第四話 星(Stella)

 フォン・メストからの便りが届いたのは、ちょうど和彌がそんな風に考えに取りつかれ、地位や名誉の他にはやがて人は自分を裏切るに違いない、と思い始めたときだった。

 そこには、誠人が結婚生活を終える決断をし、日本に帰国していて、どこかの学校で音楽の講師をしていると書かれていた。自分もこれから日本に行く機会があるかもしれないが、もしできるならまた二人の協演が聞きたい、とあった。和彌は誰とも悩みを話したくない気分だったし、ましてや恩師にこんな考えを打ち明ける気はさらさらなかったが、ただひとり、誠人には理解してもらえるような気がした。

それは彼だけが和彌のモーツァルトを素晴らしいと言ったからであり、そして和彌が本当に誰かに褒められたかったのはショパンではなく、モーツァルトだったからだ。

 

 そういうわけで彼は、ステラと一緒に日本に演奏旅行を企画した。いままでも何度か日本ではオーケストラに呼ばれることはあったが、コンクールの演奏旅行で立ち寄ったの以外では単独で演奏会をしたことはなかった。

 ステラを経由して主催を申し出てくれたところは、いずれも和彌のショパンを希望しており、和彌は条件付きでそれを了承した。その条件とは小さなホールで、事前に募ったファンだけを相手に実験的なリサイタルを開くというもので、そこに人づてに誠人を招待したのであった。

 そこで彼はシューベルトの『美しき水車小屋の娘』を独唱者なしで演奏した。それは主旋律を編曲で付け足さずに、忠実にピアノだけを取り出したものだった。面食らった主催者からはバイオリニストを呼ぶことを提案されたが、和彌は断った。

 和彌はおそらく聴衆は退屈するだろうと思ったが、むしろ『選ばれた』ファンとしての彼らはむしろ彼がこのような気まぐれな『遊び』をすることを喜んだようだった。

 

この実験的な試みに評論家を呼んだことには意図があった。彼らはもうこのピアニストを『弦楽器の魔術師』と呼ばないだろう。そしてせめて『つまらない、平凡な演奏』ぐらいは書くだろうし、運が良ければ『そもそもリートの演目にも関わらず演奏に独唱もなく、情感を補うべきピアノは杓子定規で今までの演奏の良さはひとつもない』と書くだろう。

 しかしそれは和彌にとって悪いことではなかった。彼の演奏会には独唱者がいないということが重要なのだ。

 

 彼は誠人がブルーローズに現れたことに満足していた。あの、フォン・メストの前でのたった一回の協演は、和彌にとってはあまりに大きな出来事だった。彼は幼いころから音楽の世界で生きてきたのにもかかわらず、まるで水に住む魚が生命にとっての水が何かを理解できないように、他者にとっての音楽がいかに豊かで必要なものかを理解できなかった。

 だがあのとき、誠人を通して和彌は音楽とは何かをつかみかけた気がしたのだ。誠人の声によって音符の隅々にまで新しい解釈、新しいニュアンスが行きわたり、そして世界が生き生きと立ち上がった。

 それは誠人にとっても同じではなかったのか……?

 もしもそれが和彌だけの感覚であったなら、きっと誠人はブルーローズに現れはしなかっただろう。それは和彌ができるかぎり日本を避けてきたのと同じ理由で、だ。


 大ホールでの演奏のために子供のころから嫌と言うほど弾いたピアノ協奏曲を練習しながら、誠人も知りたがっているんだ、と和彌はつぶやいた、するともうショパンはいままでの弾き方ではつまらなくなり、和音はモーツァルト的な音の通りを求めた。

 だがそれは和彌のファンが求めるものではなかったし、当然、おそらく主催者も指揮者も彼に”それ”を求めてはいなかった。

 そして彼は誠人に手紙を書いた。それは彼が人生の中でいちばん素直にてらいなく書いた手紙だった。自分がいまの奏法に行き詰っていること、誠人が自分のモーツァルトを評価してくれたことがいまだに心に残っていること、そして誠人の歌が自分の触れた中でいちばん美しいと今でも思っていること。

 それは誠人の勤める学校あての封筒に同封された。和彌はたとえ誠人が彼をうるさく思うにしても、周りの人間には彼の才能を知ってほしいと思ったからだった。そういう意味では返事がないことは覚悟していたし、自分にできる最後のプレゼントになるだろうと思ったからだった。

 和彌は自分が他人のために何かをしようと考えたことに自分でも驚いていた。それはあまりに自然に沸き上がった感情であり、その動機にはこれっぽっちの思い上がりもなかった。ただ無防備な好意に満ちており、そして拒絶されればひどく傷つく類のものだった。

 けれど、それがどうしたというのだろう? 彼はずっと自分のプライドのために誠人の才能を認められなかったのではないか。自分が傷つくにしても、それは当然の報いであるように思えた。

 

 予想通り送った手紙の返事はなく、そしてフランスへの帰国時期は近づいていた。ステラはその日、誰とも会食の予定が入らずにホテルでのんびりしていた。和彌はいつもだったら練習用のスタジオに入るところだったが、ステラが夜に独りは退屈だというので、夜はホテルに戻った。

ステラの計らいで部屋にもタッチを調整したアップライトだけは運び込まれていた。彼は何の気なしに彼女の好きな『亜麻色の髪の乙女』を弾いた。二人だけで過ごすとき、彼らはいつも仲の良い兄妹のようで、和彌はこういった時間が嫌いではなかった。

和彌はいつもよりゆっくりと丁寧に音をつなぎ、ステラは和彌がひき終わると立ち上がって和彌の方にやってきた。そして優しい微笑みで和彌の目をのぞき込んだ。


「いままででいちばん素晴らしいわ、カズミ。今まででいちばん」


 そして戸惑う和彌の頬に母親のようにキスを降らせた。そしてテーブルの前に引っ張っていくと、最近のエドアルドとのやりとりをひとつひとつ話して聞かせた。

 和彌も予想もしなかったことに、いままでステラから同じ話をされてもいまひとつ理解が出来なかったことが、いまやステラの心持や、そのときの息遣いひとつに至るまで想像できるようになっていた。

 彼は自分が仲が良く、おたがいよい友達だと思っていたステラが、エドアルドのいない時間、どれだけ孤独に時間を過ごしてきたかを知った。彼ははじめてステラを友人として心から抱きしめた。


「わたしのケルビーノさんに幸せがたくさん待っていますように」


 ステラは温かい声で和彌にそう囁いた。




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