青の時代(旧 魔王と蝶)

スナメリ@鉄腕ゲッツ

第一話 嫉妬と誇り(Eifersucht und Stolz)


よく指だこの発達した十指が鍵盤に糸を張り

全ての音を一気に手繰り寄せたかと思えば、

ピアニッシモの波紋はブルーローズに満ちみち

反射は蝸牛の電子の波となり神経の根はふるえ

凝視する聴衆たちの網膜は人々のかげを赤くふちどり。


 楽章の最後、演奏者はピアノのわきに置かれたハンカチで汗をぬぐうと、大きく息をついた。そして次の瞬間、黒く隆起した背から落とされた指は鋭く垂直に黒鍵を叩いた。スピードだけではなく迫力ににみちたスタッカートにつぐスタッカートはシューベルトの嫉妬と苛立たしさを乗せてほとんど打楽器のように聴衆の意識をホールの端までつきとばし、やがてペダルでつながれた重々しい嘆きが彼らを暗い川底に引きずり込んだ。

 一つ一つの音は限りなく濁りなくホールに響き、演奏家を特徴づけていた情感はいまは息をひそめてピアノという楽器の響きの支配下にあった。

やがてようやくの思いで水面に浮かんできた聴衆をベーゼンドルファー独特の低音が確かな音圧で押し流し、小川に飲み込まれた彼らは自分がまるでオフィーリアのように川面に漂いながら命を手放さんばかりの陶酔に酔いしれていることに気が付くのだった。


「ああ、もう彼はダメだね」


 聴衆の熱狂とは裏腹に、演奏の終わり、割れんばかりの拍手の中で、数人の評論家や権威たちが招待席を立とうとしていた。彼らは稀代の演奏家であり、クラッシック界の新風であった『はずの』青年に、自分たちの不満を表すため、アンコールを前にホールを去ろうとしていた。


「なんだってこんなにつまらない演奏をしたんだろう、これでは自動ピアノでも聞きに来た方がマシだ。正確無比だということがいまどきどれだけの価値になるというのか?」


「たった一か月でカズミは自分の築き上げたものを捨てたわ。なぜこんなくだらないことを企画したのかしら」


 だが、その和彌といえば立ち去る評論家たちの後ろ姿を見てもいなかった。この独唱者のいないリートの『伴奏だけを聞かせる』珍しいリサイタルは、ブルーローズという室内楽のために作られたステージで行われていた。大ホールにくらべれば三百席ほどのこじんまりとした形式であり、聴衆とより近くで音を共有できる場所だった。


 演奏家も観客もお互いに呼吸を共有しながら、視線を交わすことすらできる。

 彼は今日、シューベルトの『美しき水車小屋の娘』をピアノだけで演奏した。編曲してメロディを付けたわけではない。この試みを聞いた人々はだが面白がった。

カズミ・ヒロタは従来の奏法にとらわれずにピアノをまるで弦楽器のように歌わせてピアノの新しい世界を開いてきた天才である。その彼がまた新しい遊びをはじめたのは当然のことではないか、と。


和彌の奏法はまずフランスで認められ、そこからヨーロッパのクラッシック界の寵児となった。反発も大きかったが、それ以上に大きかったのは彼が聴衆を恋に落ちさせたからである。

 彼はいつだってこれを限り、という弾き方をした。彼はどんな大きなホールでも、暗い客席に自分の音楽を捧げるべき美しい女性を見出した。オペラ歌手がよく観客の中に仮の恋人を見出すように、彼は一夜のための恋の歌を彼女のために奏でた。したがって、彼の指が奏でたのはどんな時も堅苦しく作曲家の意図を厳格に再生するピアノではなく恋を歌う弦楽器であった。

 それが本当に短い恋の関係になることもあった。ただ、彼はそうして自分の『ピアノ弦楽器の魔術師』としての表現を切り開いてきたのである。

 

 けれどいま彼が観客の中に探していたのは、美しい一夜限りの恋ではなかった。彼は自分でも意外なものをさがしていた。それは会場が明るくなり、彼がピアノに手を置いて一礼をしたときにドアの付近で視界をかすめた。

 それはドアをすり抜けようとしていた、もしも出口の前のクロークでつかまえなければ、また彼は探さなければならないだろう。


 彼は室内より三十センチほど高くなっている舞台をさっと駆け降りると、ホワイエを左手に正面にあるクロークへと走った。観客は呆然としたが、彼には観客をかまっている暇はなかった。

 彼が探している人物はすでにクロークからコートを受け取り、エントランスを出て行くところだった。肩をつかんで呼び止めた男は、きらびやかなホワイエにはおよそ相応しくない身なりをしていた。この寒空にとうてい太刀打ちできなそうなしわだらけのチェスターコートを羽織り、その下のセーターは色あせ、ツイードのズボンの膝はひどくけば立っていた。


「放してくれないか」


 その声がひどくかすれていたので、和彌は胸に強い衝撃を受けた。男は少しおびえた、疲れた眼差しで和彌を見ながら身をゆっくりとよじると、肩から手を振り払った。そして足早にホールをあとにした。和彌は一瞬、あとを追うか迷って、自分が何も持たずに出てきたことに気が付いた。

 ブルーローズに戻ると、もうそこから出ることはできなかった。待ち構えた観客は喝采で彼を出迎え、マネージャは無理やり彼を舞台に引き戻した。

 彼は上の空で礼をすると、今夜の一曲である『狩人』にかけて、あらかじめ用意していたリスト編曲、パガニーニの『狩』を演奏した。狩の始まりを告げる角笛、森の生き物たちの平和なさざめき、そのなかに突如として現れる狩人たちの不躾な足音。逃げまどう獲物たちの駆け抜ける躍動、……彼は、誠人は、和彌のことを狩人のように平和を乱す者だと思っただろうか?

 彼に向けられたブラボーの叫びも、いまはどこか遠い世界の話だった。


 

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