忘れえぬ落日

朽縄ロ忌

忘れえぬ落日

 穏やかな朝が遠くの方から降り注ぎ、昼夜を繰り返す。だが長らくこの山には夕暮れだけが訪れていない。大きな澄み渡る湖畔、そこにうたた寝する男が居た。傘にもなる程育った蓮の葉に上裸を預け悠然とこの地を永く見守ってきた。

 良くも悪くも変わらない風景。ある日渡り鳥の群れが飛び交う中、一羽が小さな枝を咥えているのが見えた。目を凝らすと、根もついたままの細い若木。

「ねぇその若木。ぼくにくれないか」

 男の伸ばした手に鳥は小首を傾げ、指先に飛び乗ると咥えていた枝をその掌に落とし群れと連れたって飛び去って行った。残されたものを気まぐれに譲り受けたはいいが、どうしたものかと眺める。そのまま自然の節理として見ているにはしっかりと根をつけている。生きていたいと全身で叫んでいるように映り、蓮の葉を分け入って岸辺まで移動すると土を掘り返してそっと根を埋めてやる。

「お前はどんな花を咲かせるのかな」

 時間等、悠久を生きる男には全て瞬きに過ぎない。だというのにはじめて成長を待つこの時が長いと感じるのだった。


 若木は順調に育った。肥沃な土と必要はないだろうがやることもなく手ずからやった水で、ついに蕾がつくまでになった。明日にも咲くかもしれない。次に日を跨げば。毎日逸る気持ちですぐ近くの蓮にもたれ掛かり飽きもせず眺めて暮らす。

「やることもないから今日も話をしようか。とはいってもぼくの話なんていうのは変わり映えのないものだけどね」

 何年もこうして飽きもせず語りかける男は、風に靡かているだけだとしても葉が揺れるとまるで相槌を打ってくれているようで嬉しかった。早く花開いてほしいような、ずっとぼくだけの若木でいてほしいような。贅沢な悩みを抱えて日が暮れるまで今日も蕾を見守ったまま眠る。

「もうそろそろ冬が来る。こんな季節にやっと蕾をつけたお前を守ってやらなきゃね。任せるといい。ぼくはこう見えて日を照らしてやれるんだよ。いざとなったらお前を照らしてあげるから」

 だから負けずに今年も冬を越すんだよ。そうしたら遂にお前は。

 

 その年は特に厳しい冬だった。吹きすさぶ風は冷たく、降る雪はしんしんと降り積もって一面を白く染める。男は夏に咲く蓮を司っているからか、酷く寒さに弱かった。それでも枯れない葉で木を覆って雪から守ってやっていた。背のあまり高くない木で良かった。この冬も守ってやれる。自身の動きも常のおっとりした態度に輪をかけて鈍いが、決してもう若木とは呼べない木の側を離れなかった。

「この冬も厳しいね。でもね、ぼくは冬も好きなんだ。雪も霜柱もみんな綺麗だろう。よく見ると花のような形をしていてね。摘み取られて散るようじゃないか」

 早く咲いたお前と見たいなぁ。眠りに就いた男は気付かなかった。育ち伸びすぎた枝が苦しそうに軋むのを。


「その枝、折ってやらないのか」

 積雪が厚くなってきた頃、珍しい客人が来た。大木より大きな身体に無数の古傷が永く生きた事を示す、夜から朝焼けを連れてくる王。普段は山向こうにだらりと座し、全てを見下ろしているだけの神。

「ああ、久しぶりじゃないか。元気にしているようで良かったよ」

「相変わらずのんびりとした奴だな。そんなことより、その枝を折ってやらないのか」

 何を言われたか正しく理解した男はとんでもないと首を振った。こんなに可愛い子をどうして折ってやれるものか。そう言うと、呆れたように朝の王は持っていた煙管を吸い紫煙を吐き出す。

「そうやって何でも甘やかすのは悪い癖だ。それに、何も悪意があって言ってることじゃないさ。そら、その木をご覧。窮屈そうだろう」

 そう言われて見ると、確かに枝は木の背丈の割に多いかもしれない。

「間引きしてやらないと上手く咲けないぞ。その木はやるなら今じゃないと間に合わない」

「この木が何の花をつけるか知っているのかい」

「ああ、勿論知っているとも。だが教えないよ。何やら熱心に面倒を見ているようじゃないか。楽しみはとっておくといい。他から簡単に得た知識がいつでも最適とは限らないだろう」

 では伝えたからな。適当に挨拶をしてさっさと男は帰っていってしまった。懸命に伸ばした枝を、折ってやらねばならないのか。とても痛いだろうか。万物は流転するままと考えている男は何か一つが痛むか等を考えたことは一度もない癖に、無意識に目覚めた父性のようなものを持て余し三日三晩悩んだ。男は悠久を生きるからか、常人とは明らかに違う時間軸の中にいた。しかし朝の王の今ではないと間に合わないとの言葉が自分達の時の流れでの話でないことは解った。それにあれはこういう事で嘘はつかない。知識だって絶えず穏やかに世に無関心であった男とは比べ物にならない程有している。



 ぱきりと小気味いい音を立てて、最後の間引きを終えた。

「こんなものか。痛かったかな。早くお前の声が聞きたいよ。その時に謝るから、どうか無事に花を咲かせておくれ」

 手折った痕を優しく何度も撫でながら、未だ降り止まぬ雪から守って。そうして深い深い眠りについた。冬は好きだが、やはり常より眠たくなってしまう。

「おい」

 眠りについてしばらく、微かに目を覚ます。どこからか声がするような。目蓋をあけるより早く肩を揺すられ、そちらを見ると、見知らぬ青年。

「おや見たことない顔だ。迷子かな」

「なに寝惚けてるんだ。あんたが育てたこの身を忘れたか」

 はっとして自分の葉の庇護下においた木を確認し、感嘆の声を漏らした。そこにはまだ斑ながらだがしっかりと咲かせた花があったのだ。雪のように白い、木蓮。

「うたた寝のつもりだったが、思ったより寝てしまったみたいだ。お前は木蓮だったのだね。可愛い花だ。開く瞬間を見たかったな。ぼくの可愛い木蓮。傷をつけてごめんね」

「別に。木蓮は冬のはじめは咲くころまで眠るんだ。痛くも何ともなかった。気にしなくていいよ」

 少し不愛想な物言いだが、それすらも男には嬉しかった。なにせずっと世話をし、今かと待った声なのだ。花と同じ白い肌が寒そうで、本体の木と同じように葉で雪から守ってやると、不服そうにもう大人だから必要ないと跳ね除けようとする様もまた微笑ましかった。

 それから毎日大きな湖には二人の会話が木霊した。蓮の男は神である身で枯れることはないが、青年は毎年花をつける前だけは休眠する。ずっと一人でいたというのに、男はそれが耐え難かった。寂しくて寂しくて、この感情を孤独と言うのだと気付いた何年かの後、身を綻ばせて顕現した木蓮の青年にある提案をした。

「お前がいないと毎日がこんなにつまらない。もう雪も春の芽吹きも夏の日差しに騒ぐ生も、お前なしには楽しくないんだよ。だからいっそ願ってくれないか。ずっと咲き続けたいと」

「願ったところであんたのように神の身でもないから無駄なことさ」

「願うのか。願わないのかだよ。愛しいぼくの木蓮」

 できることなら自分だって。小さく漏らした声に切望を感じ、この青年もぼくと同じ気持ちなのだ。片時も離れたくはないのだと解った男に湧き上がる今までにない感情の渦。溢れるままに本来の姿に戻っていく。

「なんでこの地には夕日がないか解るかい。それはね、ぼくこそが西日を司る王だからだよ。長らく微睡の中にいたが、可愛い我が子の為、子と言うとお前はまた拗ねてしまうだろうが、ぼくにとっての一等大切な子、永久を願うならば永遠に照らし続けよう」

 男の身体が徐々に大きくなる。人程だったのが今では木蓮の木を優に追い抜いて。湖に沈んでいる下半身を含めたら更に長大であろう姿に呆然としている青年。ふと目線の位置、彼の腰骨辺りから何かが蠢いてくるのを見た。男に添うような蓮の花の刺青が這い上がり、巨大な色素の薄い肌を飾り立てていく。いつかの日に、何故ここらの蓮は葉だけなのかと尋ねた事があった。曖昧にはぐらかされたが、その身こそが花そのものだったのだ。両の脇腹から彼を傷つけながら細い線が突き破って伸びあがり、天の方で繋がり円環となる。

 西日。その名の通りの眩い光が辺りを支配する。夕陽に染め上げられた世界で絶対の存在感を放つ男はうっそりと笑った。

「愛しい子。これでお前はずっとぼくと一緒」

 無邪気にも重い枷にも受け取れる台詞に、青年は呆れたと顔を下げる。男は機嫌を損ねたかと何事かを言っているが、青年には聞こえていなかった。大きくなったその視線からは見えない口許は複雑な情の形に歪んでいた。嬉々としているようで、何かを察したように緩く吊り上がった口端。青年が面を上げ穏やかに目を眇め、自身に見惚れている姿に機嫌を損ねた訳じゃなかったと安堵していた男はそれに気付かなかった。

 常に臙脂がかった山の一角、憧憬の優しい陽とも化け物が跋扈する奇妙な暮れともとれる中、二人は変わらぬ毎日を過ごしていた。男の姿は変わっても、青年は何も変わらず。眩しそうにしながらいつも男を眺めているのだった。


 異変に気付けたのは冬がやって来ようとしている肌寒い季節だった。未だふくよかな花をつけた木蓮の木を見て満足そうに男は青年の頬に触れる。

「これからは冬も寂しくないね」

 曖昧に笑った青年に、寒さくらいでしか冬の到来を感じない沈まぬ陽の中、相変わらず真っ直ぐ見つめてくるその目蓋に口付けをした。そういえばこんなに見つめてくれるようになったのは、本来の神としての巨躯になってからではなかったか。近頃では憎まれ口もあまりない。思いはしたが、小事に目を向けた事はない男は気のせいかと片付けた。

 やがて雪がちらつく。黄金色に照らされた結晶が木蓮の花に乗って、溶けずに積もっていっても花弁一つ落ちることはない。

「前はね、実は怖かったんだよ。お前が枯れていく時が。木になった花がばらばらと崩れて、ぼとりと首ごと落ちてしまって。それでもお前が消える訳じゃなかったけれどね」

「それが木蓮の花なのだから仕方ないだろう。それより、今年はいやに冷える」

 そういうと、葉が青年をそっと包みこみ、その上から男が覆いかぶさる。くすぐったいと言っても構わずに抱きこむのに笑い、素直に身を任せる。

「春になったら、渡り鳥が過ぎ去るだろう。その中に細い木を咥えてきた鳥もいるだろうか。ああどの季節だって楽しみだね」

「ああ、そうだな。もうすぐにも春になる」

 動きが鈍い男に積もった雪に笑い、その身には小さな手が雪を払ってやる。かじかんだ手足は巨躯が包んで温め、密かに笑い合う。そうして過ごし、やがて雪が溶け始めた。季節は春となった。

「あ、ほら鳥が来たね」

 指差して青年に笑いかけた男は、言いかけた言葉を呑み込んで彼を凝視した。そうだなと返した青年は、全く違う方を向いていた。

「お前、鳥はあっちだよ。どこかわかるかい」

「…ああ、そこだろう」

 一拍おいて青年が示す指の先を辿って、しばし声を出せなくなる。鳥の声がする方へは指が向いているが、微妙にずれている、その先。

「いつからだ」

 青年は応えない。諦めたようにだらんと腕を下ろした。

「いつから、目が見えていない」

 黙り込んで明確な答えはない。だが、見えていない事は確定した。何故、なにも今までと変わらない日々だったじゃないか。どうして。なんで。意味はないと解っていても問い詰めようとする言葉が口から飛び出しそうになる。その時、ざりっと重量をもった何かがこの地に到来した事を告げた。白い服を着た、まだ幼さを内包した青年になる直前かという齢の少年が立っていた。

「どうかされましたか」

 緊迫した空気を察してか、二人に問いかける。

「丁度いい。そこの。この木蓮をそこの鳥まで運んでいってはくれないか。礼はこの身でしかできないけれど。等価交換に木蓮なら丁度いいだろう」

 木蓮の青年が言うと、一本の枝を手折る。呼応したように残りの木がどろりと透けて消えていく。止めようとした男の手が宙を掻いた。どうして。震えた声だけが虚しく反響して。青年はあわない焦点を隠すかのように目を伏せ、わざと何でもない事のように軽い調子で肩を竦める。

「もうここには飽きたのさ。だから、鳥に乗ってきたように、また知らぬ地へ。お陰様でもう枯れることはないからね。せいぜい次でも楽しむ事にするさ」

 軽薄な笑みで通りがかった少年に近付いて枝を押し付ける。少年は戸惑っていたが、青年を見て、やがて決心したように鳥達の方へ向かっていく。

「待って。待ってよ。何でなの。まだ何も解らない。わからないよ」

 運ばれる為にか、根が地から抜けたからか、木蓮の青年が消えていこうとしている。その背中に追いすがっても、何も答えない。振り返らず軽く手を振るだけだ。巨躯で精一杯湖面を掻き分けて鳥達を散らそうと動き始める。

「本当にいいんですね」

 少年は蓮の男を見て、次いで青年に向かって確認する。頷くのを見ると手にした枝を鳥に預け、咥えた鳥が迫る西日に驚き散って届かない方まで飛んでいく。

 あっけなく木蓮は遠くの方まで飛んで行ってしまい、顕現していた彼も瞬く間に消え失せた。まるでそこには最初から誰もいなかったかに見える程跡形もない。

「どうして。なんてことを」

「ごめんなさい。でも、彼、泣いていたから」

 目を見開く。向けた背、彼は泣いていたと言うのか。泣くくらいなら離れて行ってしまわなければいい。男が混乱しているうち、彼を遠くへ運んでしまった少年が先程受け取ったばかりの木蓮を差し出す。

「本当にごめんなさい。僕にできるのはこれくらいしかなくて」

 受け取った花が大きな掌の上で風に揺れる。この身で受け取るにはあまりに頼りない小ささ。これを埋めたらまた彼は戻ってきてくれるのだろうか。もしそうだとしたら。考えて、その地に花を降ろそうとした時、少年が何か気付いたのか、湖を見つめる。

「ここには、魚がいないのですね。前に見た蓮池には鯉がいたりしたのですけど」

「それならもうとっくに」

 言いかけてはっとする。魚はどうした。とっくに、どうなった。この地に顕現した遥か昔には確かにいたのだ。それでぼくが根を張り、永久の西日を照らして。

 そう。そのあとすぐ一斉に失明したのだ。黄金を湛えた日に晒され後に皆最後には透かされ溶けて消えていった。だからもう強すぎる西日を収めたのではなかったか。

 忘れていたのだ、本当に。あまりにも昔過ぎて。あの子と片時も離れがたいほどの愛に焦がれて。

「ぼくの大切な子を壊したのは、ぼくか」

 あのままだといずれ木ごと消えていただろう。それを察してその前にここを去ったのだ。男

は全て理解し、そしてすぐに少年に去るように促した。何かを言いたそうにしていたが、有無を言わさず先へ進めと追い立てる。諦めたのか、しぶしぶ遠さかっていく幼さの残る影。

「最後に、彼を私から遠ざけてくれて有難う」

 その言葉に口を開きかけて、閉じると少年は頷いて先へ。この地を離れていった。

 後には愚かな男が一人。孤独しか知らず、愛する事に必死なだけだった、愚かであまりに人らしい神だけ。

 山に激震が走る程の慟哭。声の限り衝動のまま張り裂ける想いを叫ぶ。初めて男は落涙した。あまりの苦しみに蓮が萎れていく。一際強い閃光を放ち、身の内の醜い自責を雫として零し続ける。泥のような感情に、辺りが腐食していく。澄み渡った湖面が濁り、沼へと姿を捻じ曲げて。みるみる縮んだ男に両手で持って丁度いい木蓮。

「こんな所にもうお前をやる訳にもいかないね。ああそれでも、あの少年に渡してこの一片すら連れ出してもらえば良かったとは想えないんだよ。なんて欲の深い。この欲がお前を壊してしまったというのに」

 いっそ、このまま全て何もかも出し切り、夕日は深く沈んでしまおうか。そうしよう。日はやがて沈むもの。節理に沿って。

「なぁ、小さな欠片でもいいから、最後まで付き合ってくれるかい」

 言って弛緩する男の手元、一輪の木蓮は西日の焼きつくような名残が支配するこの空間にあって、返事するように淡い光を放つ。それは男が好きな新雪のように白く浮かび上がる。

 まだ生きろと言うのだろうか。もうあの子は居ないというのに。問うても返る答えはなく、花は静かに手の中を白い光で満たすだけ。

「この光が無くならない限りお前は生きているんだね。なら、この花が消えて無くなるまでぼくも残された一輪を守ってやらなきゃね」

 願わくば。二人が潰えてもう一度逢える日を夢見て。


 そこは広大な沼地。中心には枯れた蓮の葉に凭れ掛かって微睡む男が一人。萎れているのに常緑の、妙な姿のまま静かに時を浪費している。いつか来る、畢りを待ち侘びて。

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