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尾八原ジュージ

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 ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に、アリスが背が伸び縮みするキノコを食べるシーンがある。最初に小さくなる方の端を口に含んだアリスは、その量が多すぎたために背が急激に縮み、顎を足の甲にガツンとぶつけてしまう。僕が読んだことのある本には、頭に手足が生えたアリスの怪物めいた姿を描いた精緻なエッチングが載っていた。

 ひさしぶりに会った元カノのレミを一目見て、僕はその挿絵を思い出した。レミの体がなくなって、ほとんど生首になっていたからだ。顎の下から左右の手がニュッと生えていて、それを短い足のように使いながらヨチヨチと歩き、自力でタクシーから降りられずにオロオロしていた。頭と両手しかない彼女は文字通りの無一物で、僕は代わりにタクシー代を払うはめになった。

 子供みたいにびーびー泣くレミから事情を聞き出してみれば、どうも彼女は数億人に一人という奇病中の奇病、俗にエッグマン病と呼ばれているものを発症したそうなのだ。原因も治療法も不明、ただ体がどんどん縮んでいって、最後はほぼ頭部だけになってしまい死に至る。その姿が「ハンプティ・ダンプティ」のようだからエッグマン病なんだとか。いくら何でも奇病すぎないかと呆れつつ、僕は長い髪に葉っぱだの枝だの砂だのをつけて泣く彼女を素直に可哀そうだと思った。浮気されて大ゲンカの末別れた彼女のことを、「見るからにクソな男とくっついて後悔しろこのクソ女」と呪うことはあっても、こんな風に哀れに感じる日が来るなんて予想だにしていなかった。

 僕と別れた後、レミは浮気相手の男の家に転がり込んでいたそうだ。ところが見るからにクソっぽかった新しい彼氏は、世にも珍しい病気を発症した彼女を使って、マニア相手にひと稼ぎしようと目論んだらしい。日に日に縮んでいく女の子のエッチな写真や動画にはニッチな需要があるのだそうで、特にレミは顔がよかったからいい金になった。最初のうち、彼女は半ば脅されて嫌嫌、もう半分は彼への愛情から男の言いなりになっていた。が、とうとうほぼ頭部だけになった彼女にそいつがでっかい(らしい)ペニスを挿入しようとしたので、殺されると思って必死で逃げ出したのだという。

 ほとんど生首みたいなレミの体をよく見せてもらうと、なるほど膣の方は両手の付け根に隠れてよくわからないが、盆の窪のさらに下あたりに肛門らしき穴があり、ここから異物を入れられたら脳みそが押し潰されて死にそうな感じでは確かにあった。と思っては見たものの、そもそも彼女のこの小さな頭に、生命維持に必要な内臓がどうやって収まっているのか、僕には皆目見当がつかなかった。

「ていうかレミ、なんで僕んちに来たの?」

「いっくんのリボルバー貸してもらおうと思って」

 要は自殺しに来たのだそうだ。ハメ撮りしながら死ぬのは嫌だが、自分で銃の引き金を引いて(銃口を口に突っ込んでも彼女が自分で撃てるかどうかは相当怪しいが)死ぬのはアリらしい。よくわからない主義主張なので僕は困惑したし、正直やっぱこの女クソだわとも思った。

 僕は彼女に浮気されるようなつまらない男(とレミが以前僕をなじったのだ)だが、色々あって金だけは持っている。それで以前、なかなか買えないものを一度だけ買ってみようと思って、とある知り合いからスミス&ウェッソンのM29を購入した。ちゃんと実弾付きの、いつでも発射できる本物である。でもそれはコレクションとして普段は金庫にしまい、時々取り出しては惚れ惚れと見つめるためのもので、他人の自殺のために貸してやるようなものではない。どうせほっといたってレミの余命はわずかだし、そもそもめちゃくちゃ身勝手な話なので断った。

 レミは見るからにションボリして、もう彼の家には帰れないという。だろうな、と僕も思った。そんなわけで、彼女はもう一度僕の家で一緒に暮らすことになった。


 ほぼ生首になったレミは、理解不能なワガママやムラっ気のある嫉妬心を発揮しない分、以前より手がかからなくてわかりやすかった。どうせ僕なんぞは暇な身分だし、彼女は遠からず死んでしまうのだから、一時珍しい動物を預かったような気分で面倒をみてやろうと決めた。

 僕はレミが過ごしやすいように床に置かれたものをなるべく片付け、ちょっとした段差にはプレートを置いて越えられるようにしてやった。最初のうちは彼女が排泄を訴えるたびにトイレに連れていったが、何せほとんど生首なので便器の中に落ちないよう支えていなくてはならないし、本当に落としてしまいそうで怖い。そこでペットシーツをリビングの隅に敷き、ここで用を足すように指示した。嫌がるかと思いきや、レミは案外素直にそれに従った。もうほとんど食事をしないので排泄物の量は少なく、日に一回か二回シーツを替えれば特に問題はなかった。

 髪を踏んだり汚したりしないよう、僕は毎日彼女の髪を結ってお団子にしてやった。床に膝をつき、ダイニングチェアに逆向きに乗って背もたれを掴んだ彼女の髪を梳かすのは、シュールでなかなか面白いものだった。

 内臓が脳を圧迫しているらしく、レミは日に日に記憶を失い、しゃべり方も小さな子供のようになっていった。もう浮気して僕を捨てたことなどは忘れてしまったらしく、まるで僕とずっと蜜月を過ごしていたかのように振舞うのだ。

 僕に髪をいじってもらいながら、レミはくすぐったそうな声をたてて笑う。仔猫みたいに僕の足に飛びついて、膝に載せてもらうと黒目勝ちの目でこちらを見上げる。「いっくんだいすき」とひらがなのニュアンスで言う。ほぼ生首になった今も、きれいな顔は以前のままだ。そういえば元々ツラだけはよかったんだよなと思い出しながら、僕は大きな卵を抱えるようにそっと膝の上で彼女を抱いて、頭頂部あたりを撫でてやる。「僕もすきだよ」とは、なんだか違うような気がするので言わない。

 レミが食べられる量は本当に少なく、僕は早々に栄養バランスがどうのこうのと考えるのをやめた。どうせ遠からず死んでしまうのだから、好きなものを好きなだけ食べたらいい。彼女は金平糖が好きだった。押し潰されて細くなった喉に詰めないように一粒ずつ、ゆっくりと口の中で溶かしながら食べた。一日に十粒もなくなれば上出来だった。

 レミの両手はだんだん頭部に埋もれていき、とうとう左右の人差し指と中指と薬指だけしか見えなくなった。リボルバーのリの字も口に出さなくなった彼女は、毎日ニコニコしていた。


 レミとの二度目の同棲はとても穏やかで平和だったので、僕がいない隙に彼女が攫われたときにはうっかり驚いてしまった。

 その日、外出先から帰ったばかりの僕の鼻先で、見覚えのある黒い車が急発進してうちの庭から出ていった。キッチンの窓ガラスを割られた家の中に、案の定レミの姿はなかった。

 彼女に浮気されたときに色々調べていた僕は、さっきの車が例の浮気相手のものだということをすでに知っていた。レミはのんびり余生を過ごしていただけなのに、こんなイベントも発生するんだなぁなどと思いつつ、僕は金庫からM29を取り出し、弾を装填した。そしてやはり以前調べておいた男の家に向かった。

 ブロック塀に囲まれた家をのぞき見すると、ガレージにさっき見た黒い車が停まっていた。僕は門扉を開けてこっそり敷地内に入り、家の周囲を伺った。一階から男の怒鳴り声と、レミの甲高い悲鳴が聞こえた。

 僕はドアチャイムを鳴らした。何度もしつこく押すと、「うるせーぞ」と悪態をつきながら上半身裸の男が現れた。ズボンのベルトを締め直している最中だった。僕はだしぬけにそいつの頭を撃った。

 死体を踏み越えて部屋の中に入ると、カメラと三脚に囲まれたブルーシートの上にレミが転がってしくしく泣いていた。僕は跪いて彼女を抱き上げた。レミは僕の顔を見上げて「いっくんだいすき」と呟いた。

 僕たちは家に帰った。男の死体は、拳銃を買ったときの知り合いに頼んで片付けてもらうことになった。

 レミが死んだのはその二日後の朝だった。彼女のために買った犬用のベッドの上で、今にも絶えそうな呼吸を繰り返す彼女に気付いた僕は、いよいよその時が来たことを悟った。

 僕はベッドに腰かけるとレミを膝の上に載せ、口の中にピンクの金平糖をひとつ入れてやった。ふっくらした小さな唇がにこっと微笑んだ、と思ったら、その隙間からさっき入れたばかりの金平糖がころりと転げ落ちた。もう息が止まっていた。

 僕はレミの瞼を閉じてやった。長い睫毛を伏せた彼女は、まるで眠っているように穏やかな顔をしていた。僕は彼女を膝の上に載せたまま、赤ん坊をあやすように、しばらくゆらゆら、ゆらゆらと体を揺らしていた。

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