第五話 夕映えの中で(Im Abendrot)

 誠人からのメールは、最後の最後に和彌のもとに届いた。それは大ホールでの演奏会の前日で、彼の感想で良いのなら、演奏会のあとに会って伝えてもよいと書かれていた。和彌はそのメールの前でしばらく動くことができなかった。

 本当は彼が新しく解釈した弾き方で誠人に聞いてもらいたかったが、それではいままで彼が抱えてきた葛藤は伝わらないだろうように思えた。彼はけっきょく、今まで通りの『聴衆に求められた』弾き方で演奏した。おそらく、ショパンのピアノ協奏曲第一番はそれこそ多くの聴衆にとっては若き天才が素直な弾き方でオーケストラと共演するための演目だった。

 その意味で、“新風”である和彌の弾き方は興味を引くだろうと主催者は踏んでいた。指揮者がもくろんでいたのはポーランド的な舞踏的な曲の在り方であり、和彌はそれを汲んでけれんみすら加えていた。ウィーンフィルのシュトラウスがオーストリア的でなければならないように、今回のショパンはポーランド的でなければならない、というのが指揮者の指示だった。

 

 コンサートは主催者の目論見どおり、大当たりだった。そして評論家の評判も上々だった。そして、約束通り彼のもとに会いに来た誠人はいま深く考え込んでいた。


「指揮者のいうことも分かるが、僕はもうひとつショパンの意図は違うところにあったのではないかと思うね。君がむしろいま弾いたみたいに、そう、そんな風に明るくはずんだ音で弾いたほうが僕はショパンの意図に合うのじゃないかと思う」


と誠人は言った。彼の姿は貧乏教師そのもので、フォン・メストのところで出会ったときよりもひどかった。グレードの高いホテルの部屋と彼の対比は滑稽なほどで、そのことは和彌の胸をえぐった。

 また、声も決していい状態ではなく、おそらく『魔王』の音域はもう出せないであろうと思われた。和彌は尋ねた。


「ショパンの意図っていうのはなんだい?」


「これは彼が弟子入りを考えていたカークブレンナーに献呈したものだ。カークブレンナーの協奏曲を聞けば、彼がモーツァルトのオペラを再現したがっていたのがわかる。ただし、彼は当時随一のヴィルトーゾ、超絶技巧の持ち主だ」


 ここで彼は生き生きとした表情になり、ニヤリと笑って和彌を見た。


「彼はソプラノ歌手には出来ない疲れ知らずの高音をすべてピアノに任せた、そして曲全体をつまらなくした。僕が思うに、だけどね。だがショパンは彼に入れ込んでいて、彼に認められるためにこの曲を献呈したんだ。だから、君の思うようにこのパートはきっと華やかさではなく、朗らかさを追求するのでいい」


 そしてこの風采のあがらない男は先ほど和彌を見たのにもかかわらず、いまここで初めて和彌がいることに気が付いたような表情をした。


「気を悪くしたかい」


 誠人は和彌がうつむいているのを見てそう言った。和彌は誠人が、おそらくこんな話を長いあいだしておらず、水を得た魚のように目を輝かせて話すのを複雑な気持ちで聞いていた。


「僕がいてはいけない世界だよ」


と和彌はぽつりと言った。


「君がこっちにいなくちゃいけなかったんだ」


 誠人はそれを聞いて、ずいぶんながいあいだ黙っていた。


「何もかも持っているやつが言うなよ。こう弾かれるべき、ということと、観客が聞きたいものは違うことは良くあるじゃないか。でもせめて君はこう弾かれるべき、と思い、その境地にいつか聴衆を連れて行ける場所にいる」


 さいごに誠人はため息交じりにそう言った。その仕草はもう中年にさしかかっており、若々しさはなかった。


「もう時間じゃないのか」


誠人は時計を視線で指しながら言った。和彌は首を振った。


「ステラだけで出発するだろう、一日ずらしたってどうってことはないさ。君の邪魔にならなければ」


 そしてまた自分のなかに沸き上がる気おくれに抗いながら彼は続けた。


「……僕は君が歌ったような魔王には出会えていないんだ。あの頃の君と同じように美しい声の持ち主はいくらでもいる。でも、君の魔王は、今まで出会ったどんなリートよりも恐ろしかった。どうやったら君のような歌い方になるんだい? ……実は十年以上、そればっかり考えていた」


「もし君がそう思うなら、それは僕が人間としてどうしようもないからだ」


誠人は笑いながらそう言った。和彌は想像していた答えとあまりにも正反対で思わず顔を上げて誠人を見た。誠人は穏やかに年下の和彌を慈しむように笑っていた。


「僕はシューベルトの解釈ではなく、原詩のゲーテの解釈から入った。つまり彼はドイツ的デモーニッシュの生みの親さ」


 彼はもう出なくなっている音域をごまかしながら、父親、少年、魔王のパートをそれぞれ数小節ずつ歌った。それはあまりに残酷な劣化ではあったが、それでもなお和彌を惹き込む魔力に満ちていた。


「つまりヨーロッパでゲーテの言うVater(父)ならば、当時の人間は何を思うか……? 彼は若きウェルテルを書いた男だ。僕は思った、これは父なる神の御手を誘惑に抗えずに去った人間の、キリスト教的な死の話なのだとね」


 和彌は自分の手が震えるのを感じた。それは予感でもあったけれど、すでに自分の中で理解していたことでもあった。


「それで君は……君はうまくそれを表現できたかい……?」


 和彌はかろうじてそう聞いた。


「難しいね……君がけれど、あのたった一回の協演を覚えてくれていたので僕は十分だ、そしてこうやって僕を日本まで訪ねてきてくれた。僕はゲーテを理解し得ても、シューベルトを理解していなかった。だけど君のピアノはとても鮮やかに僕の解釈を裏付けてくれた」


 和彌はそれを聞いて、あれからの十数年の孤独が自分の中から溶けて流れ出すのを感じていた。そして誠人は和彌に、ピアノを代わってもらうように頼んだ。

 誠人は言った。


「音楽に魂を売ったものの苦しみは他の人間にはわからないさ」


 そしていくつかの和音を引くと、シューベルトの『夕映え』の導入を弾いた。


「おお、なんとすばらしき御身が世界

父よ、いまあなたの黄金の日差しが

あなたの光が私の静かな窓辺に差し込むとき


くず折れようとする この心に

あなたの焔を飲みこみ、その光を味わおう」

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青の時代(旧 魔王と蝶) スナメリ@鉄腕ゲッツ @sunameria

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