見知らぬ指輪

白木錘角

第1話

 私の住んでいる町にはワタヌキさんという人がいます。名前はワタヌキさんですが、皆は「宝石おばさん」と呼んでいます。

 名前の由来は、彼女の10本の指に嵌められた指輪たちです。赤、青、緑、紫……。色とりどりの綺麗で大きな宝石がついた指輪を、宝石おばさんは常に身に着けていました。友達の由紀ちゃんが言うには、シサンカだった旦那さんの遺産で買った指輪らしく、私たちに会う度に大きな鼻を膨らませて自慢げに指をヒラヒラと――いえ、ジャラジャラと動かして指輪を見せつけてきます。


「あーやだやだ。あんなみっともないおばさんにはならないようにしよーっと」


 宝石おばさんに会った後、由紀ちゃんは決まってそう言ってから、彼女のいる方向に唾を吐く真似をします。

 たしかにあの態度には腹が立ちますが、宝石おばさんの太い指に輝く10個の指輪が魅力的なのもまた事実でした。

 年頃の女の子なら誰もが憧れるであろう宝石。普段買ってもらえるような小さな偽物とは比べ物にならないほど美しい、喉から手が出るほど欲しいそれが1個のみならず10個もあるのです! 由紀ちゃんも、内心では羨ましがっていたに違いありません。

 とはいえ、あの宝石が、誕生日にねだれば買ってもらえるようなものでないことも分かっていました。なので私は宝石おばさんに会っても、その指輪が大したものではないかのように振舞うことにしていました。もし本心を表情に出してしまえば、宝石おばさんのあの顔がさらに醜くなるのは分かりきってましたから。


 

 風の強い、夏真っ盛りといったある日のこと。由紀ちゃんの家で今週の宿題を終わらせた私は、前に伸びる影を見ながら足早に家へと帰っていました。恥ずかしい話なのですが、私はあまり勉強が得意ではなく、宿題はいつも由紀ちゃんに教えてもらっているのです。

 時折時計を見て、門限まであと何分と呟きながら歩いていたその時、突然強い風が吹いて、私の帽子を持ち上げようとしました。慌てて帽子に手を伸ばしますがわずかに間に合わず。帽子はふわりと浮かんで、そばにあった塀を越えて誰かの家の中に入ってしまいます。

 さてどうしましょう。帽子を取りに行けば、走っても門限に間に合わないかもしれません。でもあれは外国に旅行に行った時に買った大事な帽子。あれを放って帰るなんて考えられません。

 私は塀越しにぐるりと回って、その家のインターホンを押しました。玄関の横には小さな道があり、それを見るにどうやらこの家には庭があるようです。帽子もそこに落ちたのでしょう。うまくいけばすぐに家の人が出てきて帽子を取らせてくれると思ったのですが……。茶色いドアの向こう側からは何の気配もしません。

 ここでまた2つの選択肢が出てきます。帽子を一旦おいて家に帰って、親に事情を説明してから改めて帽子を取りに来るか、それとも庭に入ってさっさと帽子を取って出ていくか。私が選んだのは後者でした。

 念のためもう一度インターホンを押して耳をそばだてます。……やはり人が出てくる気配はありません。私は身を低くすると、なるべく足音を立てないようにして庭に向かいました。

 帽子は庭の奥の方に落ちていました。私は忍者になったつもりですばやく、でも静かに帽子のところまで行くと、汚れがないかを持ち上げて確認します。少し土がついていますが、払えば問題ないでしょう。

 さぁ、帽子は回収しました。あとは人に見られないよう外に出ればいいだけ。そう思って振り返った時。

 庭に面した窓から、家の中の様子が目に入ってきました。夕日によって照らされた薄暗いリビングには、テレビにソファ、古風な黒電話に古ぼけたキャビネット、そして大きなテーブルが見えます。テーブルには紫色の布がかけられており、その正体に気づいた時、私の足は止まりました。

 あれはテーブルクロスなんかじゃありません。あの悪趣味な紫色、そしてところどころについた黒いフリル。あれは宝石おばさんがいつも着ているワンピースです。

 という事はここは宝石おばさんの家? あんなダサい服を持っている人がこの町に何人もいるとは思えませんし、あのおばさんには家にお邪魔できるほどの友達もいないでしょう。自分が今いるのが、宝石おばさんの家であることは疑いようもありません。

 シサンカの夫がいたという話から、てっきりテレビに出てくるような豪邸に住んでいるだと思っていましたが、実際に見てみると、私の家と何も変わらないごく普通の一軒家でした。由紀ちゃんの聞いた話はただの噂だったのでしょうか? もしかしたら、豪邸を売ってあの宝石を買ったのかもしれません。

 でも今の私には、そんなことはどうでもよかったのです。宝石おばさんが外に出る時は常に着ている服がそこにある。つまりおばさんは家にいるという事です。でもインターホンを押しても出てくる様子はなかった。ということは、インターホンに気づいていないか、気づいていても手が離せない何かをしている。そして服がそこにあるのなら……。

 無意識のうちに私は窓枠に手をかけていました。恐る恐る、もしおばさんがリビングに入ってきてもすぐに逃げ出せるように、ゆっくりゆっくりと手に力を込めていきます。

 ……窓は何の抵抗も示さずするりと開きました。中からはむせかえるような香水の匂い、そして家の奥からは微かな水音が聞こえてきます。おそらく、帰ってきたばかりでシャワーを浴びているのでしょう。

 リビングに入った私はまっすぐテーブルに向かうとワンピースをつまみ上げました。

 予想通り、ワンピースの下には10個の指輪がごろりと転がっていました。緑の宝石はエメラルド、赤の宝石はルビー、紫の宝石はアメジスト……名前の分からないものもいくつかあります。間近で見るそれは、遠くで見ていた時よりさらに美しく、夕日の小さな光を何百倍にも膨らませ、まるで宝石自体がそれぞれの輝きを放っているかのようでした。夕闇の中でこれほど輝けるのなら、もっと明るいところ――例えば真夏の日差しにかざせば、一体どれほど美しい光を見せてくれるのでしょうか。

 私は指輪の中から、白く大きな真珠のついたものを取りました。他の宝石と比べるとやや地味ですが、私はもともと真珠が宝石の中でも好きだったのです。それにその地味さが私の罪悪感を軽減してくれるような気もしました。

 悪いのは宝石おばさんなんだ。こんな綺麗な物を見せつけてきて、無防備に窓も開けっぱなしにして、テーブルの上に宝石を置きっぱなしにして。それに宝石はまだいっぱいある。1個くらい大したことじゃないだろう。

 私は真珠の指輪をポケットに突っ込むと、静かに窓から外に出ました。もちろん窓を閉めておくことも忘れません。窓がぴったりとしまるその瞬間まで、家の奥からは水の流れる音がしていました。





 次に宝石おばさんを見たのは、それから一週間後の事でした。由紀ちゃんと学校に行く道の途中、おばさんは自分の家のそばにある十字路でぼうっと遠くを見て突っ立っています。いつもは忙しなく目を動かして、人がいればニヤニヤと指を動かしながら寄ってくるのに、今日はこちらに気づく様子もありません。

 さらによく見てみると、私は変な事に気づきました。おばさんの左目が黒い眼帯で覆われているのです。


「あぁ、あれね。実はちょっと前、指輪が盗まれたとか言って大騒ぎしてたんだよ。私の家にも来て、指輪を盗んだのはお前かー!って。ほんと迷惑!」


 そういえば、宝石おばさんの家は、由紀ちゃんの家の近くにありました。それを知ったのは一週間前ですが、本当はもっと早く気づいてよかったのかもしれません。宝石おばさんと会うのは大抵由紀ちゃんの家に行く時や由紀ちゃんと一緒にいる時でしたから。


「警察が来るぐらい大騒ぎして暴れてたから、その最中に目を打ったんじゃない? まぁ新しい指輪も見つけたらしいから今は落ち着いてるけど、全部おばさんの自業自得だよねー。あんなに見せびらかしてたら、そりゃ盗られるでしょ」


 由紀ちゃんの言葉通り、今まで真珠の指輪を嵌めていたおばさんの左手の中指には、新しい指輪がありました。真珠と同じ、白っぽい球体のようですが、模様が入っているように見えます。あの宝石たちと並んで指に嵌められるのですからとても綺麗なものなのでしょうが、私の見た事の無い宝石です。もっとよく見ようと私が一歩踏み出した時。


「やばっ、こっち気づいた!」


 宝石おばさんがゆっくりこちらに顔を向けます。嫌な顔をした由紀ちゃんに引っ張られるまま、私は少し遠回りして学校に行くことになりました。




 私は、自分の机の奥にしまい込んであった真珠の指輪を取り出して悩みました。真珠の指輪を失ったおばさんは一回りも二回りもやつれてしまったように見えました。この指輪は10個の中の1つではなく、それだけ大切なものだったのです。それを私は盗んでしまった。

 それにあの目。由紀ちゃんも詳しい事は知らないようでしたが、もしかしたらかなりひどい怪我なのかもしれません。最悪の場合、失明している事だってありえます。

 私が指輪を盗んだせいで、おばさんの片目は2度と見えなくなってしまった。もちろんそれは最悪の場合の話です。ですが、私が良い方向に考えようとする度、頭のどこかで「それも結局はお前の勝手な思い込みじゃないか。また独り善がりな考えにすがるのか?」という声がするのです。

 ……私は指輪を返す事に決めました。もちろん指輪を返したことで、おばさんの怪我が良くなるわけではない事くらい分かっています。でも、少なくとも萎んでしまったおばさんは、元気で少し腹の立つあの頃の姿に戻るはずです。




 前におばさんの家に入ったのと同じ曜日、同じ時間に私は再びおばさんの家に来ていました。前回と違うのは帽子と荷物がない事、そしてポケットに真珠の指輪が入っている事です。

 近所の人に見られないよう、おばさんの家の玄関に滑り込んだ私は、まずはインターホンを押します。1回目、反応なし。2回目、反応なし。ここまでは前回と同じです。

 私は庭の方に回ると、窓から部屋の中の様子をうかがいます。部屋の壁にはいくつもの傷が入り、ソファはひっくり返ったまま部屋の隅に転がっています。私が去った後、リビングに戻ってきたおばさんが1つ足りない指輪を見てどうなったのか。目の前の光景は、まるでそれを私に見せつけているかのようでした。

 私は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら窓枠に手をかけます。ここで窓が開かなければ、適当なところに指輪を置いて帰るつもりでしたが、幸か不幸か窓は前と同じようにあっさり開きました。

 リビングに入ると、家の奥からは微かに水音が聞こえてきます。何もかもが前回と同じで少し怖くなりましたが、私にとってこの状況はむしろ好都合です。

 部屋を見渡してみると、すぐにキャビネットの中にしまわれた指輪たちに気づきました。

 真珠の指輪もキャビネットの中に入れておけば、おばさんもすぐに分かるでしょう。私は少し背伸びをしながらキャビネットのガラス扉を開けました。

 中には指輪が行儀よく並べられています。1番右端が右手の小指に嵌めているルビーで、1番左端が左手の小指に嵌めているダイアモンドです。

 真珠の指輪を嵌めていたのは左手の中指だったはずなので、右から8番目に置けばいいでしょうか? でも今は別の指輪をそこに嵌めていたはず……。

 そう思って目を動かすと、たしかに8番目の位置に見た事のない指輪がありました。

 遠目で見た通り真珠に似た、白く丸い宝石がはまっています。ですが真珠とは違って頂部に黒色の円があります。正確にはそこだけ黒いわけではなく、頂部に向かうにつれて徐々に色が濃くなり小さな真っ黒の円に色が集約しているといった様子で……。


 

 その正体に気づいた時、私は小さく悲鳴を上げてしまいました。そうです。それは宝石なんかではありませんでした。人の眼球です。人の眼球が指輪にはめ込まれているのです。目を模したものだと思おうとしましたが、夕日にてらつく特有の粘っこい光は宝石に出せるものではありません。

 握りしめていた真珠の指輪が手から零れ落ち、フローリングの床にぶつかり音を立てます。その音で呪縛が解けた私は、わき目もふらず外に飛び出しました。

 窓を閉める事も忘れ、私はただただ家に向かって走り続けました。きっとこの時の私の走りを記録に残せていれば陸上部の子にも勝っていたでしょう。

 震える手で鍵を開け、家の中に飛び込んだ私は息を整える事もせず、すぐに家中の戸締りを確認しました。裏口からどう考えても人は通れない小窓にいたるまでしっかり鍵のかかっていることを確認した私は、2階にある自分の部屋に駆け込むと、そこでようやく大きな息を吐きました。

 ドアに鍵をかけ、机を動かしてバリケードを作り、お気に入りのぬいぐるみを抱えて机にもたれかかって座ります。

 夏だというのに寒くて仕方がありません。夏の夕方のじっとりした暑さはどこへやら。冷たい汗が頬を伝います。

 

 真珠の指輪を落としたその瞬間、私はたしかに見たのです。あの眼球がぎょろりと動いてこちらを見たのを。

 チャイムの音が聞こえます。ドアを叩く音が聞こえます。

 お父さんとお母さんは今日は遅くまで帰ってきません。お兄ちゃんも部活で遅くなると言っていました。

 ドアを叩く音は聞こえなくなりました。ですが家の周りをぐるぐる回る気配を痛いほど感じます。きっと入り込める場所がないか探しているのです。開いていた窓から家に入った私のように。

 もしかしたら確認し忘れた場所があったかもしれません。焦っていて、玄関の鍵をかけ忘れたかもしれません。でも今から確認しに行くことはできません。私にできるのはこうやってぬいぐるみを抱きしめて家族が帰ってくるのを待つことだけです。


 誰か、助けてください。

 

 

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