あいさつ業
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牧野は大きな鞄を持って、緑ヶ丘団地の入り口に立っていた。彼の仕事は「あいさつ業」だ。団地の自治会から招かれていた。団地の建物は20棟くらいはあるだろうか。結構大きな規模だ。丘の上にあり、少し日差しが強くなってきたこの季節には、通り抜ける風が気持ちいい。これからこの団地にしばらくお世話になる。牧野はユリノキの新緑が眩しい長い坂道を登っていった。
「さて、自治会室は、2-4棟の1階か」
牧野はメモを見ながら歩いていった。自治会長の畑山は牧野を自治会室に招き入れた。他にも何人か理事と思われる人がいる。
「ようこそ、おいでくださいました。私が自治会長の畑山です。よろしくお願いします。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
牧野は帽子を脱いで、軽くお辞儀をした。畑山の方が一回りくらい年上に見える。
畑山は牧野にお茶を勧めてから、話し始めた。
「自治会への加入率は年々低くなって来ています。会員は昔からこの団地に住んでいるお年寄りが中心です。新しく入居してくる人たちは自治会に関心がありません。尤も、自治会もなかなか魅力的な活動ができていないのが現状です」
畑山は柔和な笑みを浮かべながら、これまでの経緯などを話した。そしてこう言った。
「まとめて言えば、ご多分に漏れず住民間の交流が段々と疎になって来ているという事です。それが少しでも改善できればと思って、こうして牧野さんにお願いする事になった次第です」
牧野は、概ね予想していた感じだと思いながら聞いていた。「ご近所付き合い」よりも、サークルやSNS、スポーツクラブでの付き合いが主となって来ているのはどこも同じだ。都心では、隣戸の人の名前も知らないのに、ネットで遠く離れた沢山の友人と交流をしている人も多い。ただ、そんな人達もそれなりに充実した日々を送っている。いうなれば時代の変化だ。牧野は頷くように返事をした。
「そうですね、良く分かります。災害や困ったときなど、やはり隣人同士の繋がりは大切ですよね。防犯上も有益だし、何より日々のQoLを高めてくれます。『遠くの親戚より近くの他人』とも言いますしね。どこまでお役に立てるか分かりませんが、やらせていただきます」
牧野は、団地の一室を使わせてもらう事になった。自治会室の隣がちょうど空いていたので、そこに入居する。「あいさつ業」は衣食住を提供してもらうのが報酬だ。「業」とは言っているが、お金は貰わない。食料は、スーパーや食堂の残り物でも何でも良かった。元々贅沢とは無縁の素朴な生活をしている。実際には自治会の人の自宅に食事に誘われたりして、楽しい一時を過ごせる事も多い。期間に定めは無いが、3ヶ月から半年くらいが普通だ。牧野はもう、かれこれ20年くらい「あいさつ業」をしている。北海道から沖縄まで全国を旅する渡りガラスだ。
「あいさつ業」は特殊な事をするわけではない。基本的にはその名の通り、「あいさつ」をする、ただそれだけだ。しかし、今までの経験から、これを続けて行くと、牧野以外の人同士のあいさつも増えて行く事が分かっている。結果的に、近所の交流は増えていくという訳だ。それであれば「あいさつ業」なんて誰でもできると思ったら大間違い。それなりのノウハウがある。また、これが微妙で難しいのだが、時代に合わせてその手法も変遷していく。牧野も日々工夫をこらしながら「あいさつ業」を続けて来た。
翌朝、周辺を歩いてみた。「あいさつ業」を抜きにしても、知らない土地を歩くのは楽しい。目に入る物一つ一つが新鮮だ。四季折々の変化も楽しめる。早速「あいさつ」を始める。近所のおばさんがゴミ出しをしているところに声を掛ける。
「おはようございます」
おばさんは、少し驚いた様子だったが、ちゃんと返してくれる。
「あっ、おはようございます」
反応は様々だ。気持ちよくあいさつを返してくれる場合もあるが、全く反応しない場合もある。ちらっとこちらを一瞥だけする場合もある。怪訝な顔をしている場合はこんな風にいう。
「こんにちは。最近引っ越してきた牧野といいます。よろしくお願いします」
まずは朝晩一回ずつ、団地をあいさつしながらゆっくりと一回りする。さりげなくやらないと、選挙活動でもしているかと思われかねないので、さじ加減が重要だ。服装は、努めて「普通」にする。何が普通か良く分からないが、年金暮らしで散歩に勤しんでいる高齢者の皆様と似たり寄ったりの服装が無難だ。でも、やはり覚えてもらいたいので、帽子だけは少しだけ目立つように、大きな「スマイルマーク」のワッペンを付けたチロルハットを被る。牧野のトレードマークだ。
少し近所の人の顔を覚えてきた頃から、いくらか言葉を交わすようにする。もちろん、むっつりして振り向いてもくれない人もいるから、どのように接するかは相手によって違ってくる。
「おはようございます。オオヤマレンゲが咲き始めましたね。大きな花ですね」
すると、こんな返事も返ってくる。
「へっー、これ、オオヤマなんとかって言うんですか。木蓮にしては花が大きいなあって思ってたんですわ。お隣さんにも教えてあげようかいね」
犬を連れている人には、やはり犬について何か言ってあげる。
「こんにちは、これブルドッグですか」
「ええ、フレンチ・ブルドッグです」
団地ではたぶんペットは禁止しているので、近所の住宅地の人だろう。
高級そうなカメラを持っている人にはお決まりの文句で。
「そのカメラのレンズ、望遠ですか。すごく高いんでしょう?」
「あー、いや、30万円くらいですよ」
一度など、120万円と言われて本当に驚いた事がある。何をするにも趣味の世界はピンキリだ。
無理やり話題を見つけて声を掛けていくのは、なんだか作為的だが、これも「あいさつ業」と割り切ってやっていく。相手に不快感を抱かせない事が重要だ。
子供には植物や動物の話しがいい。小学生くらいなら、大抵話しに乗ってくる。
「そのどんぐりはちょっと変わり者で、実は2年に1
「へぇー、実は毎年生るのかと思っていた。2年に1回なんて学校で教えてくれなかったよ」
住民間の交流を促すだけなら、他にも方法はある。例えば、自治会を主体にして色々なイベントを企画する事も考えられる。例えば、運動会、囲碁将棋大会など。しかし「イベント」にすると、やはり「特定の人の輪」となってしまう。これでは、サークルやSNSと同じだ。「仲間」の中には壁が無く、「仲間」とその外との間には高い壁がある。その両者が極端に違うのだ。大切なのは一人ひとりが、少しだけ周囲との壁を低くする事かな、と思っている。少しだけ、でいい。
人にはある種の「threshold(閾値)」があるような気がする。例えば、人と人の間に2mの壁があったら、2人は無関係だ。相手を認識できない。でも、壁が段々と下がってきて、頭のてっぺんが見えると、
「あっ、人がいる。どんな人だろう」
となる。そしてもう少し下がって目が合うと、
「こんにちは」
となる。そこから先は文字通り、垣根の無い交流ができるようになる。
牧野は、あいさつをするための「技術」を開発してきた。時代と共により高い技術が要求されてきている。たかがあいさつで何が技術かって? 以下に、これまで牧野が生み出してきた「技」のいくつかを紹介しよう。
雨の日はあいさつがしにくい。傘で顔を隠して来る人もいる。そんな時は無理はしない。さすがに相手の傘を下から覗き込んで「あいさつ」するなんてのは失礼だ。ただ、最近は日傘を差す人も多くなり、「あいさつ業」としては、ちょっと困っている。学生さんや男性も日傘を差す事が増えてきた。さらに困ったことに、意識してかどうか良く分からないが、傘で顔を隠す人が多い。これは若い人に限らず、結構年配の人もそうする。ビニール傘の場合には一応相手の顔が見えるので、なんとかあいさつできる。お互いの表情が分かりにくいので、傘もいっしょに少し傾けるのがコツだ。
「あいさつ業」に立ちはだかるのは傘だけではない。ここ何年か、下を向いて歩く人が増えてきた。ここでは「下向きさん」と呼んでおこう。「歩きスマホ」なら分かるのだが、スマホ無しでも下を向いて歩いて来る。こうなるとなかなかあいさつのタイミングが難しい。下を向いていると安全上も防犯上も良くないし、また背筋が曲がるので健康上も良くない。特に成長期の小中学生は骨格が固定してしまう。四六時中スマホをやっているのと同じだ。何故、下向きさんになってしまうのかは不明だ。下は小学生から、上は初老のおばさんまで広い年齢層に広まってしまっている。
考えてみると、人類10万年の歴史の中でヒトが下を向いて歩くのは、これが初めてではないだろうか。狩猟時代に下を向いていては獲物が獲れないし、外敵にやられてしまう。
この「下向きさん」も「あいさつ業」には強敵だ。ただ、一瞬の隙がある。すれ違う瞬間に「横目」でこちらをちらっと見る人がいる。大体0.3秒くらいだ。「あいさつ業」のプロとして、この0.3秒を見逃さない。瞬間的に、小声で言う。
「おはよう」
下を向いている人は喉が圧迫されて、直ぐには発声しにくいようで、会釈で返してくる人が多い。ただ、大きなお世話だ、と言わんばかりに睨み付けられる事もある。なお、この「横目」は、結構「爬虫類的」で「ギロッ」としていて怖い。「横目」「上目」は余り良い仕草では無いと思う。良寛さんが聞いたら嘆くだろう。
「下向きさん」に並んで「ヘッドホンさん」も強敵だ。仮に前を向いて歩いていても、ヘッドホンをしていると、あいさつが耳まで届くかどうかは不明だ。大音量で音楽を鳴らしていれば聞こえるはずも無い。こんな時は会釈をしてみる。まあ、反応は様々だが、相手が気付いてくれればそれで良しとする。下手にあいさつで「声」を掛けてしまうと、相手はヘッドホンを外しながら、
「えっ、何ですか」
と言われる事があり、これはむしろ相手に迷惑だ。
ヘッドホンをして、かつ下を向いている場合が最強だ。まさに取り付く島が無い。こんな時は潔くあいさつは諦める。
もう一つの強豪は「横向きさん」だ。こちらと反対側の横を向いて歩いてくる。要するに「積極的に」こちらを「見ない」ようにしている人だ。思うのだが、これは日本では相手にちょっと不愉快な思いをさせるだけで済むが、例えばアメリカでは、相手によっては人種差別と捉えられて、殴られるかもしれないので要注意だ。海外では「横向きさん」はやらない事をお勧めする。
さて、この「横向きさん」対策だが、一応ある。ちょっと相手に失礼になるが、「蜂音発生器」を用いる。自作品だ。背中のザックに小型のスピーカーが付いていて、手元のスイッチを押すとスズメバチの羽音が聞こえてくる、というものだ。効果はてきめんで、「横向きさん」は羽音とほとんど同時にこっちを振り向いてくれる。その瞬間にスイッチを切って、
「こんにちは」
とあいさつをする。かなり強引なので、たまにしか使わない。もちろん同じ相手に何回も使うことはできない。
比較的対応が容易なのが「腕時計さん」だ。腕時計を見ながら歩いてくる。でも、大抵は途中で顔を上げるので、その時にあいさつすればいい。ちょっと戸惑うのは、ずっと腕時計を見ながら歩いてくる人だ。そもそも時間を確認するのにそんに時間がかかるのか良く分からない。考えてみれば変な振る舞いだと思う。もしかすると、アップル・ウオッチで動画でも見ながら歩いているのかもしれない。「腕時計さん」には普通にあいさつする代わりに時間を聞く方法もある。
「すみません、今何時ですか」
小学生のような台詞だが、別に悪く思う人はいないだろう。ただ、面白いのは聞かれた時の反応で、ほとんどの場合、急いで時計を見直す。それまでずっと見ていたのに。
「鞄さん」というのもある。これは「腕時計さん」と並んで古典的なタイプで、自分が持っている鞄や手提げの中をまさぐる。大抵は数十秒だ。背負っているデーバッグをわざわざ下ろしてチャックを開けて中をまさぐる人もいる。この鞄さんはずっと鞄を覗き込みながら歩いて来るので、あいさつができない。仕様がないので、顔は合わせていないがあいさつをしてみる。すると、顔を上げてあいさつを返してくれる場合もある。
増えてきたのが「小走りさん」だ。普通は小中学生に多い。これは普通は前を向いているので、まあ、あいさつはできる。ただ、のんびりしていると通り過ぎてしまうので、少しタイミングに注意が必要だ。以前は小学生だけだったのだが、最近は若者全般に広がっている。
ここ数年、新手が現れた。これもなかなか手ごわい。それは目をつぶって歩いてくる人だ。まさか、と思うかもしれないが実在する。とりあえず「座頭市さん」と呼んでおこう。座頭市さんは、大抵の場合、すれ違ってから数歩以内に目を開く。長く目をつぶっていると不安だからだろう。それなら目をつぶらなければ良いだけの事だが、その議論はややこしくなるので置いておこう。
対処は「忍法逆噴射」を使う。座頭市さんが目をつぶった瞬間、逆噴射するが如く、素早く後ろに3乃至5歩くらい、後ずさりする。するとちょうど座頭市さんが目を開ける時にご対面となる。そこですかさずあいさつをする。これも相当に強引なので、多用はしない。なお、逆噴射の直前で必ず後方を確認する。後ろから来る人に激突する恐れがあるからだ。
「ペット連れさん」には餌を使う。ペット連れさんは、ペットをこちらと反対側に置いて、そちらを向く、つまり、こちらの反対側を向く人の事だ。ペットの引紐を手に、じっとペットの方を見てしばらくそうしている場合が多い。通常30秒前後だ。これではあいさつできない。そこで秘密兵器は「餌」。とぴっきりいい香りのする「高級肉餌」を前方に撒く。すると犬は直ぐに顔を上げてワンワン吼えながら、こっちに走ってくる。ペット連れさんは慌てて引紐を抑えながらいやでもこちらを向くという仕組みだ。そこですかさず、
「こんにちは」
なお、撒いた餌は回収しておくことが望ましい。
「子供連れさん」は基本的に「ペット連れさん」と同じだ。前述のペット連れさんの「ペット」を「子供」に読み替えてもらうといい。ただし、子供に対して餌を撒く訳にはいかないので、対応は違ってくる。子供が興味を引きそうな、例えばシャボン玉を威勢よく吹くのは有効だ。子供が関心を示してこちらを見ればしめたもの。親もこちらを向く。その時、
「こんにちは」
ちょっと余談だが、テレビの刑事ドラマでこんな場面を見た。容疑者が人ごみの中を逃亡して行くのだが、警戒中の警察官の近くを通る時にさっと下を向き、通過すると顔を上げる場面があった。顔を見られないようにしているのだ。「下向きさん」は、これに似ている。
牧野から見ると、「下向きさん」「座頭市さん」などは、不自然な仕草だ。ただ単に普通に前を向いて歩けばいいのに、様々な振る舞いをする。人を見たら疑う世の中だ。牧野は、これらの人々が「不審者」として見られないか心配していた。自分の様にしっかり前を向いて明るくあいさつしていれば大丈夫なのだが、と思っていた。
ちょっと脱線するが、面白いものを紹介しよう。これも比較的新手だ。「ポケットもぞもぞさん」だ。多くの場合、ちゃんと顔を上げて歩いて来るので、普通にあいさつはできる。ただ、生態が面白い。ポケットに突っ込んだ手がもぞもぞ動いているのだ。ちょっと想像してみるだけでも面白い。本当なら相当に格好悪い仕草なのでそんな事はしないと思うのだが、着実に増えている。何故「もぞもぞ」するのかは、今後の研究課題だ。
早一ヶ月が過ぎようとしていた。牧野はちょっと頑張りすぎて、煙たがられている気配も感じていたので、少しペースを落とす事にした。しばらくはルーチン的な行動はせずに、時間も行き先も無作為的にする。こうする事で、新しい人達にあいさつする機会を増やしていく。
通学時間帯には、通学路も歩く。子供達は下向きで歩いている者が少なくない。うまくタイミングを見計らってあいさつをして行く。たまに元気にあいさつを返してくれる生徒がいると嬉しい。「あいさつ業」をしていて良かったと感じる。しかし、子供達の中には明らかに、こちらをうざったく見ている者もいる。
ちょっと戸惑うのは、こちらはあいさつをしているだけなのだが、これを胡散臭そうに見ている親御さん達だ。下校時に迎えに来ている親と出くわす事も多いが、
《何だこいつ、先生でもないのに》
という目つきが刺さって来る事がある。
そんなある日、緑ヶ丘高校を訪問した。生徒の近所付き合いの状況や、あいさつの指導なんかについて聞く為だ。というのは表向きで、実際には先生方と雑談でもできればいいと思って来ている。意外と学校はこんな良く分からない訪問でも受け入れてくれる。緑ヶ丘高校では、教頭先生が応対してくれた。
「ようこそ、いらっしゃいました。教頭の阿部といいます。『あいさつ業』との事ですが、珍しいお仕事ですね」
牧野は「あいさつ業」やこれまでの経験などをかいつまんで話した。
「ほー、それは興味深い。ここ緑ヶ丘はどうですか。ウチの生徒に限った話しではありませんが、皆、あいさつを返してくれますか」
「多くは。ただ、特に若い人はスマホ歩きやヘッドホンをしている事が多いので、なかなかあいさつするのが大変ですね。難しい世の中になりました」
阿部は牧野と同世代くらいだが、牧野の話しに共感したのか大きく笑った。
「ハハハハー、なるほど。そうでしょうなぁ」
牧野は続けた。
「あと、親御さんにも怪訝な目で見られます。あいさつするのが何か怪しいんでしょうかねえ」
阿部はノートパソコンを開くと、手招きした。
「親御さんの関心はやはり防犯です。少しでも怪しい人間がいると心配します。自分の知らない人間は、とりあえず『怪しい人』なんです。牧野さんが『あいさつ業』で来ている事を知ったら、向こうからあいさつしてくるようになりますよ。そんなもんです」
そう言ってパソコンに、ある情報ページを表示した。
「これは『不審者ネット』と言って、自治体、学校、警察が連携して運営しています。緑ヶ丘周辺で不審者を見かけた人が写真なんかをアップします。誰でも参照する事ができます。週に1件か、2件くらいアップされます」
パソコンの画面には不審者の写真が並んでいた。牧野はそれを見て言った。
「これはすごいですね。でも、見た目だけで不審者にされてはたまりませんねぇ。この中に『本当の不審者』はどのくらいいると思いますか」
阿部は笑いながら答えた。
「ハハハ、ほとんどいないんじゃないでしょうか。まあ、『こうして監視しているぞ!』っていう抑止効果のほうが大きいかもしれません。だって見た目やちょっとした仕草だけで、その人がどんな人かなんて分からないでしょう。例えばきょろきょろしていたって、単に家探しや友達との待ち合わせをしているだけかもしれません。また逆に、ビシッとスーツを着ていたり、子供や犬を連れている人の中にも悪人はいるかもしれません」
教頭が画面をスクロールしている時、牧野はおやっ、と思った。
「ちょっと止めてください」
そこにはチロルハットをかぶった中年男性の姿があった。高校生の列に声を掛けている。牧野は一瞬血の気が引いた。
「こ、これ私です」
阿部は写真と牧野を何度か見比べると言った。
「本当だ。あれー、載っちゃったんですね。驚きました」
牧野にとっては驚きどころではない。これは「あいさつ業」にとっては致命的だ。不審者があいさつをして廻るなんて考えられない。牧野は今度は体から力が抜けていくのを感じた。
「あー、やっちゃいました。『あいさつ業』失格ですね。あいさつしていただけなんですが、やり方が悪かったのかもしれません」
阿部は同情するように言った。
「なんと申し上げていいか分かりません」
写真の下にはコメントが並んでいた。
「最高にキモいおっさん」
「私も見た。やたら『おはよう』ってめっちゃウザい」
親かららしいコメントもあった。
「子供が心配です。警察に届けた方が良いのではないでしょうか」
「子供達の通学路を変更してはどうでしょうか」
コメントをじっと読んでいる牧野を見た阿部は慌ててパソコンを閉じた。顔を上げた牧野にどう声を掛けて良いか分からなかった。牧野は鞄を手にすると、すくっと立ち上がった。
「どうも、おじゃましました。うーん、それにしても世の中厳しいですね。では、失礼します。ありがとうございました」
阿部は、肩を落として応接室を出て行く牧野を、黙って見送ることしかできなかった。
牧野は、阿部がパソコンを閉じる直前に目に入ったあるコメントをちょっと気に留めていた。こんな短いコメントだった。
「ありがと」
その日の午後、自治会室には牧野と自治会長の畑山がいた。牧野の説明を聞いていた畑山はやっと重い口を開いた。
「そうですか。やはり『あいさつ業』は中止ですか。折角近所の人とも仲良くなり始めた所だったのに残念です」
「畑山さんにはお世話になりました。全ては私の不徳の致す限りです。逆に団地の皆様にはご迷惑をお掛けしました」
牧野は畑山の慰留を丁重に断り、部屋の片付けに戻った。
「明日、出て行こう」
翌日、牧野は畑山に部屋の鍵を返し、最後のあいさつをした。そして、最寄の駅に向かうために長い坂を下っていった。途中振り返ると、来た時からは少し季節の進んだ初夏の緑ヶ丘団地があった。遠くホトトギスの声が聞こえる。
その時、後ろから走って来る若者に気付いた。女子高生のようだ。彼女は牧野に追い付くと、息を切らしながら言った。
「『あいさつおじさん』だよね、あー、やっと追いついた」
彼女によると、今日の朝礼で教頭先生が「あいさつおじさん」の話しをしたそうだ。でも不審者リストに載ったので、今日にも団地を出て行くかもしれないと言ったらしい。
「それでさ、授業サボって来ちゃった。お礼言いたくて」
「えっ、お礼?」
牧野は彼女の意外な言葉に驚いた。
「あのさ、私、学校ではいじめられてんの。干されてるし」
彼女は走って来たせいで紅潮した頬をしていた。
「あのさ、あのさ、そんでもおじさんは普通に『あいさつ』してくれるじゃん。嬉しかったんだ」
そこから少し自論を展開した。
「猫だって、人を分け隔てしないよね。可愛い女の子にだって、杖突いたしわくちゃのおじいさんにだって、おんなじ様に接するよね。人って相手によって全然違う態度とるじゃん。でもおじさんは誰にでも、私にも同じように『あいさつ』してくれた、区別・差別せずに」
牧野が返事もできずに聞いていると、彼女は明るい笑顔を見せた。
「じゃあ、 元気でね、応援してるよ、ありがと!」
それだけ言うと、彼女は来た道をまた駆け上って行った。途中で振り返ると、思いっきり背伸びしながら、牧野に手を振った。
牧野は「あいさつ業」の廃業を考えていた。しかし、この女子高生の言葉で思い直していた。
「ちょっと『休業』にするか。時代の流れに付いていけなくなっている事は確かだし、この辺で少し休んでゆっくり考えてみよう。これもいい機会だ。その後で、『あいさつ業』を続けるかどうか決めても遅くは無いよな」
もうその女子高生の姿は見えなかった。牧野は彼女からの「最高のあいさつ」に心の中で「ありがとう」と言った。
「
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