第31話 選挙戦

 黒川麻衣香と南彩花は対立候補である北野隆の街頭演説を聞くため、横浜に来ていた。久々に有給休暇を取ったが、演説は午後3時からなので、その前に二人で横浜を楽しもうということになった。二人はおしゃれな服を着て中華街を練り歩き、老舗の高級中華レストランで贅沢をした後、ホテルの一室で肌を合わせた。多忙な二人は愛を確かめ合うこと数週間ぶりで、何度も求め合い、ホテルを出たときにはもう3時5分前になっていた。

 中華街を出て目的の場所に着くころには、すでに演説が始まっており、予想よりはるかに多い聴衆が人垣を作っていた。さすがは芸能界の大御所と呼ばれ、映画を作らせれば世界の目の肥えた批評家たちをうならせる北野だけのことはある。軽妙な話術にときおり冗談を交え、聴衆の笑いを誘う。かと思えば、参謀についた南国原みなみこくばる英夫が、まじめな政策の話や対立政党の問題点を、立て板に水のごとく論じる。南国原はかつて北野の弟子として芸能界で売り出し、最近まで県知事を務め、今やニュース番組のコメンテーターとして引っ張りだこの人物である。まさに北野にとっては鬼に金棒だ。演説の最中もどんどん人が集まってくる。それでも、これはかなわない、と思うような麻衣香ではない。

「大御所だか何だか知らないけど、たかだか日本の芸能界でしょ。こっちは極悪受刑者や小韓民国、それにあの超大国支那とも渡り合ってきてんのよ。戦場のスケールが違うわ。負けてたまるかっての」

「さすがねえさん。かっこいい」

彩花が抱きついてきた。

「あっちがタレント人気で票集めするなら、こっちは実績と現実問題の解決を訴える正攻法で勝ってみせるわ。彩花、明日から一段ギアを上げるわよ」

「了解です。どこまでも姐さんについて行きます」


 翌朝、麻衣香は入念に化粧をほどこし紺のスーツに厚手のコートを身にまとって外へ出た。入念といっても厚化粧をしてはかえってマイナスだ。あくまでナチュラルメイクで顔の美しさが引き立つようにメイクアップする。外で待っていた彩花は、麻衣香の指示通りほとんどスッピンの顔に丸眼鏡をかけ、麻衣香の引き立て役になってもらう。

 二人はレンタルサイクルで借りてきた自転車にまたがった。どちらの自転車にも前かごに拡声器が固定しており、声が有権者に十分届くようしつらえてあった。あえて自転車での選挙区回りを選んだのは、車で回るよりはるかに顔と名前をよくおぼえてもらえるためである。しかも、北野が年を重ねて相貌が醜悪になったのに対し、麻衣香は美しい盛りである。人は顔じゃなというが、男性だけでなく、ときに女性をもふり向かせるその美貌は少なからずアドバンテージになると考えた。

 麻衣香は背後に彩花を従え、選挙区内の人が集まるところにくまなく自転車を走らせた。そして、己の実績をアピールし、政策を論じ、笑顔を振りまき、一人一人と握手をかわし、精力的に動き回る。すると、徐々に麻衣香の周りに人が集まりだし、メディアが命名した「スーパー女性官僚・黒川麻衣香」の異名を誰かが大声で叫ぶと、それがまたたくく間に有権者の間に広まった。そのことがさらに多くの人を引き付け、3、4日の間に人だかりは北野のそれに匹敵するほどになった。

 それだけ精力的に動くとさすがに腹が減るし体力も消耗する。麻衣香と彩花は一日三食肉を食らい、夕方近くになると一本1000円もするスタミナドリンクを飲んだ。それでも、いくら若いとはいえ、事務屋一筋でやって来た二人にとって、声を張り上げながら一日数十キロ自転車をこぐのは過酷な労働と言わざるを得ない。しかも一年で最も寒い時期である。一週間もすると、麻衣香は熱を出した。

「姐さん、今日は休みましょう。いえ、お願いだから休んで。ここで倒れたら勝てるものも勝てないわ。その代わり私がSNSに投稿しまくってアピールしておくから、ね、そうしましょう」

彩花が目に涙をためて訴えた。

「ばかね。私を誰だと思ってるの。鉄の女・黒川麻衣香よ。こんなところで倒れるほどじゃないわ。とりあえず、すぐに病院で点滴を打ってもらって、それから出陣よ。彩花はスタミナのつく食べ物を思いつくだけ買っておいて。それから、あなたもできるだけ休んでおきなさい」


 選挙戦も中盤を過ぎた頃、手ごたえをつかみつつあった麻衣香に、北野陣営から醜聞がもたらされた。無人島に囚人を滞在させていたころ、とある受刑者と裏取引をし、麻衣香にとって遺恨のある受刑者に嫌がらせをさせたというものだ。例の下剤混入事件である。裏取引をした岸部貫一はまだ出所していないはずだ。なぜ漏れたのか。それよりも、自転車をこいで行く先々で裏取引の件についての釈明を求められ、麻衣香が答えに窮すると、人々が離れて行くのがつらかった。

 そんななか、一人の人物が麻衣香を窮地から救い出した。奇しくも北野と同じ芸能界の大御所、森田義一もりたよしかずである。二人は常におのれの出演する番組の視聴率を競い合い、プライベートでも犬猿の仲だとうわさされていた。そんな森田が麻衣香の後ろ盾となったのである。森田は、「黒川麻衣香を総理大臣にする会」なるものを結成し、幅広い人脈を生かして、若手からベテランまで人気のある芸能人たちを入会させた。そして、麻衣香が行く先々で彼らを伴って応援演説をし、有権者たちが醜聞のことなど忘れてしまうほどのマイクパフォーマンスを披露した。その効果は絶大であった。何しろ、新人で国会議員の経験もない麻衣香を総理大臣にするというのだ。世論に影響力を持つ人物が、それほど麻衣香を買っている。それが黒川麻衣香の名声を再び押し上げたのである。

 その日の選挙運動のあと、麻衣香と森田は、会のメンバーを含み10人ほどで会食した。

「森田さん、本当にありがとうございます。森田さんが応援して下さらなかったら、このままずるずる負けるところでした」

「おれはね、あんたのような人物こそこの国を率いるのにふさわしいと本気で思ってるんだよ。もちろん時間はかかるが、おれが生きてる間には必ず実現させてみせるからね。ところで、選挙運動の最終日なんだけど、横浜スタジアムを押さえておいたよ。人気芸人や歌手も呼んであるから、スタジアムは有権者であふれるだろうね。そこであんたが最後の演説を行うんだ。どうだい、面白い趣向だろう」

「何から何までありがとうございます。横浜スタジアムの件、お言葉に甘えさせて頂きます」

「ところで黒川さん、あんた酒も飲んでないのに顔赤いけど大丈夫かい」

「ええ、少し熱がありますが、一晩眠ればすぐに引くと思います」

「スタジアムには万全の体調できてくれよ。でないといいパフォーマンスができないからね」

「もちろんです。体調管理もできないようでは総理大臣など絵に描いた餅ですから」

その言葉を潮に散会し、三々五々帰路についた。

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受刑者無人島送り計画と女官僚の野望 深谷惣太郎 @pointmote

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