繭の女

葎屋敷

蜘蛛


 僕は冒険家だ。各地の伝承を研究し、縁の地があれば実際に足を運び、伝承の面影を探す。己の知的欲求を満たすこの生き方を、僕は随分と気に入っている。


 冒険を始めてもう何年たったのか分からなくなっていた、ある日の晩。辿り着いたこの街には「繭の女」という伝承があった。


「旅の旦那、あんたはこの町になにしに来たんだい?」

「ああ。僕は冒険家でね。世界の各地を巡っては、興味深い伝承がある場所に行って、歴史的価値の高い遺跡や伝説の根源になる現象を探すのさ。知的好奇心を埋めるための探求というやつだね」

「そうかそうか。なら忠告せねばいかん。いいか? 町の外れにある洞窟には行っちゃならねぇ。あそこには、繭の女がいるんだ」


 酒場で居合わせた酔っぱらいの話に、僕は胸を躍らせた。


 小さなこの町を出てすぐの場所にある洞窟。そこには繭の女という怪物がいるらしい。

 怪物と言っても、繭の女の見た目は人だ。その女は身目麗しく、洞窟の中に佇んで、凝った細工のされた笛を吹く。その音色を聞いた者はどんな強者であろうと魅了され、無防備にふらふらと女に近づく。そして女が出す蜘蛛の糸でできた巨大な繭に捕らわれるのだ。そして中でじわじわと溶かされ、液体と化した人間は女の養分となるという。


「それは恐ろしいね。洞窟の入り口を塞いだりはしないのかい?」

「そんなことすれば、蜘蛛の――、いや、繭の女の逆鱗に触れるだろう。その怒りはこの町に厄災を引き起こす。儂らがただではすまんよ」

「なるほど……。それにしても身目麗しい女か。一目見てみたいな」


 いにしえから美しい女には罠がつきものだと言うが、それはこの町でも同じらしい。僕はその興味深い伝承を聞いて、その美しい女を一度でもいいから見たくなった。なにせ美女だ。男であれば、興味を持つことも致し方ないと言えるだろう。


 酒場から出た僕は宿をとり、ひと眠りした。そして翌朝、町の人々から改めて繭の女についての話を収集した。


「繭の女の話に興味があるんだ。教えてくれないか?」

「繭の女ぁ? ああ……。そういうことか。あんたみたいな余所者は好奇心が旺盛でいいねぇ。たしかに町の外れの洞窟には繭の女がいる」

「ぜひ、一目でいいから見てみたいんだ。しかし洞窟は危険だと言うじゃないか。少しでも情報が欲しくてね」

「危険と知りながら、それでも洞窟に入ろうとするとは……。あんたも物好きだねぇ。洞窟で危険なのは繭の女の笛の音くらいさ。あまり警戒しなくてもいいとは思うが、俺はオススメしないねぇ」


 数人の町の人に繭の女について聞いて回ったが、内容は酔っぱらいにもらった情報とたいして変わらなかった。また、皆繭の女について話すと、最後には口をそろえて「やめておけ」と言った。


 おそらく町の人たちは繭の女の伝承を本気で信じており、親切で僕に忠告をしているのだ。しかし申し訳ないことに、親切だけでは僕は止まれない。もしここで僕が忠告に従うような人間であれば、今までの冒険でも危険な目に遭うこともなかっただろうし、人より盛んなこの好奇心が治まるのであれば、今頃もう少し


 さあ、情報はできる限り集めた。いざ妖しき美女に会いに行かん。僕はリュックを背負い、宿の代金を払った後、件の洞窟へと向かった。



 *



 唐突に首筋に落ちる水滴、眼前を掠めて通る蝙蝠。石の壁から伝わる冷気。様々な自然の罠が僕を襲ったが、そこは僕も冒険家だ。この程度なら慣れたもので、怯むこともない。ずんずんと奥へ進んでいった。


 町の人の話曰く、この洞窟はそこまで深いものではない。繭の女に遭うのに一日もかからないだろう、と。

 町人たちの言葉を信じ、僕は四方ガラス張りのカンテラを片手に前へ前へと進んでいった。

 すると、細かった道が徐々に広がり、ついには開けた場所へと繋がった。辿り着いたその場所は半球型に広がった空間で、あまりに広大だ。天井は遥か頭上にあり、僕はまるで王の間にでも通されたかのような緊張感を持った。


 そんな半球の中は青白い光で埋め尽くされていた。カンテラの中に宿る灯が意味をなさないほどにその場は明るい。

 僕は眩しさに目を細めながら前を向く。すると、その青白い光の正体が見えてきた。

 なんと光の正体は繭だった。繭はそこらに敷きつめられるようにあり、すべて青白く光って場を照らす。

 また、特異なのは光っていることだけではない。すべて繭が常識を超えた大きさだった。僕が膝を曲げればすっぽり入れるほどだ。どれだけ巨大な蜘蛛が住んでいれば、このような繭が大量に出来上がるのだろうか。僕の背筋に、一筋の汗が伝う。


 圧倒されざるを得ない神秘の光景。僕は人の世とは思えぬその場所の中心を見る。そこに佇む者はたった一人。


 笛に口をつけた、繭の女と呼ばれる美女であった。



 *



 女の髪は限りなく白に近い金髪。それが女の頭から背を滑り、地面近くまで垂れている。彼女の着ている黒いシルエットドレスが彼女の長髪と合わさり、浮世離れした雰囲気を漂わせる。

 僕がじっと女に見惚れていれば、彼女の青い瞳が微かに光り、その目が離れた場所で立ち尽くす僕を捕らえた。


 町の人々は皆、この洞窟に訪れた者は彼女の吹く笛の音に魅了され、足も漫ろに女に近づき、油断したところを捕らえられ、食われるのだと語った。


 つまり、本来であれば人は皆、彼女が奏でる音に聞き惚れて、彼女の下へ向かうのだと。


 しかし僕は違う。僕は見惚れた。黒は女性を美しく見せるものだということを、鈍器で頭を殴られたかのような衝撃とともに教えられたような気がした。

 その美しさに呆然とする僕を見て、繭の女は悲し気に眉間に皺を寄せた。そして笛から口を離すと、その唇が動いた。



 た、す、け、て、と。



 驚いた。人を食らうという繭の女の第一声が助成を求めるものなどと、誰が思っただろうか。僕は彼女の言葉の意図がわからず、じっと彼女の顔を見つめる。その瞳は真剣そのもので、僕にわかった真実など、ひとつしかない。


 それは、「美女が助けを求めている」ということ。それ以外に今の状況を説明できる言葉などない。


「わかった。助けるよ」


 状況も、その意図もわからないまま、気づけば僕は肯定の言葉を口にしていた。その瞬間、女は目を見張る。

 ああ、そんな表情も美しいと、僕は胸を高鳴らせながら、危険を承知で女の下へと駆け寄った。女は僕の行動にさらに驚いたようで、目を真ん丸に見開いている。


「どうすればいい? 君は僕に、なにから救えと言うんだい?」


 僕は己の中にくすぶる衝動に任せ、繭の女に尋ねた。

 「たすけて」と口にしながら、女は実際に助けられそうになると戸惑うらしい。彼女はキョロキョロと辺りを見渡し、自身の後方や天井をじっと見つめる。僕も釣られて彼女の視線の先を追った。しかしそこには奥に続くのであろう真っ暗でなにも見えない道と、繭に塗れた天井があるだけだ。


 女は一通り周囲を見終わると、ぎゅっと笛を握る。そして改めて僕の方へと目を向けた。


「信じてもらえないかもしれないけど、私、ここに捕らわれてるの! だから……、お願い! ここから連れ出して――!」


 女が出した救援要請に僕は迷うことなく頷き、彼女の手を引いた。

 

 繭の女とは、笛の音で男をおびき寄せて食らうもの。それが正しいなら、僕は女に騙されて、食われるのだろう。

 そう考えるのは容易かったが、必死に己にすがる女の手を弾くのは難しかった。


「わかった。ついて来て!」


 僕は女の望み通り、彼女をここから連れ出そうとした。彼女の手を取り、善は急げと洞窟の出口へ彼女と共に引き返そうとする。

 

 しかし、彼女はここに


 で、あれば。捕らえているものがいるのは必定だろう。


 女が僕に手を引かれ、足を一歩先へと進めたその瞬間。腹の底を殴るような低い振動が洞窟の中に響いた。その振動で、壁から剥離した小さな石が地面へパラパラと落ちる。


「なっ、今のは――!?」


 突然の衝撃に思わず身体が固まる。女を見れば、彼女は真っ青な顔で僕を見ていた。


「蜘蛛の王が起きた。蜘蛛の王の声だ……。ごめんなさい。やっぱり逃げようなんて無理だったんだ。あなただけでも逃げて。あいつは……、あいつこそが人を食べる化け物。人を捕らえて繭で溶かし食らう、蜘蛛の王。今逃げなきゃ、あなたも食われるわよ!」

「……そうか。なら君も逃げよう!」

「この状況で私も連れて逃げようなんて、無謀もいいところよ。……ほら。もう私はだめ」


 女の瞳に諦観の色が映る。すると次の瞬間、僕が瞬きをした間に、女の身体がその目の前から消えていた。

 はっとして僕が洞窟の奥へと目を向ければ、そこには巨大な蜘蛛がいた。全長の計測は能わず、ただそこらにある繭が可愛らしく見えるほどの巨躯を持っていることは断言できる。蜘蛛の前足から伸びた糸が女の身体を巻き取っている。どうやら、一瞬のうちに女は取り返されてしまったらしい。


 糸に巻かれた彼女の顔は恐怖で蒼くなっている。震えているのは一目瞭然だった。


「……返せ。彼女は君が嫌いらしい」


 僕が女の返還を要求すると、蜘蛛はこちらを目掛けて素早く糸を出した。蜘蛛の拒絶をはっきりと感じながら、僕は地面を蹴る。そして糸が僕を襲う寸前で横へ避けると、そのまま走り出した。


「いいさ、答えなくて! どうせわからないからな!」


 例えどれだけ蜘蛛の口が激しく動こうとも、僕にその声の織り成す意味がわかることなどありえない。僕はそう叫び、円を描きながら蜘蛛へと近づく。当然蜘蛛は僕を捕らえんとし、糸を次々出す。しかし僕も伊達に冒険家をやっていない。運動神経には自信があった。最小限の動きで糸をよけ、直実にその距離を詰める。


 蜘蛛に捕らえられた女は僕の方へなにかを叫びながら、必死に首を横に振っている。きっと逃げるように促しているのだろうが、残念ながら今の僕に彼女の言葉を読み取る余裕はない。


「ここだ!」


 僕は見定めていた距離に辿り着くと、目一杯の力を籠め、手に持っていたカンテラを蜘蛛の王へと投げつけた。蜘蛛の身体に当たった衝撃で、カンテラのガラスが割れ、中の火が蜘蛛に触れる。

 すると蜘蛛は身体を激しく揺すぶり始めた。己の胴体で燃える火が恐ろしいのだろう。

 蜘蛛の抵抗虚しく、火の強さは徐々に増す。ついには蜘蛛だけでなく周囲の繭にも火が移り、蜘蛛はたまらなくなったのだろう。捕まえていた女を地面へと放り出し、逃げるようにして洞窟の奥へと姿を消した。


 蜘蛛の王が逃げる様子を見ながら、これで勝ったとは思えなかった。あの巨大な蜘蛛がこれで死ぬ可能性を限りなく低いと判断したからだ。しかし一時的に脅威が退いたことは間違いではない。僕は安心して肩を下ろした。

 しかし、こうしている間にも、あの蜘蛛が戻ってくることも考えられるため、ずっと油断しているわけにもいかない。

 僕は急いで女の下へ駆け寄ると、地面に横たわったその身体を抱きかかえた。


「これで、君を助けられるかい?」


 女は僕の顔を見ながら涙を流す。


「どうして、死ぬかもしれなかったのに、どうして……? 私、あなたが蜘蛛の王へと走ってくる間、逃げてって何回もお願いしたのに」

「なんだ。やっぱり逃げるように言っていたのか。なに、簡単さ。一目惚れというやつらしくてね。さあ、あいつが戻ってこない内に外へ出よう」


 僕は駆け足でその場から立ち去る。

 女の手は温かく、ただ生きているだけなのだと伝えていた。



 *



 緩やかに風を切り、前から後ろへと髪がなびく。前方を見据え、ただ黙って手綱を引いていれば、後ろから服の裾を掴まれる。そしてそのまま裾を引かれた。背中への引力を感じながら、僕は前を向いたまま荷台に座る女に向かって声をかける。


「すまない! そろそろ馬を休ませるから、それまで待ってくれ」


 返事はわからない。その代わり、静寂な時の流れの中で、ただ女が服から手を離したことだけわかった。



 *



 道を外れた草原の丘。そこで僕は馬を止め、馭者台から飛び降りる。

 僕と女が互いのことをゆっくり話せたのは、火を焚いて、食事を済ませた後のコーヒーの時間だった。


「さて、そろそろゆっくり話そうか。僕は器用じゃないから、運転中や食事を作っている時、君とお喋りをする余裕がないものでね……。待たせてしまった」

「いいのよ」


 女はゆるゆると首を振る。彼女の顔に色はなく、とても疲労しているように見えた。


 無理もないだろう。洞窟を走って抜け出した後、そのまま僕は町の外れに停めていた馬車の荷台に彼女を乗せ、休みなく馬を走らせ逃げた。ひたすら前を向いていた僕は女と話すことはできず、これからどうすればいいかわからない女は困惑したはずだ。


「逃げることに必死になってしまったね。驚いただろう?」

「もちろん驚いたわよ。あの蜘蛛の王から逃げられるなんて、思ってもいなかったから」


 女は感慨にふけり、馬車の進んできた方を見て、その瞳を揺らす。その瞳に望郷の色はなく、ただただ、僕には澄んだ水のような美しさだけが際立って見えた。


「教えてくれないかな? 蜘蛛の王のこと、君のこと」


 淹れたコーヒーを女に手渡しながら問う。女は数秒黙った後、意を決したように語りだした。



 *



「私は近くにある、あの町に住んでたの」

「ああ……。僕もそこに泊まっていたよ。みんな、君のことを恐れていた」

「……よく言うわ。自分たちが生贄に捧げておいて」


 目を伏せた女の言葉に、僕は驚きを隠せず、息を呑んだ。彼女は町の人たちを嘲るように小さく笑った。


「余所者には言わないのよ。……多分、あなたが聞いた繭の女の伝承は間違ってない。私の笛の音は確かに他から来た人を誘い、化け物の養分になってる。でも養分にしてるのは、私じゃなくて蜘蛛の王。あの化け物の食事を洞窟の中へ誘い込むのが、私の役目」

「……君はなぜそんなことを?」

「私の町はね、蜘蛛の王が怖くて、毎年町の中から一人、生贄を捧げるのよ。そうしないと、蜘蛛の王によって災いが起こされるんだとか。本当に生贄がいないときに町がどうなるかなんて、きっと誰も知らないけれど」

「じゃあ、君は……、あの巨大な蜘蛛への生贄だったのか」

「そう。生贄は通称『繭の女』と呼ばれるわ。蜘蛛の王は災いをもたらす怠惰と強欲の王。年の始まりには、町で一番笛が上手くて若い女を捧げ、厄災を退けるの。そして、今年の生贄は私だった。それだけ! 蜘蛛の王の思い通りにしか動けないのよ、あの町の人たちは!」


 女は自らその経緯を語ることで、生贄にされたことへの怒りが再び湧いてきたらしい。憤りながら、コーヒーをあおる。しかしまだ熱かったらしく、慌ててコーヒーから口を離し、舌を出した。


「大丈夫かい?」

「……うう、大丈夫よ。こうやってコーヒーを飲めるの、久しぶりだったから。自分が猫舌だってことも忘れてたわ。繭の女でいる間は飲み食いすら許されないもの」

「……? どういうことだい?」


 女は不思議なことを言う。まるで、彼女が長いこと飲食をいなかったかのような――。


「繭の女はね、蜘蛛の王のために笛の音を捧げている間は死なないのよ。捕まえた他の男たちの生気が繭の女にも流れ込んでくるの。……食べ物を食べさせる時間すら惜しいということかしらね。あそこで私は笛を吹くこと以外なにも許されていなかったから」

「笛の音というのは――」

「繭の女が蜘蛛の王の笛で奏でる魅了の音よ。あの音を聴くと、人はどうしても惹かれてしまうものらしいの。吹いている私にはわからないけれど……」

「ああ、そういうことなのかい」


 僕は思わず笑ってしまう。繭の女の伝承を聞いたときから思っていたが、僕は随分と有利な立場にいたらしい。


「ずっと、気になっていたのだけれど……。あなた、どうして私の笛の音を聴いても平気だったの? 今まで洞窟に訪れた人で、笛の音を聴いて無事だった人なんて――」

「ああ、そんなことかい? 簡単なことさ」


 彼女の疑問を受け、僕はコーヒーを持った手とは反対の手で、己の耳たぶを触った。


「僕、

「――え?」

「こんなんでも、僕は冒険家なんだ。時には今日のような危険な場所に行くことも少なくなくてね。ある日事故に遭って、音が拾えなくなってしまった」

「う、うそ!」


 僕の話を聞いて、女は動揺を隠さない。


「だ、だって、こうやってお話できてるじゃない!」

「ああ、それは読唇術だよ。唇の動きで君の言葉を理解できるんだ。だから、君の美しい顔を見ることができないときは、君とお喋りが上手くできないんだ」

「あ――」


 女はハッとして、僕から視線を外す。


「そう……。だからあなた、馬車で何回話しかけても、お返事してくれなかったのね」

「ああ、ごめんね。とりあえずあの巨体が追いかけてきても大丈夫なように、遠くへ行きたかったんだ。そんなことに夢中になって、君のことを気遣えていなかった」

「それは大丈夫よ。謝らないで。あの蜘蛛の王から逃げられただけで、十分だったもの」


 女はコーヒーを見つめる。下を見る女の目は彼女の前髪に隠れて、僕からはよく見えない。

 女は顔を上げると、それまでよりも穏やかな色を瞳に宿し、僕へと問いかける。


「ところであなた、どうして洞窟に来たの? 音が聞こえないからって、繭の女わたしに勝つつもりだったの?」

「まあ、さっきも言った通り、僕は冒険家だからね。いろいろ伝承があるところに興味を惹かれるのさ」

「……死ぬかもしれないのに?」

「まあ、事故に遭って耳が不自由になったときは、さすがにどこかの街で身を固めようかとも思ったけれどね」


 僕は思わず笑ってしまう。少々自嘲的な笑いだったと自分でも思った。


「それでも、音がなくなってから生きる世界には、それはそれで美しさがあったのさ。冒険はやめようと思っても、やめられなかった」


 女はじっと僕の目を見つめている。僕は彼女に笑いかけた。今度は自然と、意地の悪い笑い方になってしまった。


「それに僕が洞窟に訪れたのは、もうひとつ理由がある」

「なに?」

「町で繭の女が、つまり君が美しいと聞いたから、一目見たくなったんだ」


 僕の返しに、女の顔が一気に紅に染まる。彼女はわたわたと慌てだし、持っているコーヒーを落としかけた。


「……口が上手い人ね」


 彼女は拗ねたように呟きながら僕を睨む。僕はそんな彼女に追いうちをかけるように、さらに言葉を重ねた。


「はは。実際、笛を奏でる君は美しかったよ。誰もが聞き惚れるという君の音を聴けないのは残念だが、代わりに僕は君に見惚れた。揺れる髪にしなやかな指。流れる視線もさることながら、賢明に奏でる君の音に色がついているようで――」

「も、もう十分よ!」


 女は顔をさらに赤くしながら、顔を逸らした。僕は彼女の様子を肴に、コーヒーを一口すする。

 女は僕を警戒するようにじっと見つめがら、横目に僕へと話しかけてくる。


「蜘蛛の王の笛の音もなく、私をそんな褒める人なんて初めてよ」

「そうなのかい?」

「……そうよ。蜘蛛の王の笛がなければ、私なんてちょっと笛が上手いだけの女だもの。ただ、自由に笛を吹くのが趣味の、どこにでもいる女だった」

「君は笛がなくても十分美しいのだから、自信をもっていいのに」

「もう、煽てないでちょうだい。実際、あなた以外に私の言葉に耳を傾けてくれた人なんて……。いえ、私の言葉を汲み取ってくれる人なんていなかったのよ?」


 もし僕の耳が不自由でなく、彼女の笛の音の伝承が本当であったのだとすれば、僕は彼女の助けに応えられなかったのかもしれない。そうだとすれば、今回のことは彼女にとって奇跡のようなものなのだろう。


「あなただけ。あなただけが、私を見てくれたの」

「……そうか。それは嬉しいな。君の音楽に見惚れたものとしては、君の言葉がこれ以上ないご褒美だ」


 僕は彼女に笑いかける。


「このまま近くの街へ行こう。そして君が良ければ、そこでただの、なんの変哲もない笛を買おう。それで、君の音楽を見せてくれないか?」

「ただの笛じゃ、私なんてたいしたことないのに?」

「僕からしてみれば、どんな笛であろうと君の美しさは変わらないよ」


 僕が自身の耳を引っ張りながらそう言えば、女は脱力したようにため息を吐いた。


「仕方ないわね。助けてくれたお礼に、あなたの好きなだけ、あなたが飽きるまで。笛を奏でましょう。私なんかの音楽でいいなら」

「ああ、頼むとしよう。しかし困ったな。それでは君は、永遠に笛を奏でなくてはならなくなる」


 僕がそう言うと、女は目を見開く。そしてほんの少しの呆れと、わずかな羞恥、それらをすべて押しつぶすほどの喜色を浮かべ、女は笑った。



 *



 私が生まれ育った町では、女が笛を奏でることが推奨されている。毎年、年の終わりには町一番の笛の名手を決める大会が開かれ、広場には自慢の笛の音を披露する女が後を絶たずに笛を奏でる。

 大会で優勝すれば、大きな街に住む有望な男に見染められるらしい。実際に毎年優勝した女は町の外へ出て行く。幸せな花嫁となったと風の噂で聞くこともしばしばだ。


 そんな話が大人たちの嘘だと知ったのは、私は大会で優勝した次の日だった。


「頼む。この町のためなんだ」


 父が自身に頭を下げ、生贄になれと頼んでくる。私はそれを拒まなかった。理解が追いついていなかったのだ。


 洞窟の前まで引きずるように連れて来られ、入り口を塞がれた状態で中へと進む。ポタっと地面に落ちる水滴の音。興奮した蝙蝠たちのバサバサという翼の音。石の裂け目を通ってヒューヒューと風の音。そのすべてが不気味で仕方がなかった。


 私を迎えた蜘蛛の王は、私にひとつの笛を与えた。恐ろしい目で迫り、笛を吹くことのみを私に強制し、後は私に干渉することはなかった。


 ああ、また一人、また一人。名も知らぬ余所者が、町の人たちに誘導されてこの洞窟へと足を踏み入れる。

 町の人々は皆、好奇心の強そうな者には「洞窟は危険だが不思議なものがある」と印象付け、洞窟へ行くように促す。金に困るものがあれば、「洞窟には埋蔵金がある」と嘘をつき、洞窟へ生贄を導く。そうやって、彼らは蜘蛛の王に媚びへつらってきた。


 吐き気がする。でも、私に彼らを責める資格はない。なぜなら、私も蜘蛛の王が怖くて、人が死ぬかもしれないというのに、笛を吹くのをやめないのだ。



 ある日、また洞窟に一人の男がやってきた。男は私の笛の音を聴いて、すでにフラフラとしていた。覚束ない足取りで私の方へとやってくる。その視線はあちこちに泳いでいて、生気がない。

 私はその男を見て、一度笛を吹くのをやめた。蜘蛛の王がまだ洞窟の奥に潜んでいるのを確認し、男に声をかける。


「たすけて」


 身勝手な話かもしれないが、私はそのとき勇気を出したのだ。初めて蜘蛛の王から逃走するために笛を吹かなかった。ずっと吹かなければ咎めらえるだろうが、わずかな時間であれば、笛を吹かずとも大丈夫なのではないだろうか。その間に、男に助けを求められるのではないだろうか。そう思ったからだ。


 私は一縷の望みをかけ、男の顔を見る。すると魅惑の笛の音が消えたからか、男の眼光に光が戻った。その様子を見て、私は歓喜に震えた。男が正気に戻ったのであれば、蜘蛛の王が洞窟の奥へと引っ込んでいる今のうちに、ここから自分を連れ出してくれるのではないか。期待だけが私の胸の内を埋めた。


 しかし私の期待は無意味なものだった。男は恐ろしい形相を浮かべたかと思うと、私の肩を掴んだ。


「なんで笛を吹かないんだ!」

「え……?」

「吹いてくれ! さっきのあの音が! 耳から離れないんだ。頼む、頼む。俺はその音がないと生きていけない! 生きていけない!」

「そんな……」

「はやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやくはやく――」


 男は壊れたオルゴールのように、同じ音しか発しない。

 私は察した。すでに男の精神は、この笛の音に侵されたのだと。


 私は泣きそうになりながら、音を奏でた。たった一音が耳に入っただけでも、男は恍惚の表情を浮かべた。

 蜘蛛の王の糸が男の背後に迫っている。男は笛の音に聴き入るばかりで、身体にするすると糸が巻き付こうと気にする様子がない。

 私は男が繭の中で溶かされるのを見たくなくて、そっと目を閉じた。



 それから私は何度も同じことを繰り返した。人が訪れたことを知った途端に笛から口を離し、その人物に助けを請う。しかし皆すでに笛の音を聴いてしまっていて、皆同じ末路を辿った。

 当たり前だ。私がいる場所は洞窟の出入り口からそこまで離れていない。ここに辿り着くまでに壁があるわけでもないから、洞窟を進めば自然と私の笛の音が耳に入ってしまうのだ。


 蜘蛛の王と私がいるだけの空間。私は笛から口を離し、蜘蛛の王の様子を伺う。蜘蛛の王は黙って私を見ていて、その眼光に恐怖した私はすぐに演奏を再開した。



 これは昔の出来事。私は彼に救われるまでの、誰も知らない話だ。



 *





 回想にふけりながら、私は荷台の上で笛を吹く。その音はあまりに平凡で、たいしたことのない。


 それでも曲を演奏した後、私は彼に感想を求める。


「どうだった?」


 すると、必ず彼はこう答えるのだ。


「美しかったよ」


 笛の音に惹かれたわけではない。ただ彼は私が音を楽しむ様子を見て、美しいと楽しむのだ。


「もう一曲、お願いできるかな?」


 男の申し出に、私はゆっくりと頷いた。

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