲には住宅が所狭しと並んでいて、無数の窓がよそ者を威嚇するようにこちらを睨める。道ばたで、雑草が身を寄せ合うように揺れていた。
「そいつは凄い」
と、僕は答える。
「凄いんです」
と、彼女は答える。
「……それでやっぱり、娘は生き物の研究を?」
笛の音が、少しずつ大きくなっていった。人影がぽつり、ぽつりと増え始める。島民は、誰も彼もが顔に葉を貼り付けていた。ヤツデによく似た、空島の固有種だと聞いている。古くから伝わる、風習だ。
「そうですね。……そう、生物の研究です。クローン、というのを聞いたことがありますか?」
ええ、と女性は頷いた。
「娘さんの……川島先生の研究は、人間のクローンを生み出す際に、任意の特徴を編集するというものでした。例えば、頭の良さ、だとか」
動物の知能を、単に高める研究は、既に実用化されていた。人間の、知性を司る遺伝子を、動物へ移植するだけの話である。
「ですが、人間以上の知能を、生み出すには至らない。何百回も、実験を繰り返してきましたよ。先生の研究は、主にこうした、生物の改良を目的に――と、見えますか? アレが研究所の中央棟です」
僕はほら、と指を指す。遠く、家々の屋根を越え、真っ白い建築物が見えている。ビザンツ様式を思わせる、聖堂じみた研究施設。その頂上には数基のアンテナがついていて、一定の速度くるくると回転しているのだった。
やがて、道は緩やかな下り坂へと差し掛かる。
「お祭りですか」
と、女性は興味深そうに、周囲へ視線を送っていた。屋台が並び、笑い合う男女の姿があって、騒がしさが充満している。向かう先から、真っ赤な神輿が現れた。えいさ、えいさ。運んでいるのは女ばかりで、紫色の細い布を、全身に巻き付けているのだった。
「去年、子供を産んだ女性は、みんな担がなければならないそうです。子供がよく育つから、とか、出産の疲労が抜けるから、とか」
神輿は主に、木製の板でできていた。放射状に組み合わせ、何段にも重ねた上、魚が一匹、釘で打ち付けられている。ぴちぴちと全身を震わせながら、水滴を周囲に撒き散らした。ぐらり、と大きく神輿が揺れるたび、周囲からちょっとした歓声が上がる。
「何だか、不思議な感じがします。活気があって、温かみがあって、人間らしさって、きっとこういうことを言うんですね」
「さあ、どうでしょう」
えいさ、えいさ。すれ違い、後方へと去って行くのを、女性は物珍しそうに目で追っていた。心なしか、陽光がぐっと熱を増して、じりじりと首筋を焼き付ける。
「先生は……」
と、僕はいう。
「あなたに、居場所をお知らせしていたのですか?」
「いいえ。だって、手紙でさえくれませんので。あの子の知り合いをあちこち回って、ようやくここを見つけたんです」
なるほど、と独りごちる。それは随分、手間のかかったことだろう。娘に会うため、こうまでする母親を、どうして彼女は嫌悪したのか――。
島に研究所が作られたのは、今から八年前のこと。その頃は、今はもう引き上げてしまった、数百人の職員が、まだ快活に働いていた。基本的には島内で、生活をする決まりだけれど、年末には休暇を取って、本土へ戻るのが大多数。要するに、一年中、ここに引きこもっている人間は、彼女以外に殆どいなかったというわけだ。
――先生は、帰らなくて良いのですか?
僕はあるとき、尋ねてみる。
――余計なことは気にしないの。良いでしょ、会いたい人がいないんだから。
――親とか、兄弟とか、恋人だとか、いないってことはないでしょう?
――いないよ。本当に。一人もさ。ま、向こうは会いたがってるみたいだけど。
――仲、あまりよくないんですね。
――いやな人だよ。もう、顔も見たくない。
「あの子は、いつだって、そうなんです!」
不意に、女性は声を上げた。
「他人のことを、考えていない。地元の会社で働くように、お願いまでしたっていうのに、嫌だって、そう言うんです。本当、自分勝手なんですよ」
「地元の会社?」
「ええ……その方が、寂しくなくって良いでしょう? 第一、生物の研究なんて、生きていくのにちっとも必要じゃないんです」
女性はそれ以上、特段何かをいうつもりはないようだった。僕もやはり、言うべきことは見当たらなかった。
研究所は、空島の北部に位置している。なだらかな丘陵地帯を中心に、発電装置やヘリポート。クローンの成長を促進するため、用意された、工場もある。
人の姿が、ぽつり、ぽつりと消えていく。目的地へと、ようやくたどり着いた頃には、辺りは静けさに包まれていた。住宅はすっかりなくなっていて、道の両側にはうっそうと茂る草花が、風に揺れるばかりである。
「今日は、休日なんですよ」
と、訝しげな女性に語りかける。広大な敷地は、コンクリートの壁で囲われ、刑務所じみた格好だった。ぎっしりと整列した建築物や、そこに絡みつく緑の蔦。人ひとりいない風景は、空っぽのダンボール箱を思わせる。叩くと、ぽん、と音がするのだ。
「ところで先刻の話ですが、――ナメクジが、どうやって交尾するのか、ご存じです?」
「さあ、知りません」
女性は、嫌悪感をあらわにした。
「アレは、なかなかに面白いものですよ。雄と雌、両方の器官を備えていて、パートナーと互いの精子を交換する。こう、反時計回りに絡み合って……」
両手の人差し指で示してみせると、真っ青な顔をしてそっぽを向いた。僕は少しだけ、愉快だった。
「ナメクジは苦手でいらっしゃいます?」
「……ええ。嫌いです」
「それじゃ、あともう少しだけ。――ナメクジの生殖で、アイルレッツ現象というのが、よく知られていましてね。先に申し上げましたとおり、彼らは二匹で生殖をし、双方が子供を残すわけです。では、それぞれの子供らが、また精子を交換したら?」
「……はあ、なるほど」
「最初の二匹、その遺伝子だけをもった個体が、永遠に続くと思うでしょう。ところが、そうはならんのです」
中央棟の白いドームが近づいてくる。風がひょう、と耳に響いて、汗を急速に冷やしていった。
「平均して十世代目から、突然子供の遺伝子に、不可解な変化が起こります。どこからも潜り込むはずのない、全く別個体のものとしか思えない形質の変化が、何度試しても現れる。およそ、十五世代を経た時点で、個体は最初の二匹とは、まるで別物になってしまう」
つまり、と僕は語った。
「この状況で、表層的な記録と、深層的な記憶とは、全く別に考えなければならないのです。最終的に残された個体は、記録の上では歴史を持つ。けれど、記憶の上では、この上なく空虚な存在……」
――そして、彼女の研究していたクローンは、正反対の代物といえよう。
「……ははあ」
首を傾げつつ、女性は答えた。僕はそれを横目に見ながら、
「さ、こちらですよ」
と、指し示す。中央棟の、すぐ横に、花壇が設けられていた。数年前、僕が作ったものである。赤、黄色、水色、白……多種多様な色彩が、無機質な建築に囲まれて、くっきりと浮かび上がっているのだった。中央には、鏡のように磨かれた、白い板が立っている。数行の文字が刻まれた、ごく簡素な石碑である。
「川島先生が亡くなったのは、今から三年前になります」
僕は努めて、冷静な口調でそういった。
女性はただ崩れ落ち、ぽつり、と数滴の涙をこぼした。
川島と僕が出会ったのは、大学の研究室でのことだった。
「私と、共同研究しませんか?」
僕がしたためたレポートを、どこからか手に入れたのだと、そういった。
共同研究はいつまでも続いた。大学を出ても、終わらなかった。以来、僕はいつだって、彼女の隣に居続けたのだ。
それが、ある種の恋愛感情だったのか。あるいは、単なる友情じみたものだったのかは、定かではない。重要なのは、「協力してくれ」と頼まれたとき、即座に頷けるくらいには、ぞっこんだった、ということである。
「先生と会ったら、どうするつもりだったんですか?」
海鳥の鳴き声に負けないようにと、僕はいくらか声を張る。向かってくる定期船を、女性はぼんやり眺めながら、
「一緒に、帰るつもりでした」
呟くように、そういった。
「夫が昨年他界して、家には私一人なんです。いつの間にか、借金ばかりがかさんでいった。もしもあの子が研究をやめて、帰ってきてくれたなら、二人で一緒に、力を合わせて、幸せに暮らしていけるかなって。……家族って、きっと助け合わなくっちゃダメなんです」
船に乗り込んだ女性の姿が、飛び交う海鳥の向こうにぼやける。小さく、小さく、小さくなって、曖昧な輪郭に溶けていく。陽光がじりじりと睨めつけて、僕は額の、汗を拭った。船は、空っぽだから浮かぶのだろう、とそんな言葉が脳裏に浮かぶ。
「終わったの?」
と、背後でよく知る声が聞こえた。
「終わったよ」
僕は答えて、背後をつと振り返る。数人の男女がそこにいて、似通った顔を並べていた。紫の布を撒いた女や、涼しげなシャツを着た男。誰もが僕によく似ていて、鏡を覗いている気分になった。
「あなたも、お神輿を、引きたいんじゃないかと思ったのよ」
「誘いに来たってわけなんだ」
「僕はいいよ」
と返しつつ、ふと疑問を口にする。
「今、何人くらい、残ってるの?」
「元から住んでた爺婆だと、もう十五人くらいかな。去年三人逝っちまった」
――もしも、この島の住人が、皆いなくなってしまったら。
僕は、そんなことを考えた。
――僕と、僕のクローンだけが、あの祭りを、継承できるというわけだ。
それは、どこか不自然だった。
「祭りも良いけど、そろそろ本土から、視察が来る頃合いだからね。研究も進めないと、また予算を削られちゃうよ」
分かってる、男女は口々にそう言うと、こちらに背を向け歩いて行った。
空っぽな島。人口数十人の、小さな島。そこには、現在、男女五百人近い「僕」がいる。
僕だけの島 亜済公 @hiro1205
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