第34話 冴名と明智光秀
石田三成に案内され、尼子勝久と鹿之助たちは織田信長の待つ屋敷を訪れた。
広間に向かう途中、奥から大きな怒鳴り声が聞こえている。鹿之助たちは顔を見合わせ、足を止めた。
「貴様、光秀。なにをやっておるか!」
どうやら信長の声だった。
「たかが母や妻を亡くしたくらいで腑抜けのように成りおって。この愚か者めが!」
声と共に
「ちょ、ちょっと皆さん。ここでお待ちを。現在、お取込み中のようです」
普段は能面のように冷たく無表情な石田三成も流石に慌てている。
「失礼します」
その三成を押しのけ、冴名が奥へ向かって駆けだした。
「あ、あの。冴名どのぉ」
冴名は音をたてて廊下を走り、大声のしている部屋のふすまを蹴破るような勢いで開けた。
「立原冴名です、入ります!」
部屋の真ん中で信長が明智光秀に馬乗りになり、その顔を何度も殴りつけている。冴名は目を瞠った。
「まったく。『何をやっておるか』はあなたです。お止め下さい、信長さま!」
その声で我に返ったように、信長は手を止め顔をあげた。
「おお、冴名どの。また会えて嬉しいぞ」
ぜいぜいと息を切らしながら、信長は満面の笑顔を見せた。
(さっきまで光秀さまを本気で殴りつけていたのに)
その変わりように冴名は不気味なものを感じた。
「おや、光秀。そんなところで寝転がっていてはいかんぞ。お主はネコではないのだからな、あははは」
笑いながら信長は座についた。
「そうか、もう尼子の方々が到着されたか。光秀、入って貰え」
光秀は黙って退出していく。冴名もその後を追った。
「あ。明智さま、殿は」
すれ違いざまに石田三成が声をかけるが、光秀は顔を隠したまま、足早に通り過ぎる。あとから追いついた冴名は奥を指差した。
「信長さまがお呼びです。どうぞ、行って下さい。早く!」
「は、はいっ」
三成は残った尼子主従を連れ、信長のもとへ向かった。
☆
「無様なところをお見せしたな」
明智光秀は力なく微笑した。殴られた傷を冴名が手当している。
「大丈夫です。ちょっと赤くなっているだけで、あざにはならないでしょう」
念のため、濡れた手拭いで冷やしておく事にする。
改めて光秀を見た冴名は、かける言葉を失った。冴名の記憶には、光秀は知的で精悍な男という印象しか残っていない。
だが現在の光秀はどうだ。
「老けたな、と思っているのだろう」
冴名の視線に気付いた光秀は、すっかり白くなった頭を撫でる。
最後に会ってからまだ数年のはずなのに、この変わり様はどうした事だろう。一気に二十年も歳を取ったかのようだった。しわの増えた顔からも、往年の気魄は感じられない。
先程、信長は、光秀が母と妻を失った、と言っていた。おそらくそれが原因だろうと想像がつく。
しかし。
「ええ、
冴名はやっとそれだけ言った。
「そうなのだ、最近めっきり額が薄くなってな。もう
はあー、と大きなため息をついて、ぺんぺんと頭を叩く。
冴名は慌てて手を振った。
「いえ、そういう訳ではなく。白髪になられた、と思っただけです」
そっちか。光秀は苦笑いする。
しばらく、沈黙が続いた。
「上月城の攻略に向かうのだったな、尼子の方々は」
「はい。石田さまからそう聞きました。ですので、あまり長くは滞在出来ないのですが。あの時の続きを、ぜひお願いできませんか」
上気した顔で冴名は膝を進めた。
「続きとは、これかな」
光秀は文箱から一冊の書を取り出した。
「はい。『孫子』の講釈を」
以前、京に滞在していた際、光秀に兵書『孫子』の内容を教わっていた。その時はすぐに光秀は但馬、冴名たちは山陰へと向かう事になったため、僅かな部分しか学ぶことが出来なかったのだ。
「わたしは、此度の戦で多くの兵を死なせてしまいました。もう、こんな事は繰り返したくないのです」
「冴名どのは優しいな」
光秀は小さく言った。
☆
「妻は急な
光秀は冴名の細い身体を抱きしめたまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「わたしは、なにもしてやれなかった」
光秀の逞しい身体には幾つもの古い傷が残っている。冴名はそれをひとつづつ指でなぞった。かなり大きなものもある。
「これなどは、大丈夫だったのですか」
「あやうく死にかけたよ。おい、もう勘弁してくれないか」
冴名の手をとり、身体から離す。くすぐったかったらしい。
「そなたには、傷ひとつないな。きれいな肌だ」
そういって肩から脇腹、太腿にまで手を這わせる。光秀の指先が移動するたびに冴名の身体が小さく震えた。
「ずっと鹿之助が守ってくれましたから」
朗らかに応える冴名に、光秀は羨ましさを感じた。
「……そうか」
光秀は両腕に力をこめて冴名の身体を押しひらいた。そして冴名と唇を合わせると、そのまま深く、深く、身体をかさねていった。
心地よい疲労感のあと、少し眠っていた冴名は光秀の口づけで目を覚ました。
「あ、すみません。わたし、眠って……」
光秀は微笑するともう一度口づけする。今度は舌が入ってくる。冴名もそれに応え、舌を絡めあった。
「謝るのはわたしの方だな。うら若き乙女に朝帰りをさせてしまうとは」
冴名は辺りを見回した。そういえば外はうっすらと明るく、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「え、えええっ?!」
こんな朝方まで、してたのか。
「冴名どの、声が大きいよ」
「す、すみませんっ」
これはまずい。鹿之助はともかく、兄の久綱に怒られる。いや、怒鳴り倒されるに違いない。冴名は真っ赤な顔で身づくろいをする。
「その姿も可愛いな、冴名どの」
「やめて下さい、今はそれどころでは……あん」
すっかり夜が明けた頃、冴名は尼子勝久らが宿舎としている屋敷に辿り着いた。
「どこからか、こっそり忍び込めないかな」
冴名は屋敷の周りの様子を伺おうとした。
だがその必要はなかった。
正門前に、兄の久綱が仁王立ちしていたからだ。昨夜からずっとそこにいたのは、服に付いた夜露で明らかだ。
「これ本当にまずいよ。何て言い訳しよう」
物陰に隠れ、冴名はひとり冷や汗を流していた。
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