最終話 櫻の下に埋まるものは

 尼子勢は羽柴秀吉の播州三木城攻めに加わるため、京を発した。

 吉川元春との戦いに感銘を受けたという織田信長により、二千人ほどの兵も貸与されている。

「久しぶりに賑やかになったな」

 鹿之助と松田 誠保さねやすは笑い合った。


 その中には、げっそりと憔悴した冴名の姿もあった。朝帰りが発覚してから、丸々二日間にわたり兄の久綱から説教されたのだ。


 冴名は決して自分から、誰の所に泊まったかなどは口にしなかった。しかしそれは皆がおよそ察しているところでもあった。

 延々と説教を垂れたあと久綱は言った。

「お前は京に残れ。その方がいい」


 これから向かう上月城攻めが大きな危険を伴うという事もあるが、明智光秀もしばらくは、新しく織田方となった但馬地方を慰撫するのに忙しいだろう。

 冴名がその手助けになれば、と久綱は考えたのだ。


 しかし冴名はそれを断った。

「わたしは尼子の女です。ずっと兄上や鹿之助とともに戦います」

 これでまた説教が半日続いたのである。


 ☆


「よく来て下さった。尼子どのが加わって下されば、もはや百万の軍を得た心地に

「おさる?」

「これは失礼。心地にござる。おさるは、わしの面相でしたな」

わはは、といつもの冗談で羽柴秀吉は出迎えた。


「早速ではありますが、軍議を執り行いたい」

 秀吉は急に真剣な表情に変わる。絵図面を拡げると、その一点を指差した。

「尼子の方々には、ここの上月城を占拠して頂きたい」


 上月城は播州の西の端、ほとんど備前に近いあたりに在る。

 これに冴名が疑義を呈した。

「この上月城は三木城から離れすぎていませんか。支城を潰していく戦略は理解できますが、ここは三木城との連絡もなさそうですし、攻撃する意味を感じませんが」


 秀吉は一瞬、殺意の籠った鋭い視線を冴名に向けた。だがすぐにまた、何事も無かったように笑顔に戻った。

「いやいや、これは。女性にょしょうには荷が重かったようですな。どうやら怖気づかれた様子。良いのですぞ、無理なら他の家中の者をあてましょう」


「いや、そのお役目、この尼子家が引き受けます」

 立ち上がったのは尼子勝久だった。鹿之助、久綱、誠保もそれに賛同する。

 男たちの能天気な顔を見て、冴名は密かに唇を噛んだ。


「これは、嵌められたのではないだろうか」

 心の裡で、そう呟いた。


 ☆


 上月城攻め自体は難なく、成功裡に終わった。上月城内の内紛によって自ら落ちたのだと云ってもいい。

「おそらく、ずいぶん前から羽柴さまが調略を行っていたのだろうな」

 鹿之助は感心している。

 怖いひとだ、冴名は改めて羽柴秀吉という男に恐怖を感じた。

 あの普段の明るさは、裏にある闇を包む為のものなのではないだろうか。思わず、ぶるっと身体を震わせた。


 ともあれ、ここで尼子勢は久しぶりに自分の城というものを持つことが出来たのだった。

 鹿之助は精力的に城内を見回り、防柵の弱い所を補修して回っている。

「小さくとも、自分たちの城というのは良いものだな」

 それには冴名も同感だった。



 毛利軍の主力が三木城に向かっていた数か月の間、この上月城はおだやかな時を過ごすことが出来た。

 しかしそれは鹿之助たちが過ごした、最後の平穏な日々となった。

 

 周囲の山々を埋め尽くすほどの毛利の大軍が侵攻し、上月城は完全に包囲された。

 毛利軍の総大将は、吉川元春である。


 ☆


「心配はいらん。この日に備え兵糧、武器弾薬は山ほど搬入してあるのだ。三か月は楽に持ち堪えられる。当然それまでには織田さまの救援が来る。だから皆のもの、安心して戦うがいい」

 立原久綱は城兵を集めそう訓辞した。

 

 おーう、と気勢をあげる城兵。冴名はそっとその場を抜けた。


「どうした冴名、大丈夫か」

 うずくまり、苦し気におう吐する冴名の背をさすりながら鹿之助は呼び掛ける。

「……大丈夫。ありがとう、鹿之助」

 冴名は口元を拭い、蒼白な顔で無理に笑顔をつくる。

「最近ちょっと具合が悪いみたい」


「疲れているのかもしれないぞ。それにこれから籠城だからと、今のうちに食いだめをしているのではないか」

「誰が冬眠前のクマですか」

 冴名は弱々しく言った。



 当初、毛利方は激烈な攻勢をかけてきた。

 吉川元春も前線に馬を進め、城内の鹿之助を挑発する。だが上月城は固く城門を閉ざし、毛利の攻撃を峻拒し続けた。


 やがて羽柴秀吉の軍が到着し、付近の山に陣を張った。

「これで助かった」

 上月城内に安堵の空気が流れる。しかし羽柴軍はそれ以上進攻しようとはしなかった。さらに次々と織田方の軍も集結してきたが、毛利の重厚な包囲網に挑むものは居なかった。


「明智さまの軍が見える」

 城の窓から顔をのぞかせた冴名は、遠くの山に並んだ旗印を見てそっと呟いた。その容貌は少し丸みを帯び、お腹ははっきりと膨らんでいる。

 冴名は明智光秀の子を身ごもっていた。


 そのままさらに数か月が過ぎ、上月城に蓄えられた兵糧も底をついた。鹿之助や久綱は自分の兵糧も冴名に回したが、それでも到底足りるものではなかった。

 やせ衰えた冴名は、身体を起こしているのがやっとという状態になっている。

「冴名。冴名」

 久綱は何度も妹の名を呼ぶ。そのたびに微かに笑みをうかべる冴名。


 そんな、ある日。

「あああっ」

 冴名が苦し気に呻いた。下腹部のあたりが濡れている。破水したのだ。

 医者の心得のある者が冴名の容体を診て首を振る。

「難しい。冴名さんの体力が持つかどうか」

 籠城でみな弱り切っているが、妊娠している冴名は特に状態が悪い。

 冴名の悲鳴のようなうめき声が続く。


「頼む。冴名を、冴名を助けてくれ」

 鹿之助は天に向かって叫んだ。


 突然、冴名の声が途切れた。代わって、赤ん坊の泣き声が城内に響き渡った。

 鹿之助は床に手をつき、涙をこぼした。


 ☆


「なぜ上月城を救いに行かない。見殺しにする気か、羽柴っ!」

 織田の陣営では、明智光秀が羽柴秀吉に詰め寄っている。秀吉は素知らぬ顔でそっぽを向く。

「いやぁ、わしも助けに行きたいと思ってはいるのだよ。だが信長さまのお許しが出ないのだ。では、わしはまた三木城の様子を見て来るとするかな」

 秀吉はそう言って軍をまとめ、三木城へ向かう。


 つまり上月城は、毛利の主力を誘き寄せておくための囮だったのである。信長も秀吉も、本気で上月城を救いに行かないのはそのためだった。

 鹿之助や冴名たち、尼子勢は文字通り捨て駒にされたのだった。


 明智光秀は単独で何度も毛利軍へ突撃を敢行したが、彼の手勢だけでは毛利の分厚い包囲網を切り崩す事は到底出来なかった。そして織田軍のなかで光秀に協力しようという者も誰一人いなかった。


「冴名っ!」

 光秀は遠く上月城内へ向けて叫んだ。


 ☆


 間もなく上月城はおちた。

 尼子勝久が、みずからの切腹を条件に包囲を解く事を求め、吉川元春もそれを受諾したのである。

 立原久綱ら、主だったものは鳥取城に預けられることになり、鹿之助は元春の麾下に加わる事になった。


 明智光秀は尼子の陣営を尋ねた。

「明智さま」

 出迎えたのは鹿之助だった。長い籠城でやつれきっている。光秀を見て小さく一礼する。

「よく、戦われた……」

 光秀もそれ以上、言葉が出なかった。


 鹿之助は懐から紙包みを取り出した。それは、束ねられた遺髪だった。

「冴名です」

 ぽつりと鹿之助が言う。


「……仇はわたしが討つ」

 その髪を愛おしそうに何度も撫でたあと、静かに明智光秀は言った。もはや、涙は枯れていた。


「織田信長や羽柴秀吉という桜花の下には、数多くの屍が埋まっているのだ。一見美しく咲いてはいるが、あんなおぞましい者はいない」

 明智光秀は暗い目で東の方を見やった。

「必ず、滅ぼす」


 ☆


 吉川元春の配下となった鹿之助だが、叛逆を試み失敗、誅殺された。

「冴名がいれば、こんな事にはならなかっただろう」

 山中鹿之助はそう呟いたのち、斬首された。


 そして、天正10年6月2日。明智光秀は本能寺において織田信長を襲撃した。世にいう本能寺の変である。

 だがこの後、光秀も羽柴秀吉に討たれる。


 さらに時は過ぎ、慶長20年。その羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉が築いた大城郭、大坂城が炎上していた。

 

 それを感慨深く眺めている者たちがいた。

 一人は徳川家康。そしてその傍らに立つのが天海僧正である。常に甲冑の面頬めんぽうを付け、頭巾を深く被っている。そのため容貌を知るものはおらず、ただそのくぐもった声と、どこか不自由な体の動きから、相当の老齢であると思うばかりである。

 この正体不明の男は、いつからか家康の側近となっているのだった。


「やりましたな。見事、豊臣家への復讐を。天海、いや立原 光綱みつつなどの」

 家康の言葉に、光綱と呼ばれたその男はうなづいた。そっと面頬を外したその若い顔は、明智光秀と冴名の面影を色濃く残していた。

 出生の際の栄養不足が原因なのだろう、やや身体が不自由だったが、それを補って余りある軍略、政略に関する頭脳があった。これは育ての親、立原久綱の教育の賜物といえた。


「これで、ようやく終わりました」

 光綱は安心したように、そっと微笑んだ。





―― 終 ――




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出雲尼子戦記 杉浦ヒナタ @gallia-3

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