コロナおばけがきちゃうよ

@aikawa_kennosuke

コロナおばけがきちゃうよ

私、主婦をしているんです。




3歳の息子がいるんですが、イヤイヤが酷くて。




朝、幼稚園へ連れて行った時もイヤイヤ。


買い物に行った時、自分のほしいものが買えないとイヤイヤ。




泣き声も大きいので、周りの視線が痛く。


必死にあやすとなんとか泣き止んでくれるのが救いです。




で、息子にもマスクをつけさせているのですが、つけさせようとするとやはりイヤイヤを発揮して泣き出すんです。






そこで、どうやってしつけようかと考えました。




「そんなに泣いていると、コロナおばけにさらわれるよ。」




と息子に言ってみたんです。




「おばけ?」




息子は不安そうにこちらを見ました。




「そう。怖いおばけがいるの。泣いてる子がいたら、連れて行こうとするの。うちは大丈夫かな?」




そう言うと、息子も怖いのか、イヤイヤが少し収まったんです。




「いい子にして、ちゃんとマスクをつけていればコロナおばけは来ないからね。これからお母さんの言うことちゃんと聞ける?」




とダメ押しすると、息子は何度も頷いていました。




その日から、事あるごとに“コロナおばけ”の名前を出すようになりました。




お風呂を嫌がっている時も「コロナおばけがきちゃうよ」、


手洗いうがいを嫌がっている時も「コロナおばけがきちゃうよ」、


食事で好き嫌いをしていても「コロナおばけがきちゃうよ」。




イヤイヤが出そうになっても上手く収まりますし、自然とウイルスの怖さを刷り込むこともできると思ったので、便利な手段を手に入れたと思っていました。






ただ、最近変なことが起こるようになったんです。




その日は夫と息子と三人で夕食を食べていました。


リビングにはベランダへ出る掃き出し窓があるんですが、息子が窓の方を指さして言うんです。




「ねえママ、あそこに誰かいるよ。」




窓の方には何もいません。


窓を開けてベランダを覗いた夫は、「何もいないよ」と言っていました。




子どものうちは見えないものが見えることがあるって言うしな、なんて言う夫と一緒に笑って、その時は特に気にせず食事を続けました。




けど、それだけじゃなかったんです。






朝、夫が出勤した後、幼稚園に行く準備をさせていると、また言うんです。




「ママ、あそこに誰かいるよ。」




私はあまり取り合わず、


「そんなおかしなこと言ってると、ほんとにコロナおばけがきちゃうよ。」


と言って、支度を続けました。




息子は不安そうに窓の方を見ていましたが、幼稚園に行きたくないからママを困らせてやろうと、そんな魂胆から変なことを言っているのだと思っていたんです。






また、夕食を食べている時でした。


息子がまた窓のほうを指さすんです。




私も少し気味が悪いと思ってきていたので、


「こら、またおかしなこといったら、ほんとにおばけが来るよ。」


と強めに言ったんです。


そしたら、




どん!




と窓が強く叩かれるような音がしたんです。




夫が急いて窓を開けて外を覗きましたが、やっぱり誰もいません。


「鳥か何かがぶつかったんだろう。」


と夫はあまり気に留めていない様子でしたが、私は正直恐怖を感じ始めていました。






それ以来、息子は家にいる時、ぼーっと窓の方を見つめていることが多くなりました。


まるで本当にそこに何かがいるかのように。






そして、家の中に異変が起こるようになったんです。




“ラップ音”っていうんですか。


家のあちこちから、変な音がときどき鳴るようになったんです。


パキパキ、というような家が軋むような音なんですが、昼間でも、夜寝ている時でも耳にするようになりました。




さらに、机の上に置いていたペットボトルが、帰宅したら床に落ちていたり、家の中の観葉植物の葉が破られていたり、妙なことが続くんです。






休日、リビングで息子がおもちゃで遊んでいました。


私はテレビを見ていたんですが、息子はまた突然遊ぶのを止めて窓の方を見ていたんです。


何もいるはずもない窓の方を。


まるで何かがいるかのように。




私、それを見ているとなんだか恐くなってしまって、息子に訊いてみたんです。


「ねえ、また誰かいるの?」


息子は頷いていました。




「どんな人がいるの?」


と訊くと、息子は少し迷って、


「すごくね、真っ黒な人」


と答えました。




そして、最も気になっていたことも訊いてみたんです。


「その人は窓の外にいるの?」


息子はまた少し迷って、首を横に振って言いました。


「ううん。おうちの中にいるよ。」




それを聞いた瞬間、私は息子を抱き上げて急いで家を出ました。


夫が戻ってくるまで、近くの公園で息子を遊ばせていましたが、しばらくは鳥肌が収まらなかったのを覚えています。




その日、夫が帰ってきた後、最近のこと、今日のことをありのまま話しました。




夫は親身に聞いてくれました。


その上で、


「考えすぎだよ。あいつも、困らせるようなことをわざと言って、なんとか気を引こうとしてるんだよ。気にしないのが一番だよ。」


と諭されました。




私は彼の言葉を受け入れ、黒い何者かが家の中にいるイメージを払拭し、できるだけ気にしないように努めようと思いました。






その次の日。




息子を幼稚園に送った後、友人とランチに行く約束があったので、その支度をしていました。




私、化粧をするときはリビングの机の上に鏡や化粧品を並べるんです。




その日はベランダの方に背を向けて化粧をしていたんです。




化粧鏡の中の自分の顔に集中して、化粧を進めていると、気づいてしまったんです。




自分の顔に視点があっていると、その周りは焦点が定まっていないので、ぼやけている状態ですよね。




そのぼやけている中に、いたんです。




黒い人影が。


ちょうど窓の前に立っていました。




動かず、少しだけ体をかがめるようにして立っていたんです。






私は動くことができませんでした。


金縛りとかではなく、恐怖で体が動かないんです。




黒い影に焦点が合わないよう、必死に視点を留めたまま、


動け、動け、と自分自身に念じていました。






どれくらいそうしていたか分かりません。


いつの間にか黒い影は消えていました。




恐る恐る後ろを振り返ると、窓の前には何もおらず、ただ曇った空から漏れる弱い日の光が揺らめいているだけでした。






見間違いだ。そうに違いない。


と自分に言い聞かせました。




しかし、息子の言っていた黒い影の話が脳裏によぎり、また恐怖を再燃させてきました。






私は自分を落ち着かせるために、洗面台に顔を洗いに行こうとしました。


しかし、それが間違いでした。




洗面台にも鏡があります。


それを覗いた瞬間、しまった、と思いました。


気付いた時にはもう遅かったんです。




やっぱり、あいつがいたんです。


鏡の中に。


そして、今度は私のすぐ後ろに。




私は思わず視点を黒い影に合わせてしまいました。


人間、恐怖の中だと思うように体を動かせなくなりますから。




黒い影の顔には、目が見えました。白目の目立つ、大きな目がありました。


私の目と合うと、その下の口から薄汚れた歯を覗かせて、ニヤッと笑っていました。




私はそのまま気を失ってしまいました。






起き上がることができた時には、もう暗くなりかけていました。


私は急いで家を飛び出し、友人に謝罪の連絡を、夫に息子の迎えを頼む連絡を入れ、近くのカフェで時間を潰していました。




帰宅後、夫にその日のことを話しました。


私のただならぬ様子を見てさすがに心配したのか、夫は引っ越しをしようと言ってくれました。






そしてあれから一週間たった今、新居の新鮮な匂いの中で、新生活をスタートさせました。




息子はここへきてから、窓の前を見つめることやぼーっとすることはなくなりました。




あの恐怖から解放されたんだと、今のところはそう思うことができています。






ただ、いまだに鏡を見ることには抵抗があります。


黒い影のあれが視界に映るのを想像してしまうんです。


不気味な目と口を開いたあれの顔を。






そもそもあれは一体なんだったのでしょうか。






コロナおばけって、本当にいるんでしょうか。


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