第二話 蝶々(Cherubino)
リサイタルを終えた和彌は、懇談会も体調が悪いと断ってホテルの部屋にもどった。妻のステラはイブニングドレスをまとって神経質にアイシャドウを整えており、鏡ごしに和彌を認めると手で呼び寄せてハグとキスをした。
「うまくいった?」
ステラは単刀直入にこう聞いた。和彌がうなずくと、ステラは見透かすようにじっと和彌をみつめて、笑ってこう言った。彼女は出会ったころから全く変わらず、隙のない美しい女だった。
「思ったようにいかなかったのね、今夜は彼に会って来るわ。寂しかったら誰か呼べばいい」
和彌はロングコートをクローゼットから出すと、立ち上がったステラの肩にかけた。
「エドによろしく」
「伝えられたら伝えるわ、でもまたケンカになるかも」
ステラは軽くそう言ったが、和彌はステラが本気で『彼』を好きなのだと知っていた。しょっちゅう恋人が変わる和彌に対して、ステラは情熱的で一途な女だった。出会ったころからエドアルドだけを見つめている、なぜそんなことが可能なのか和彌には皆目見当がつかなかったが、ステラはそれができる人間だったのである。
結婚式のとき、和彌は誓いの言葉をすらっと嘘で通した。だがステラは一言すら発さなかった。エドアルド夫婦はずっと後ろの方にいたのに。彼らはカトリックだったし、資産家だったので離婚の合意は不可能だった。若いステラが本気の恋に落ちたとき、運命は彼女に味方しなかったのである。
神父は誓いをたてぬ花嫁を見て見ぬふりをして儀式を行った。和彌は演奏活動のためにパトロンを必要としていたし、ステラは芸術に理解が深かった。確かに夫婦ではなかったかもしれないが、二人は間違いなくいい友人だった。
出かけていくステラの後ろ姿を見送りながら、和彌はケルビーノの一節をくちずさんだ。
「Voi che sapete che cosa è amor, (あなたたちは知っている 恋と言うものをね)
è per me nuovo,(私にとっては新しく)
capir nol so(理解できないものごとを)」
あの一瞬、ふりかえった男は誠人にまちがいなかった。だが、その声は彼の知っていたものではない。あのいつまでも耳に残っている、みずみずしいテノールではなかった。
「日本から面白い留学生がきているよ。君より五歳ぐらい上かな」
そうやって紹介されたのが誠人だった。誠人はピアノ科から声楽科に転向しており、学生の平均よりは年上だった。そのときまだ会ったことはなかったが、アジア人の体格にもかかわらず広い音域と夭折の天才ヴンダーリヒの音質を持っていると噂にはなっていた。
一方、和彌はその年すでに複数のコンクールで優勝しており、大きな大会でも(恩師のフォン・メストのお気に入りだったこともあり)優勝候補にあがっていた。
社交界に顔の広いフォン・メストの紹介で和彌はすでにパトロンになってくれそうな資産家たちとの『親交』も深めながら、彼は自分が失いつつあるものを意識せずにはいられなかった。彼はショパンを意識して弾き込んでいた。
それは彼が習ってきた楽譜に忠実な奏法ではなかった。これからは何より商業的に独自性が求められることを彼が機敏に感じ取っていたからである。そして何より、彼のとりまきたちが彼に期待するのが情緒性であったからでもあった。
だが、すでに両親がパトロンである余裕のある良家の子女たちに交じって、彼に他に何ができたというのだろう?
フォン・メストもかつての時代の寵児であったから、自分の世代の奏法を和彌に強く押しつけようとはしなかった。彼自身が音楽界で生き残ることの難しさを知っていたし、和彌の嗅覚を信頼しているからでもあった。ただ、メストはそのとき和彌の感じていた表現の行き詰まりを察して、誠人を紹介したのであろうと思った。
あの日、和彌がフォン・メストの部屋をたずねると、部屋のソファには誠人が座っていた。風采のあがらない、四角張った男だった。目が合うと、気の良さそうな笑顔で会釈した。歌手と言うよりむしろ田舎の農夫と言った感じだ、と和彌は思った。
そしてそのつまらなそうな青年を見ながらどうせ日本の昔話でも出てつまらない話にしかならないだろうから、早めにこの会を抜け出そうと内心思った。
「カズミ、こちらがマコトだよ。話をしただろう、君に会わせたい日本人っていうのが彼だ。せまい学内だ、話は聞いたことあるだろう」
そう言いながらフォン・メストはピアノに腰かけると、とつぜん陽気に『もう飛ぶまいぞこの蝶々』を演奏し始めた。誠人が少し戸惑って入り損ねたので、メストはもういちど序章をくりかえして右手で誠人をまねいて煽った。
「さあ、その人に君の声を聞かせてやってくれ、マコト、その人気者にだよ、私の耳にも入っているぞ、カズミ!」
誠人は立ち上がると少しほほ笑んでピアノに歩みよりながらこう歌い出した。
「もう飛びまわるまいぞ、浮気な蝶々!
昼と言わず夜と言わず
美しきものの憩いをひっかきまわし
ナルシスさん、愛のアドニスよ」
その声はのびやかでドイツ的な明るさに満ちていた。フォン・メストは気に入ったらしく、そのまま少しまちがえながらも弾き続けた。そして兵隊の行進の節では力強い低音でケルビーノ、つまりフィガロの結婚に登場する浮気な蝶々に砲弾を雨と降らせた。
曲が終わったとき、和彌はごく自然に拍手をしていた。それは誠人の歌がすばらしかったこともあるし、フォン・メストがピアノを自在にホルンにもバイオリンにも変えたからである。誠人もそう思ったらしく、和彌にこう言った。
「フォン・メスト先生は素晴らしいね、和彌さん。まるでオーケストラと歌ってるようだった」
フォン・メストはピアノをはなれ自分もソファに腰かけながら、和彌にこう言った。
「彼は指を痛めるまでピアノ科にいたそうで、日本では鷹子氏に師事していたそうだよ。音の解釈が良い意味で非常にち密に勉強されおり、古典的だ。そう思わないか?」
フォン・メストの表情を見れば、彼が誠人を高く評価していることがうかがえた。和彌はそれが少し面白くなかった。それは奏法が情緒にかたむきつつある和彌のことを暗に批判しているように思えたからである。
久しぶりにシューベルトを弾かないか、なにか二人でリートを聞かせてほしい、とフォン・メストは和彌に持ち掛けた。和彌は気乗りがしなかったが、つまらない話をするより時間がつぶせると思ったので、立ち上がって誠人に
「魔王?」
と聞いた。
たまたま手首のしなやかさの練習のためにしばらく使っていたからであり、若いシューベルトによる感情ゆたかな表現が“情緒過多気味の”自分の持ち味をいちばん生かせると思ったからだ。
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