花屋とポップ・ミュージック
あざらし
第1話
生育不良で引き取ったガーベラが、不器用に花をひらかせた日だった。
僕はリビングのテレビに懐かしい顔を見つけた。もう十年は会っていない、高校時代の友人だ。僕は、「イチ」と呼んでいた。ぱっとフルネームを思い出すことはできなかったし、記憶にある姿とテレビの中の姿もきれいには符合しない。なのに、不思議とひと目見てその人だとわかった。
イチはスタジオで歌っていた。スリーピースバンドの中心で、金曜日のプライム帯に。
軽快なエイトビート、キャッチーなメロディのポップ・ロック。そのバンド名も「花ひらく」という曲名にもピンとこなかったけど、さわりのフレーズにはどこか聞き馴染みがあった。つい最近に聞いたような気もする。もしかしたら、店の有線で流れたことがあったかもしれない。
かつての友人がテレビに出ていることに柄にもなく興奮して、僕はテーブルの上の携帯を拾い上げた。僕がイチと関わりを持っていたあの頃から、もう何代も端末は変わっているけど、内部データはずっと残したままだ。イチの連絡先も消していなかった。
長らく触れずにいたデータはメモリの奥底に埋没している。どうにか探し当てた、その電話番号をタップする指先が、いくらか躊躇いを覚えた。番号は変わっていない前提で、突然の連絡は少し厚かましい気もする。とはいえ、お祝いのメッセージを送るくらいは許されるだろうか?
久しぶり。テレビ見たよ、驚いた。やっぱり音楽続けてたんだな――
イチの歌う姿と端末とを見比べながら文字を打ち込む。
ふと、マイクを寄せるその口元に、言いようのない寂しげな印象を感じた。
古びた記憶の錆が剥がれて、堰を切った水のように溢れ出しそうになる。
イチは、本来は僕と親しくなるようなタイプではなかった。僕は園芸部で、向こうは軽音部。不良と言うほど素行の悪いやつではなかったけど、学年では有名なちょっとした問題児がイチだった。気まぐれに授業をサボったり、気に入らない教師にたびたび反抗したりする。その手の高校生は人気者になるか疎まれるかのどちらかで、イチは後者だった。
僕はと言えば、教室の隅で窓の外を見てばかりいるような生徒だった。いじめられていたわけではないし、孤立していたとも思っていない。ただ、友達と呼べるような存在とは無縁だった。
僕とイチが歩み寄ったのは、要するに独り者同士が惹かれ合ったと言うのが手っ取り早い。
僕が花を植えていた実習棟前の花壇から、見上げると二階にある軽音部の部室を少しだけ覗けた。アンプやチューナーを雑多に押し寄せた窓辺によくイチはいた。そこでギターを弾いているのを何度となく見かけることができた。たまにアコースティックを、たいていはエレキを。愛用していたのはフェンダー・テレキャスターだった。
ちゃんと訊いたわけではないから確証はないけど、どうやらイチは部内でバンドを組んでいないようだった。だからいつも部屋の隅でひとりギターを弾いていて、見下ろすイチと見上げる僕、たまたま目が合う条件が揃っていた。
イチは校舎からのろのろと出てくると、僕に向かって「よう」と手を挙げた。同じクラスだったから、初対面は済ませている。僕も「よう」と返した。
種を土に埋める僕のそばに、イチはかがんだ。
「何植えてんの」
「言ってわかるかな。ノースポール」
「ああ……なんだっけ。カンシロギク?」
「そう」
「もう冬だもんな」
「そうだね」
ひどく淡々とした会話だったけど、僕がイチに対して好感を持つには充分な密度だった。イチが僕にどういう印象を持ったかは定かでない。ただ、それほど悪い印象は与えなかったらしく、その日から、イチは僕の花壇をたまに訪れるようになった。
もともと僕たちは毛色が全然違っていたから、驚くほど話が盛り上がったことなんて数えるほどしかなかった。多くの場合は穏やかに、僕がそのときに育てている花の話をするか、イチがそのときに聴いているバンドの話をするかだった。僕はひとりでいる時間が長い都合上、音楽を聴くのは好きだった。イチの話は退屈しなかったし、楽しいとも思った。僕の知らない、僕の好きそうな音楽をイチは知っていた。僕から持ちかける話題がイチにとって有意義だったかというと、その自信には欠けてしまう。でも、少なくとも、イチは授業に向かう姿勢よりもよほど熱心に僕の話を聞いてくれていた。
ときおり話すクラスメイトという関係性が生まれてから、僕は幾月ものあいだその間合いを保ち続けた。もしも僕がもう少しだけでも積極的だったなら、もっと早い段階から友人を名乗れていたと思う。僕はひとりでいることに慣れすぎて、人との距離を詰めるのが本当にへただった。
ノースポールが咲き始めた頃、僕たちの関係にやっと新しい名前が付いた。きっかけは一枚のチケット、踏み出したのはイチからだった。
「見に来いよ」
いつもの花壇で、イチはいつもよりほんの少しぶっきらぼうだった。
「お前なら楽しめると思う」
言うまでもなく、そのチケットはライブハウスの入場券だった。地元ではいくらか名の知れたところで、イチの行きつけだという。チケットには複数のバンド名が印字されている。そのうちのひとつが、イチがギターボーカルを務めるバンドだった。
チケット代は今回に限ってイチの奢りということで、拒む理由もなく僕は会場へ赴いた。
僕はその手のライブに参加するのは初めてだった。個人経営のこぢんまりしたライブハウス、外観の地味さにも観覧スペースの狭さにも驚いたけど、なにより驚いたのは、その空間を充たす熱だった。人口密度が高いからとか、きっとそれだけじゃなかった。ねじが外れたように昂ぶる観客、鼓膜を突き刺す音圧、死物狂いのパフォーマンス。どれを取っても途轍もない熱量だった。
どのバンドも、いま思うとどこか荒削りだったけど、とても魅力的だった。中でも僕が最も惹きつけられたのは、やはりというのか、イチのバンドだった。音楽について素人だった僕にさえわかった。間違いなくその日聴いた音楽のどれよりも、イチの楽曲は難解で、技巧的で、エモーショナルだった。
自分でも手に負えない複雑な情動が、僕の心を充たして発火した。激しく焼け付いた、火傷の跡は、きっと死ぬまで消えない。
イチは会場から駅まで僕を送ってくれた。道すがらに、僕はうまくまとまらない感想をもどかしくも伝えた。慣れない興奮の渦中にいて、数ヶ月踏み込めずにいた間合いのことなんて、もうすっかり忘れていた。
イチは少しだけ照れたように笑った。
「流行りの音楽じゃないかもしれないけど、ああいうのが好きなんだ。こだわりっていうのか」
ライブ終わりの高揚感のせいにして、僕たちは恥ずかしい話をした。将来の夢。僕は趣味の園芸で生計を立てたいと言った。イチは、もちろん音楽のことを語った。
「有名になりたいとかは思ってない。うちらみたいなバンドってあんまり表に出ないからな。……だから、やりたいことだけやって生きてたい。望むのはもう、それだけ」
僕にプログレッシヴ・ロックを教えてくれたのはイチだった。
いまにまで続く音楽の趣味。あの一日、ほんの三十分ほどのステージに、いったいどれだけの影響を受けたのか。
僕ははっとして、携帯をテーブルの上に戻した。
番組の中、イチのための尺は長めに取られて、ほとんどフルコーラスで歌うことを許されているようだった。二度目のサビ、かつてより丸みを帯びた詞とアクの抜けた曲。
いい歌だとは思う。でも、僕が好きだったイチの歌じゃないことに、気付いてしまった。
昔の親しみと、いまの隔絶と、祝福したい気持ちとしたくない気持ちがないまぜになって、僕はため息を吐いた。なぜかイチが寂しげに見えていた。あるいは、僕の感じた寂しさがそういうフィルターをかけただけかもしれない。
曲が終わる。かつて得られたあのわけがわからなくなるような情動は、ついに訪れることはなかった。
僕はベランダに出た。手には円盤型の古いCDプレイヤーを持って。
エアコンの室外機の上で、ガーベラの花が揺れている。小さな鉢に、僕は確かめるように指を添わせる。土はほどよく湿って、葉は瑞々しい。店に入荷してからこちら、丁寧に世話してきたつもりだったのに、このひと株はわずかにゆがんだ花をひらかせた。生育の途上で蕾に傷が入ったり、ストレスを感じたりすると、花は奇形になることがある。ほんの小さなひずみだ。それでももう、残念ながら売り物にはならない。数日前、店長に処分しておくよう頼まれて、僕は持って帰ってもいいですかと訊ねた。
これが僕の花だ。花卉栽培に携わろうとした僕は、進路が少し逸れて花屋の店員に着地した。夢が叶ってよかったじゃないと言われることもあるけど、本当に望むままに咲くことができたわけじゃない。
イチの音楽を、イチ自身はどう思っているだろう。プログレが好きだったイチ。ポップスを歌うイチ。イチは、ミュージシャンを目指してミュージシャンになった。傍目からは花ひらいたようにも見えるだろう。
イチが心から満足しているならいい。そうでないなら、僕からの連絡なんてきっと煩わしいだけだ。どちらにせよ携帯でメッセージを送るのは控えておくべきだと思った。
僕はイヤホンを耳に挿した。プレイヤーにはずっと、イチから勧められた『こわれもの』を入れていた。
いまでも。
いつか……。
いつか、イチが大きな舞台でライブをする日が来たら、そのときは僕から花を贈ろう。僕とイチにふさわしいフラワースタンドを、心を込めて。
花屋とポップ・ミュージック あざらし @yes-90125
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