א話:霊長目真猿亜目狭鼻下目ヒト上科ヒト科作家属

 ――本書を親愛なる君、サミーに捧ぐ。辺獄リンボより愛を込めて。



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―――――――  1  ―――――――




 彼方あちら此方こちら何処どこ彼処かしこも、SNSもテレビもラジオも新聞も雑誌も、どれを見ても何を聴いてもヴィールス、ヴィールス、ヴィールス……

 蝙蝠コウモリ由来の“”ヴィールスの話ばかり。

 政治的なメッセージで騒ぐ者、陰謀論を語る者、退屈で不自由なさまを嘆く者、唯々不安をあおる者、意に介さずはしゃぐ者。

 熟々つくづく、愚か。

 ヴィールスそのものの感染力より、流言蜚語ミームほうが遙かに感染力が高いと見える。

 ……ヴィールスではないか。

 ドイツ語発音に基づくカタカナ表記は最早、一般的ではない。

 ウイルス、――か。


 如何いかんな。

 どうしても、の記憶がよみがえる。何十年も経っているのに。

 勿論、全てが、じゃない。

 断片的。

 無作為に、脈絡もなく、曖昧あいまいにして散発的、無秩序な程、まとまりもなく、朧気おぼろげに。


 不意に、洗面所の鏡で汚いつらを拝む。

 ――われながら老けたものだ。

 額の皺が思ったよりも深い。

 それ以上に、目の下のたるみが酷い。

 睡眠不足という訳じゃない。純粋に、ごく単純にコラーゲンやヒアルロン酸が減少しているのか。

 そうか、これが加齢ってヤツだ。

 それもそのはず

 じき、半世紀。生まれで、直、半世紀を迎える。

 何者にもれやしなかった凡俗の成れの果て、詰まらない男。蚊虻ぶんぼうなる益体やくたいも無いただ小父おじさん。

 いや、唯の老いれ、か。


 一体、いつからは、くも憐れな匹夫に成り下がったのだろうか?

 わたしにも夢があった――あった筈だ、恐らくは。

 今となっては、がどんなものだったのか、なんだったのか、憶えていやしない。

 とても大事だった、そう思っていた。目標だった筈。希望だったんだ、およそ。それが何てこった。今となっては、ちっとも思い出せやしない。

 バクにでも喰われてしまったんだろうよ、多分。


 折角せっかくだ、顔でも洗おう。

 ついでとえばそれまでだが、せめて顔くらい洗っておこう。

 精々、身嗜みだしなみくらいは人並みに。

 それにしても――

 やつれちまった、な。

 嗚呼、その原因は分かっている。

 別には年を食ったからって訳じゃない。まぁ、年齢と全く関係ないのかって問われると、そうとは云い切れんのだが、少なくともには明確な要因がある。

 兎角とかく、語るようなもんじゃない。

 誰かに興味を持って貰うつもりはないし、哀れみを乞うつもりは毛頭ない。

 敢えて云うのであれば、淋しくなった頭髪だけでも分けて欲しいものだが。


 さて、と。


 書斎に戻る。

 書斎とは云っても、それは子供部屋。

 何十年も前から使っている、わたしの、わたしだけの固有空間。

 今時分いまじぶん子供部屋おじさんこどおじと揶揄され笑われるかも知れないが、世帯主はわたし当人。当然、家主。

 祖父母も父母も兄弟もいない。勿論、妻も。抑々そもそも、妻帯者ではない。この家に住まうのは、わたし一人。独りであるが故、部屋を持て余す。やけに広いリビングやダイニングは使っていない。他の空き部屋も全く使っていない。覗いてもいない。

 わたしは元来、荷物が少ないんだ。殆どのものは書斎で事足りる。

 断捨離だんしゃりに勤しんでいる訳ではない。

 単に、物欲が乏しい。

 蒐集コレクションに興味がない。

 無論、子供の頃には色々集めていたとも。

 綺麗な石ころや古銭、漫画本やプラモデル、モデルガンやナイフ、化石に昆虫の標本、ギターにCD、Blu-ray他、ごく一般的な男性として変わらず、興味があるものを集めるだけ集めてみたもんだ。

 ――だが、

 唐突とうとつに、はしなくも、出し抜けに、全てに興味を失った。

 今ある興味は唯一つ、物書き。

 ペンと紙切れがあれば、いや、パソコン一つあれば、でいい。ものを書くだけ、それしか興味がない。


 物欲がなくなったのは、“リーズン”がある。

 蒐集しゅうしゅうした物には、手に入れたその時々の思いが宿る。思い出が残る。その時、その時分、環境と出来事、その記憶とが、手に入れた品々一つひとつに刻まれる。

 その品々を見る度に思い出すんだ、その時の事を。

 わば、外部記憶媒体メディア。その記憶を読み取るプレーヤー、すなわち、わたし自身が経年劣化する事で読み込みが危殆あやふやになる。

 つまり、美化、する。

 何でもない凡庸な過去の思い出を、殊更ことさら美化する事で現実逃避する。要は、懐古にひたる。

 そう、精神の老化。

 肉体の老化は免れようもない。せめて、心だけでも若々しくありたい。


 だからつむぐ、ことの葉を。

 蒐集した個々の品々は沈黙したまま、わたしの記憶を改竄かいざんする。しかし、したためた文章は物言ものいわぬ儘にも関わらず、記した内容を有りの儘、時を越えて尚、素直にわたしに語りかけてくる。

 文書は、文章は、テキストは、言語は、わたしの記憶と記録とを完全な迄に補填ほてんし、刺激を、視程していを、素敵な程迄、広げてくれる。

 コレクションがわたしの記憶を奪うのに対し、文章を書く行為はわたしの記録を与えてくれる。

 そう、わたしは生まれ乍らの作家なのだ!

 例えるのなら、わたしは生物学的には霊長目ヒト科ホモ・サピエンスヒト属・サピエンスではなく、霊長目ヒト科ホモ・サピエンス作家属・スクリプトルなのだ!

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