第三話 魔王(Erlkönig)
誠人がうなずいたので、和彌はわざとゆっくり魔王を弾き始めた。病の少年と父親は夜の森を馬を駆って屋敷へ戻ろうとしている。和彌は三連符によって描写された、霧に包まれた木立の中の馬の足音を、重く暗く表現した。誠人はその呼吸を瞬時に読んだ。彼のドイツ語はきわめてはっきりとしており、セリフは前に通りききやすく、そして淡々としていた。
そして馬から息子に話しかける父親の声になると音は温かく愛情に満ちており、心地がよかった。しかし、息子が父に話しかける小節になって、声は一変した。息子の声は打って変わって悲痛な恐怖をたたえていた。
「お父さんには見えないの、あの王冠をかぶった魔王が!
お父さんには聞こえないの、魔王がやさしく僕に誓うのが!」
先ほどのフィガロと同一人物とは思えぬその声の胸をえぐる悲しい叫びに、和彌は不意を突かれた。それはすでに子供の運命が決まっていることを予感させた。和彌は自分のペースを崩して、急き立てられた馬のように三連符のリズムを早めた。
その刹那、三連符は急激に形を変えて妖しげなワルツ風になり、一瞬の間とともに、誠人の声は魔王へと乗り替わった。
「おお、愛しい子よ私とともに行こう、私と楽しい遊びをしよう。
私の娘たちはお前を舞踏会に連れて行くよ、そして揺さぶり、踊り、歌ってあげるよ。」
歌手はほとんど女性的ともいうべき声楽技法で誘惑を囁いた。少年は徐々に恐怖で張り裂けんばかりの声をあげ、あらがい、父親に魔王の娘たちが見えないか、と問いかける。
しかし、父親はうなされる息子をなんとかなだめようと柳の木の影だとさとす。
和彌の奏でる夜の森の情景に、声はぴったりと吸い付くように呼吸をあわせ、自在な表現で心情を訴えかけた。その声はほとんど人間のものとは思われず、悪魔にもし声があったなら、誠人の声をしているだろうように思われた。
そしてついに歌のクライマックスがやってきた。魔王は世にも甘い声で残酷に言い放った、
「愛しているよ、その美しい姿に私はぞくぞくする
ではお前が望まないなら、力づくだ!」
そしてすぐさま悪魔に奪い去られる少年の最期の言葉が続いた。
「父さん、もう魔王が僕をとらえてしまったよ、
ああ魔王が僕を苦しめる!」
和彌はあっけない幕切れの二音をほとんど呆然としながら置いた。和彌が我に返ったのは、恩師フォン・メストの拍手によってだった。
「素晴らしい、二人とも実に素晴らしい。素晴らしくデモーニッシュ(悪魔的)だ。
私一人で聞いたのが申し訳ないぐらいだ。どうだった、マコト、カズミ、ずいぶん気持ちがこもっていた」
和彌が誠人のほうをみると、そこにはもう魔王の姿はなく、また風采のさえないひとりの青年がいるのみだった。彼は真面目な調子でこう言った。
「和彌くんはイマジネーションがすごいですね」
そしてこう続けた。
「あまりに音の風景が素晴らしいので、まるで引っ張られるように僕の中にもイメージが沸き上がりました。霧の冷たさ、重たさ、それからざわめく木々に翻る木の葉。それが魔王の小節にはいると途端に幻惑の世界になるのです。自在な変化はショパンにも通じるかもしれませんが、とてもよく歌えました……すみません、外国語には自信がなくて。伝わりますか?」
フォン・メストは満足したように何度もうなずいた。そして和彌は耳を疑っていた。和彌に引っ張られただって……? 和彌はまるで自分が歌に操られたように感じていたというのに。そして彼が幻視したとおりに表現した風景を、誠人もまたまったく精確にとらえていた。そのことに和彌は急に、ほんとうにとつぜん子供のように感動して、ピアノから立ち上がると自分でも訳がわからぬまま誠人に握手を求めた。
これには誠人もフォン・メストも面食らっていて、和彌はその反応に恥ずかしくなって手を引っ込めてソファに座った。けれど誠人はもういちど自分から握手を求め、和彌は恥ずかしくなったままおざなりにその手を握り返した。
それからずっと、和彌は誠人に対して何か気おくれしたものを抱えることになった。彼の中の高慢な部分が、プロの演奏家としては自分の方がはるかに先を進んでいるはずなのに、誠人の自分への敬意が足りない気がする、と言う理由で彼を嫌っていいと意地悪く囁いていた。
それから何度か講義でも行き会ったが、彼らは日本語で話すことはなかった。それはどちらもが親しすぎると思っていたし、何か居心地を悪くさせるものだった。
ときには彼らはフォン・メストから話を聞いた学生たちによって小さなコンサートをせがまれた。けれど和彌はかたくなに拒否したし、誠人もすでにプロと言える和彌の迷惑になってはいけない、と周囲を諭すことになった。
それでも、和彌は社交界での点数稼ぎに、チャリティーならば他の学生と組んで歌曲をやることはあった。いずれも好評ではあったが、誠人の歌を聞いたときのように風景が彼の中に沸き上がったり、魔王が幻覚の中に立ち上がることは二度となかった。
最終学年のとき、一度だけ、和彌に面と向かってあまりに情緒過多で大衆に媚びすぎている、と批判を口にするものに、誠人が異議を唱えたことがあった。
「君は自分の批判のための批判に取りつかれていて気が付かないかもしれないが、和彌くんのモーツァルトもベートーベンもたいへん素晴らしいものだ。基本ができていてあえて分かりすくするものと、自分の欠点を隠すために雄弁すぎるものとでは違うんじゃないだろうか」
和彌はその言葉に内心とてもよろこんでいたけれど、それを表に出すことはなかった。それよりも誠人が訳知り顔で自分をかばったことに怒りを覚えなければ“ならない”と彼は感じていた。
やがて和彌はそこそこ大きなコンクールで優勝して、演奏旅行の権利を勝ち取った。もうそれから、和彌が誠人と行き会うことはなかった。お互いがどうしているかも知らなかったし、ただ人づてに、誠人が若い女性ピアニストと恋に落ちて学生結婚をした、と言う話が風のうわさで流れてきた。
和彌はそれを聞いて、ああ、彼はプロの道から外れたな、とだけぼんやり思った。それ以上の感情は何も出てこなかった。まいとし何万何千と言う才能ある音楽家が輩出されては、同じだけの数がまいとしその夢を絶たれるのである。そのたびに胸を痛めることは不可能だった。
やがて彼は、多くの資産家とも音楽家とも浮名をながし、そしてクラッシック界の寵児になった。華やかなエピソードの数々が観客を呼んだし、ほどなくしてステラと言うよき理解者であり、口うるさくなく、干渉しない理想的なパトロンも得た。
若い音楽家にとって、それはこれ以上ない、順風満帆の船出に思えた。ただひとつ、彼の船には目的地がなかった。船出を祝う人々は口々に新しい大陸を目指せ、ピアノの新境地を拓けと叫んだが、彼自身、どれだけ胸の内をさぐっても、頼るべきコンパスは出てこないのであった。
彼は愛されすぎていた。しかし彼を愛している人々は、ほんとうの彼を知らないからこそ彼を愛していた。その空虚さが彼の中に巣くったまま、その菌糸をのばす機会をずっとうかがっていた。彼はそれを振り払おうと、がむしゃらに仕事をした。音楽は彼にとって命そのものではなく、生業であり、生活の糧であった。彼は自分が決して人々の言うような天才ではないことを知っていた。
天才と言うのは誠人のような人間を言うのだった。どのようなときも彼は音楽を裏切らないだろうし、音楽も彼を裏切らないだろう。ただ名誉には縁がないかもしれないが運命の神はえてして和彌のような人間を愛するのだ。
運命の神は彼のような弱い人間に気まぐれに微笑みかけて、そして気まぐれに打ち捨てる。彼の中で膨れ上がった虚構がいつか崩れ、彼の中が空っぽだと人々が知ったとしても、人々はまた次の生贄をさがすのだろうから、彼はほんとうのところまったくの孤独であった。
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