『純愛』君からの手紙・・・

笹岡耕太郎

言い訳しないで・・・

             プロローグ


 窓越しに、マンションの四階から見える四角い空は鉛色に覆われていた。

季節が冬に向かって歩き出していることに疑いようもなかった。木の枝には、

すでに纏う物がなく、木々の下に敷き詰められている黄色い絨毯のような落葉も

冷たい風に踊らされ、落ち着きもなく流されている。

このマンションに住み始めて、何度目の秋の終わりの風景であろうか・・・

はっきりとは思い出せないほどの月日が、価値を持たず無駄に流れてしまったようだ。朝倉健二は、この秋で四十八歳を迎えていた。


 午後からさらっていた数曲と合わせて二十曲分の譜面を纏めると、『ギブソン  レスポール』がすでに入っているギターケースの中に入れ、蓋を慎重に閉めた。

夜のステージが始まるには、まだだいぶ時間を残していたが、朝倉は出かけることにした。どんなにエアコンの温度を上げたとしても、心が温まって行かない気がした。こんなことでステージに影響の出ることなど、プロとして極力避けなければならないと考えていたのだ。

朝倉は、冷たい外気に身を晒すことになっても、手を温める習慣は忘れないでいた。

「式は無事に、終わっている頃だろうか?」考えまいとしていた脳裏に、重い言葉が抑制も効かずに浮かんだ。気になっていたことは、否定の出来ない事実である。

黒いアルファロメオ ジュリエッタのドアノブに掛けた手は、革の手袋をしていた

にも関わらず、冷たさに痺れた。


 三日ほど前に、大学時代から親友の高西秀樹から妻の葉子が亡くなったという連絡が入っていた。高西は、同じ経済学部の教室で知り合い意気投合した男四人組の一人であった。妻の葉子の体調が良くないことは、人づてに聞いていた。

葉子は、苦しむ闘病の末期に高西に頼んでいたことがあったというのである。

「私の命は、もうそう長くはないと思っているの… 秀樹… 最後に私のわがまま聞いてくれるかな?… 」

「いいよ、お前の望むことなら、何でも叶えて上げるよ」

「怒ってはだめよ、私、朝倉君に弔辞を読んでもらいたいのよ… 」

「・・・お前は、なんて馬鹿なことを言い出すんだ!」

「わたし、怒ってはだめだと言ったでしょ!」

「理由を言ってみろよ!」

「………………………」葉子は、その理由を明かすことはなかった。

葉子の体調を考えた秀樹は、それ以上の追及はしなかったというのだった。


「俺には、葉子が何を考えていたのか想像もつかないが、葉子の頼みだから朝倉、

 希望を叶えて上げてくれないかな?」高西は、電話の向こうで頭を下げていた。

「高西、あいにく今週は無理なんだ。昼夜ステージがあって、時間が取れない・・」

「朝倉! 葉子は俺の妻だったけれど、俺たち四人組の大事な仲間でもあったんだ。

 その葉子がお前を指名したんだ。それを、断るのか!? ステージがあるって言ったって、お前クラスの腕の奴なんて、いくらでも替えが利くだろうよ」高西の辛辣な言葉に朝倉は、返す言葉を失っていた。    

 

 朝倉は、七時からの一回目のステージに立っていた。昼夜のステージがあると口をついて出た言葉は、思わずついた嘘であったのだ。何がそうさせたのか、朝倉自身でさえ、自分の心の深層を探ることは出来なかった。

『横浜ミッドナイト・ブルー』は、赤レンガ倉庫をスタイリッシュに改装した、良質なライブを聞きながら食事もできる店という事で広い世代に人気があり総席数も140程であることから、演奏者とは適度な距離間で音楽に浸れることも評判であった。

朝倉のバックを務めるのは、気心の知れた二十年来のYGJ(ヨコハマ・グレイト・ ジャズ)トリオである。

ピアノの浜中がCm7コードで、テーマを弾き始めた。客席から早くも小さな拍手が起きる。季節に合わせた『枯葉』である。それに続くレスポールの朝倉が四拍子のリズムを刻むのだが、三小節目のコードB♭maj7をミスってしまったのだった。

ベテランの朝倉にとっても弾きなれた曲のはずである。客席には、気付かれないほどの小さなミスであったが、浜中にはいつもの朝倉らしくない心の動揺を感じ取られていたのである。


               1 六人の仲間たち


 男四人が知り合ったのは、二十八年前のことで、キリスト教系大学の経済学を学ぶ教室の中であった。教授の都合から突然休講になり、たまたま隣合わせに座っていた四人が時間を持て余したことで誘い合い、喫茶店に行ったことで意気投合したのである。そして、偶然にも隣の席にいたのが文学部だという石塚葉子と高畑由紀恵の二人であった。ここに、男女合わせて六人組と呼ばれるようになり、親密な付き合いは現在も続いているのである。

 六人は、それぞれが違った個性を持っていた。

林田は、温厚な性格から皆に愛され、和辻はリーダーシップを発揮してまとめ役となり、高西は茶目っ気のある理論家であり、朝倉はまだ世間知らずの感覚で生きる人間であった。葉子と由紀恵はいつも一緒の行動をとり、葉子の活発な性格に対して、

由紀恵は姉のように見守る監視役であったのかも知れない。


 中学時代から兄の影響でギターを始めていた朝倉は、当然のように軽音楽研究会に所属していて、六人で旅行に行った際などには、当時はやっていた『フォークソング』の伴奏などをして仲間から重宝がられていた。

そんな関係のまま四年が経ち、六人は卒業を迎えることとなった。

 朝倉を除いて五人は早くから一流と呼ばれる企業に内定が決まっていたが、朝倉といえば、音楽の道に進むことに懸けていた。音大を出ていても仕事にあぶれる世界である。難しい選択であるのは間違いなかった。

ある程度評価を受けるようになった今だからこそ、初めて分かることもあるのだ。

六人の小さなグループであっても、『コミュニティ』であることには違いがなかった。当然そこには優劣が存在するのだ。朝倉は、同じ土壌では彼らに勝てないと思ったのであろう。逃げたという表現は避けたいが、好きな音楽の世界の中でなら同じ土壌に立って勝負が出来る、そして敗れたとしても精一杯やったという自分自身へのエクスキューズが出来ると思ったからではなかったのか・・・・・・


 卒業を迎えた日から、しばらく六人が揃って会うことは無くなっていた。

全員が、社会に適合することに注力し周りを見渡す余裕すらなかったのだ。

卒業から三年ほど経った頃である。

少し社会にも慣れ、余裕の出来たらしい林田から連絡があり、朝倉は久しぶりに会うことになった。林田は、地域に根差した中小企業を対象とする信用金庫に職を得ており、いかにも林田らしい選択であった。

雑談の中で、朝倉は葉子と高西が交際を初めたという事を、林田から聞かされたのである。

「朝倉、葉子とは連絡を取り会っているのか?」

「いや、卒業以来会ったことも、連絡を取ったこともないよ」

「それは、どうしてなんだよ?」

「別に、理由なんてないさ」

林田は、学生時代から朝倉の葉子に対する気持ちを見抜いていたのだった。

「他に、好きな女でも出来たのか?」

「いや、俺なんてまだ人を食わせるほどの収入もないし、おんななんて仕事の邪魔になるだけだしな」 力のない虚勢が、朝倉の揺れる心を覆い隠していた。


 高西は、一流と評価されている『東京未来銀行』の大手町支店に勤めており、友人の間でも、出世をして行くのは間違いないと思われていた。

社会に出てから、まだ三年目である。男達にとっては、洋々と未来が広がっているように思えた時期であったのだ。誰しもが、大きな夢を追いかけ、少しでもチャンスを掴もうと、もがいていたのである。

「林田、今度高西にあったら伝えて欲しい。葉子を大事にしてやってくれってな」

「分かった。お前はそれでいいんだな」林田の精一杯の優しさであった。

「当たり前だ。俺はこの街で認められるのが第一の目標だからな。それからだ」

これは、朝倉の偽りのない本心であった。


 一年前のことであった。

朝倉が、目的もなく横浜野毛の商店街を歩いていた時に偶然目にしたものがあった。求人広告である。

スナック『アトリエ』に張り出した紙には、『弾き語りの出来る方』募集と書かれていた。店に引き込まれるように入ると、三十をいくつか過ぎたくらいのまだ若い

女が店にいた。まだ、六時にもなっていない。

「ごめんなさい。まだ、お店始まってないの」嫌味のない声である。

「いえ、僕張り紙を見まして・・・」

「じゃ~、弾き語りの?……」「そうです・・・」

「まだ、お若いのね。ギターは、持っていらっしゃらないのね。良かったら、これを弾いてみて下さい」女は、店の隅にあったクラッシクギターを差し出した。

「何を弾けば?」「なんでも良いから、あなたの好きな曲を……」

朝倉が弾き出したのは『Don`t explain』である。

「ビリー・ホリデーね、私も大好きよ」

「ありがとうございます」固かった朝倉の表情が、わずかに緩んだ。

「あなた、何か事情があるのね。もし、週三回でもよかったらOKよ」


 ママの名前は、メグといった。朝倉が、オーディションに受かるまで、応援をすると約束をしてくれたのである。横浜の夜の底で見つけた初めての灯りであった。


             2 葉子の揺れる想い


 林田から、葉子と高西の交際を知らされてから早くも、三年の月日が経っていた。

朝倉が、二十八歳の秋を迎えていた時に偶然にも『ホテル・ニューグランド』の前で

和辻とすれ違ったのである。朝倉は、ホテルでの最後のステージを終えたばかりであった。

「朝倉じゃないのか?」突然の和辻の大きな声に二人組の若い女性が振り返った。

「和辻、どうしたんだ、こんなところで?」

「クライアントに付き合わされてさ。宮仕えは、辛いもんだよ」

和辻は、『みずき銀行』の係長に出世したと、林田から聞かされていた。

「朝倉は、まだギターやってるのか」ニュアンスに否定的な意味を含んでいる。

「うん、まあな・・・」朝倉は、曖昧に答えるしかなかったのである。

ホテルでのステージの仕事も始まり、三年前と状況は変わりつつあったが、まだ不安定な生活ではあった。

「ところで、高西のこと聞いたか?」

「何のことだ?」

「葉子に結婚を申し込んだらしいよ。葉子がOKしてくれれば、また皆で集まる理由が出来るって、喜んでいたけどな」

朝倉は、自信ありげに歩く和辻の大きな背中を見送った。

ギターケースが重たく感じられた。

「これで、良かったんだ」と思い込もうとする心に、秋の冷たい風に煽られて散った一枚の落葉がす~と、入り込んで来た。


 翌日が『ニューグランド』での今年最後のステージとなった。

次の仕事は、まだ決まっていなかった。確かに、朝倉クラスのミュージシャンは、

景気に流されてしまうのだった。まだ、メグの店『アトリエ』での仕事は続いていた。

『星に願いを』の最後のコードFを弾き終えると、レスポールの柔らかい音が木製の天井まで届き、静寂の中に消えて行った。名残を惜しむようなアプローズがそれに

続く・・・・・・・


最後の客を見送ったあと、朝倉がレスポールをケースに仕舞い顔を上げた時に、椅子から立ち上がり手を振る女性の姿が目に入った。照明で、顔は分からなかった。

「朝倉君、演奏素晴らしかったわ」

ステージに近づいた女の顔を証明が照らした。葉子であった。

六年という長い時間が縮まって行った。

「葉子じゃないか!」朝倉がステージを降りると、葉子がかけ寄り抱きついてきた。朝倉は、葉子を抱くと、思わず力を込めていた。まるで、二度と離さないと思っているかのように・・・

葉子は、少しも変わっていなかった。卒業式が終り再会を誓ったあの時の葉子のままであった。

「葉子、どうしたんだ? 急に・・・」言葉が続いて行かない。

「ちょっと、会いたくなっちゃった!健二、元気だったの?」

「元気さ!身体はね」「何、その言い方。ちっとも昔と変ってないのね」


               *


「葉子、高西と一緒になるんだってな」朝倉は、振り切るように話題を変えた。

「… まだ、決めてないの……………………」

葉子の精一杯の告白である。

「決めてないって、どういう事だよ?」朝倉は、白々しく葉子を責めた。

葉子の瞳から、涙が溢れ出る。しかし拭おうともしない。

朝倉は、葉子の本心が分かっていたのだ。この会わなかった六年という月日の間も。


「朝倉君は、どうして私を放っておいたの?私の気持ち分かってたくせに、狡いよ!

卒業してから、六年も待っていたのよ。私だって、今年で二十八になるんだよ!」

葉子の声に促されたかのように、朝倉の眼からも涙が溢れギターケースの上に落ちて行った。葉子を再び抱きしめ、朝倉もすべてを告白したかった。

「もう少し、待ってくれないか。せめて、俺がもう少し、這い上がれるまで・・・」

しかし、言葉にはせず飲み込んだのである。


「葉子、俺たちの関係は卒業とともに終わっているのさ。今は、懐かしい友達としての感情しか残っていない。俺には、いま好きな女がいるしさ、正直迷惑なんだけどな・・・」

そして、やっとの思いで最後の言葉を絞り出したのだ。

「葉子、高西を信じて付いて行くんだ。きっと、あいつとなら、幸せになれるから

 ・・・・・・・・・・」

それだけを話し終えると、朝倉は葉子に背を向けたのである。自分に対する不甲斐なさから溢れる涙を葉子に見られたくはなかったのだ。

朝倉は、肩を落としてホールを出て行く葉子を見送ろうともせず、いつまでも高い天井を見上げていた・・・・・・・・・・


                3 葉子の結婚


 もし、三年前であったなら、葉子の美しさもより際立っていただろうと、朝倉は、思った。しかし、手の届かない存在になってしまったからにはどうでもいい事のように思えたのも事実である。

進行役は、和辻が勤め学生時代と変わらぬ手際の良さを見せつけていた。

式は滞りなく進行し、歓談の時を迎えた。

「皆さま、お待たせしました。お食事を楽しみながら、ギターが奏でる美しい音楽をお楽しみください。高西君と葉子さん共通のご友人である朝倉健二君の演奏です。

バックを務めてくれるのは、『ニューグランド』のステージでお馴染みのYGJトリオの皆さんです。第一曲目は、『My Favorite Things』です。拍手を持って、どうぞ!」

朝倉は、バックのワルツのリズムに乗り、Emコードで弾き始めた。二人で初めて観た映画の挿入歌である。朝倉は、心の中で歌詞を代えて歌った。

      白いドレスに 細い指先

      長い睫毛に  濡れた唇

      悲しくて泣きたいときには

      思い出そう

      今日のキミの永遠の姿を・・・


 楽しそうに聴いていた葉子の顔が一瞬曇ったかのように見えた。

朝倉は、慌てて葉子から目をそらすと、横浜にいるメグの顔を無理に

思い出そうとした。もう、全ては過去の出来事でしかないのだ。

歩きだそう・・・・・

式が終わると、皆のすすめた二次会への出席を断り、足早に東京を離れた。

どんな境遇にあろうとも、横浜の街が朝倉の心休める場所であることには違いなかったのである。

どんな人間にも、心が癒される場所というものがあるはずである。それが、実在の場所であったり、また空想の世界であっても構わないのだ。いわば、心の拠り所である。朝倉にとっては、それが音楽であり、音楽を生み出すエネルギーを与えてくれる横浜という街であった。

第三京浜を抜けると、横浜に入った。街に灯りが灯り始めていた・・・・・・・


              4 追想 手紙


 高西と葉子の結婚式以来、二十年の歳月が流れていた。

その間、朝倉と高西は同期会などで会う機会はあったが、一度として葉子に会い、また葉子を話題に乗せることもなかった。

高西は、皆の予想通り出世をなしていて、今は大手町支店の副支店長という要職にあった。一方、朝倉も今では自分のバンドを持ち、何枚かのCDをリリースするまでになり、知名度はジャズファンの間では高まっていた。

 朝倉が葉子の弔辞を辞退した時に、高西が言い放った「お前クラスの替えぐらい幾らでもいるだろう!」という言葉は、今となっては正確な事実ではなくなっていたのである。学生時代とは違い、音楽をたいして聴かなくなっていた高西の耳には、朝倉の活躍が届いていなかったのだ。


 葉子の葬儀が終った晩に、林田から朝倉に連絡が入った。

「高西からお前に伝えてくれと、頼まれたことがあるんだよ。あと、これが重要なんだけどな。俺が生前の葉子の見舞いに行った時のことなんだけど、お前宛ての手紙を預かったのさ。一か月前のことになるかな」

「手紙って、どういう事なんだ?」

「要するに、遺書ってことだろう。とにかく、今夜中には届けるから、待っててくれないか」林田の電話は、ここで切れたのである。

朝倉は、すぐには理解できないほど疲れていた。


 小一時間程たって、林田が黒服のまま朝倉の前に現れた。

「これが、葉子からお前宛ての手紙だ。くれぐれも、死後に渡して欲しいと頼まれていたものだ。高西は、何も知らないはずだと思う」

手紙は、ピンク色の小さな花びらをあしらった、いかにも女性らしい優しさを感じさせるものであった。文字は少し乱れはしていたが、死を予感させるものではなかったことに、朝倉は安堵した。


 【 朝倉健二様


    朝倉君の最近の活躍、陰ながら応援していました。ライブにも行かせてもら 

   ったし、CDも夫に内緒で聴いていましたよ。特に好きだったのが、

   『Yokohama Breeze』の入ったアルバムだったかな。過去形で書かれていて

   少しおかしいと思っているわよね。朝倉君がこの手紙を読むころには、多分

   私は旅立っていると思うからなのです。

    高西と結婚をし、二人の子供にも恵まれ本当に幸せな結婚生活を送ること

   が出来ました。高西には、感謝の気持ちしかありません。

   そういう意味では、私の選択は間違ったものではなかったのです。

    あなたは、二十年前に私が訪ねた最後の夜のことを覚えていますか。確か、

   最後の曲は、『星に願いを』でしたね。私は結婚した後も、しばらくこの夜

   のことを忘れたことはありませんでした。むしろ、忘れなければと悩んだ時

   期も正直あったくらいなのですから。

    あの頃、私は高西から求婚を受けてはいましたけれど、承諾する決心がつい

   ていなかったのです。なぜなら、あなたを六年もの間待ち続けていたから。

   一言でも、「待ってくれ」の言葉が欲しかった。正直、有無を言わさず私を

   奪って欲しかったのです。あなたとなら、どんな苦労もいとわず生きていける

   自信がありました。それが、あの晩私のとった行動のすべてだったのです。


    あなたと別れた後、待たせていた結婚の承諾を高西に伝えました。彼は、

   私の気持ちを分かっていたのかも知れません。でも、何も言わなかった。

   高西との生活は楽しく、金銭的にも恵まれていました。これは、学生時代か

   ら皆が想像していた通りでしたね。正直、今頃あなたと暮らしていたなら

   どんな生活を送っていたのかしらと、考えたこともありましたけど、何時しか

   日々の生活の中で思い出すこともなくなっていったのです。


    結婚生活が十年ほど経った頃、林田君と話した話題の中で、あなたの結婚

   の話題になったことがありました。

   『朝倉君て、まだ独身なの?それは経済的な問題なの?』という私の疑問に

    林田君が答えてくれたのでした。

   『今だから、言えるけどさ、朝倉はこの先も結婚しないだろうね。本当に結婚

    したかったのは、他でもない葉子だったんだからね』

   『嘘よ!私は、振られたんだからね。すでに彼女もいるからって…』

    私には、林田君の言葉が信じられませんでした。私の驚いた様子をみ  

    て、すぐに前言を翻したのです。

   『葉子、今の俺の話忘れてくれるかな』この場に高西がいなかったことに安 

    堵したのは、私の方でした。

    私は、あなたを決して忘れてはいなかったのです。日常の中で忘れたふりを

    演じていたのかも知れないわね。

   『なぜ、あの時に一言でも言ってくれたなら、こんなに悩むことは…………』

    私はあなたを心底恨んだものでした。

    でも、それがあなたの優しさだったのですね。

    あの時の私は二十八になっていたとはいえ、十分に幼くあなたの深い思いや

    りを掬い取るほど成長はしていなかったのでしょう。

    本当にごめんなさいね……………………

    

    でも、これだけは信じて下さいね。

    正直、私はあの晩、あなたの音楽を聴くまでは心が揺れ続けていたのです。

    私の方こそ狡い女ね。

    あなたの音楽には、愛情がありました。寂しい響きですけれど、深い愛情が

    ね。音楽が終ったあと、あなたに駆け寄ったのはそんな感情を抱いていた

    時だったのです。あなたに抱かれて、心底うれしかった……………………

    

    もし、あなたと天国で会える時が来たなら、私から申し込んでいいかな?


    『 健二、私をお嫁さんにしてくれる⁉ 』           】


                                    


  二十年前のあの日のことは、朝倉も一時も忘れたことなどなかった。

二人の人生の分岐点となったあの時にはっきりと、「もう少し待ってくれないか?」

と、言えたなら俺の人生も違っていただろうと思い悩むことも数知れずあったのだ。

しかし、これで良かったと思う気持ちが「もしも、あの時…」を覆い隠していた。

朝倉は、震える手で手紙を読み続けていた。


 【 私が自分の異変に気付いた時には、もう遅かったのです。健康には、普段から

   自信がありましたし、日々の暮らしの忙しさに流されてしまっていた時期でも

   あったのです。誰のせいでもありません。病名は、あえて伏せるわね。

    絶望感に包まれる中で、私は一縷の光を見つけたのです。そして、気持ちも

   安定していきました。それは、今が私にとっての『ラストステージ』なら、

   次の世界には、きっと新しい『ステージ』が私を待っているはずだと考えた

   のです。少し、可笑しいかしら。

   それからは、死の恐怖に怯える夜も無くなって行ったのでした。私たちは、

   この世で一緒になれなかったけど、今となっては後悔はしていないのです。

   『純愛』は、若い人達だけの特権ではないことを知りました。私たちの年代

   だからこそ、その価値の美しさに気付かされることもあるのですね。

   誤解しては困るのですけれど、あなたが天国に来るのは、まだまだず~と、

   先のことで良いのです。だって、まず、あなたがすることは、可愛いお嫁さん

   を見つけることなのですから……………………

                          

                            あなたのヨーコ 】

                                    


               5 友情 溢れる涙


 十二月に入り、朝晩の冷え込みを一段と感じるようになり、季節が冬の到来を

告げていた頃、朝倉と高西は葉子の墓前で会っていた。


「朝倉、あの時は無理を言って済まなかった。お前、今では日本のジャズ界のトップ

ランナーなんだってな。林田から聞いて驚いたよ」

「いや、謝ることないよ。誰だって興味のない事には、疎いしな」

朝倉の言葉に、高西の顔が綻んだ。

「それと、もう一つあるんだが・・・」高西は、言いにくそうに言葉を選びながら言った。

「葬儀の終わった後、林田がある事実を話してくれたのさ。お前が、ヨーコの弔辞を

 断った訳だが、単にスケジュールの都合ではなかったという事だった。

 俺とお前は、在学中からヨーコをめぐってのライバル関係でもあったし、ヨーコが

 俺を選んだことで、正直当然だと思ったのさ。悪いけど、当時からお前は、誰の目 

 にも劣等生の将来性のない男に思われていたしな。 

 でも、林田から聞かされたのは、ヨーコは最初にお前を選んでいたという事実だ

 った。俺と、付き合っていた最中にかかわらずだよ。


 もっと、分からないのは、お前がヨーコを振ったという事だ。林田によれば、

 ヨーコの幸せのためにお前は身を引いたんだってな。

 お前! 何カッコつけてんだよ。ヨーコにお前の気持ちを正直に伝えるべきだっ

 たんだよ! 俺に一発殴らせれば、済んだことなんだ。

 そうすれば、お前もヨーコもこんなに苦しむことはなかったはずなんだ・・・」 


 「高西、二十年も前の話だ。俺も今となっては、当時の感情を正確に説明すること

  は、出来ないのさ。でも、ヨーコの幸せだけを考えていた訳ではないと思う。

  要するに、意気地がなかったのさ。本格的な音楽の教育を受けていた訳でもな

  く、情熱だけで成り上がれるほど甘くない世界であることは分かっていた。

  六年も、もがきながらもやっていて、自信を無くしていた時期でもあったのだ

  ろう。

  お前に勝てるはずもなく、ヨーコの前で自分のみじめな姿を晒すことになるの

  が、正直怖くなった。それが、本当のところだろう」

  

  「朝倉、それはお前の世界で言えば、『Don`t explain』言い訳しないで・・・

   だよな。・・ほんとに、お前って奴は・・・妻を亡くしたばかりだと思って、 

   弱ってる男に気を使うなよ。ヨーコがお前に惚れていた訳が分かったよ」

   男二人は、溢れる涙をぬぐおうともせず、向かい合っていた。

   しかし、次の瞬間には、思い切り目を擦りながら笑い合った。

   「やけに、『Smoke Gets In Your Eyes』だな」と朝倉が茶化すと、

    高西が負けずに言った。「I don`t care!」


   「朝倉、本音を言うとな、お前に感謝しているんだよ。俺は、ヨーコと暮らし

    て多くの喜びを貰ったし、この点ではヨーコも同じだと思う・・・

    ありがとな。だけどな、例えお前が生涯三流の音楽家であったとしても、 

    ヨーコは、後悔もせずお前への愛を貫いていたと思えるのさ。

    そんな女なんだよ、あいつは・・・・・。

    今度は、俺がお前にお返しする番だな・・・。

    三十年後、いや五十年後でも構わないからお前が天国に行った時には、

    ヨーコを捜し出して、一緒になってあげてくれないかな、きっと!

    男の約束だぞ!」

     高西の言葉を聞いて安心したかのように、線香の火が消え煙だけが空に

    舞い上がって行った。


               エピローグ

  

  満開の桜の花びらが散り始めている。

時折強く吹く風に流され、空高く消えていった。

午後六時になっても、外はまだ十分な明るさを残している。開場が始まると、

心待ちにしていた客たちが入口に吸い込まれて行った。

『横浜ミッドナイト・ブルー』の客席にいるのは、朝倉とYGjトリオの多くのファンと、お馴染みの三人の男達、そして『アトリエ』のオーナーメグであった。

朝倉が、メグを皆に紹介した。「こちらが、僕が売れない頃からお世話になっているメグさんです。今は、ステージを持っている経営者です」

「朝倉君、余計な事言わなくてもいいの」メグは、少し恥ずかし気に言った。

「あれ、もしかして二人は?」和辻が真面目な顔で茶化した。

「私って、若く見えるのかしら?うれしいわ」メグの言葉に、空気が和んで行った。

テーブルの上には、ヨーコの写真が小さなフレームの中に納まり置かれている。

こうして、男四人全員が揃うのは、高西と葉子の結婚式以来二十年ぶりのことであったのだ。

 予定通り、七時きっかりにライブが始まった。YGJトリオのリズム隊の音に乗って

レスポールがマイナーなメロディを醸し出していく。

曲は、ビリー・ホリデーの『Don`t explain』である。

朝倉は、演奏しながらこの曲の持つ意味を反芻していたのだ。

    

    今は 何も言わないで もういいの

    一緒にいてさえ くれたなら

    あなたは 私の喜び そして 苦しみなの

    私の命は あなたのものよ

    だから 言い訳は もういいのよ………


 一曲目が終わると、四人は立ち上がり惜しみないアプローズを送った。

少し照れた様子の朝倉の耳に、ヨーコの声が突然聞こえて来た。

「健二、二人して、二十年前のあの日の夜に戻りましょ!」

朝倉が声のする方向に顔を向けると、心は二十年前の夜に立ち戻り、ヨーコともう一つの人生を歩み始めていた・・・・・


おわり



              あとがき


 このような短編を書いてみたいと思った動機に、たまたま見ていた洋画の中に友人の妻のために弔辞を読んで欲しいという依頼があったにもかかわらず、それを断ったというシーンがあったからなのです。その理由は覚えていないのですけれど。

書き進めるうちに、『純愛』とは何かを掘り下げてみたくなったのです。

大部分がフィクションでありながら、読み返してみると私小説風でもありました。

学生時代の思い当たる人達、ごめんなさい。


 誰にとっても、「もし、あの時・・・」と思い返す場面はあるのでしょうね。

でも、他を選択しなかったから今があると考えれば、これからも悔いなく生きて行くうえで、必要なことであるとは思うのです。

『純愛』の定義は正直難しい。簡単だと思える人は、多分プラトニックな愛だと言い切るでしょう。それは、恋に憧れる恋愛経験の少ない若年層の方かも知れません。

はっきりとは、分かりませんが・・・

 僕は、色々な恋愛を経験した二人だからこそ、お互いを思う理解が深まりその愛が長く続く知恵というものを獲得出来るのだと思うようになりました。

『純愛』とは、相手に見返りを求めない事、そして、一途に想い続けることだと

解釈しています。

でも、人それぞれが考える『純愛』の形があるのでしょう。それを改めて行間から

考えてもらえるきっかけにでもなれば、この短編を書いた意義もあると思えるのです。


笹岡耕太郎





    

     

    

    


  

 


         





    

    



 

      

 





















 



 

      

 





 

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