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「おにいさん、紐を取って……」


 私が声の方へ振り向くと、少女は後ろ影に肩をはだけさせていた。


 たった今、起き抜けに身体からだを立てた彼女は、寝惚けた頭のまま、掠れた声で小さく私を呼んだのだった。ゆらゆらと危なかしげに、こちらへと顔を向ける。


 朝日に照らされた真白な素肌は、寝覚め故か、ひどく滑らかだ。

 いつもは苹果のように真っ赤な頬をしているのに、このときだけは硝子で出来ていて、その透明感が美しい。


 溜息を吐く度に、乾いた唇は、静かに顎先へ影をおとす。息を飲めば、頸元の骨は緩やかに上下をし、乳白色の肌を揺らした。



 彼女が紐を欲するときは、大抵その長い髪を束ねる目的である。そして、彼女の髪を整えるのは、いつも私の役目だった。

 髪紐と一緒に、櫛を持って彼女に近付く。

 すると、えた汗の匂いと共に、シーツの上から、陶器のような彼女の矮躯が、私に身を委ねながら、そのまま押し倒すようにして体重を掛けてきた。軽かった。肉体をすっかり忘れてしまったように、重みが無くて、ただ温かさだけが残った、いのちの塊であった。


 彼女はもう、幾日も身体を洗っていない。それなのに、私の胸にかかる熱い吐息は、露いささかも美しさを損なったりはしていない。その事実が私にとっては辛かった。


 彼女はいつになれば汚れるのだろうか。

 仮令たといあの手が誰かを害そうとも、きっと少女は綺麗なままだ。


(──それを羨ましいとは思わない)


 彼女のそれを、私が糾弾するなどあり得ない。そうしなくとも、私は既に彼女の五衰を引き起こすことが出来るのだから。

 理想の綻びは、日常の弧を描きながら、夢から現実へと侵食する風にして、目前に現れつつあった。

 しかしこのまま、敢えて生活を続ける私自身が、ひどく罪深いものに思えてならなかった。


「おにいさん、髪を梳いて頂戴」


 彼女に言われるがまま、私はその睡たげに垂れた髪を梳かす。

 カーテンの隙間から射す明かりが、しっとりとした髪を青く燃やす。風が吹けば、こんなにも棚引く炎だ。きっと空にある星々よりも輝いている。

 上気した頬に、恍惚とした表情の彼女は、そのまま静かに瞼を閉ざす。

 そして歌うようにして言うのだ。


「おにいさん、おにいさん……。わたし、おにいさんの手が好きよ。おにいさんだけに触らせてあげる。おにいさんの自由にしていいわ」


 甘えた声で、とろりと心を覆い尽くす。

 それがまるで不快ではなく、潤滑油のように可愛らしく滑らかに、私の耳を刺激する。

 漂う酩酊感が、私をひそかに興奮させた。

 彼女をじっと見詰めた。彼女は気にする訳でも無く、流し目に此方を見ては、また瞼を閉ざした。


 その関係に汚らわしさは微塵もなく、この間だけは私達に幸せがあった。


 一つに縛り上げた髪束が、滑らかなうなじにかかる。私は暫くその様子に見惚れていた。

 脂のべたついた頭皮、寄りかかった背中、細く浮き出る骨、真っ白な肌は慎しみの影を差す。不安と慈しみ、その両端があどけない胸の辺りでちらちらと揺れていた。

 心情を言えば、あのあえかさを自分の手で触れてみたかった。しかし他ならぬ彼女は、それを嫌がるのだった。


(頸には何のけがれもない。隠すべき毛孔の醜さも、膨らんだにきびも、彼女には一つだって見当たらないというのに。身体の痕は消えようとも、心の傷は癒えないのだろう)


 にわかに、いとけない彼女が可哀想に思えて来た。私の胸を締め付けるのだった。

 傷つきもするし、騙され、間違いを犯しもするのだ、その様相に不憫以外の言葉を紡ぐことはできまい。

 それでも彼女は全てを忘れる。私だけが苦しさを知っていて、当の本人は幸せそうに笑っている。

 それが余計に、彼女を痛々しいように思わせるのだ。


 私がそんな険しい顔をしていると、彼女は身体を傾けながら、そのまま私の方へ倒れ込む。そうして、素早く私の腕の中へと頭を潜らせ、さも自分の居場所と言わんばかりに、私の右肩へもたれ掛かる。──そのまま、ぎゅう、と抱き締められた。

 脇腹が少しくすぐったいが、その華奢な腕を解くことも出来ず、私は成されるがままになる。

 熱っぽい吐息が耳にかかり、甘い匂いが所々に、鼻腔を刺激した。


 彼女は私を恐れている。自分よりも体格の大きい──力の強い私を恐れている。不安な顔をした私が、そのまま自分を捨てようとするのではないか、と。


 荒唐無稽にも、それらの事象は彼女の中ではありうべきことなのだ。


 だから彼女は、精一杯の艶姿を以って、私を逃すまいとする。それは何とも心細くて、ただ言葉を交わすよりも頼りない。

 嫌とも言えず、指と指を絡め合わせ、目合いに交々こもごも愛の色を湛えようとも、心までは触れ合わずに。無意識のうちに本能をも越えようとしているのだろうか。

 

 そんなとき、私は震える手で以って、彼女の頭を撫でる。何も恐れることはないのだと、身悶えする彼女を落ち着かせるように……丁寧に、慎重に撫でる。

 我に返った彼女は、いつも動揺したように過呼吸に近い息を吐きながら、薄く小さく身体を震わせる。今にも泣きそうになっているのに、何故こんなに苦しいのか分かっていない。


 やがて彼女は、さらに強く私の背中を抱き締める。衣服も皺になって、皮膚にも少し跡ができるが、私はそれを静かに受け止めるだけだった。

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美しい悪意 おり。 @user_hyfh2558

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